2009年12月31日木曜日
ヤルヤル詐欺
光陰矢の如し、全く速い、一年は音速よりも早く過ぎ去っていく気分だ。
残された生命も少ない67才の貴重な一年もあっという間に終わろうとしています。今年の締め括りは民主党のヤルヤル詐欺でしょう。
民主党は新しい政策の財源はあると言い切ってマニフェストをつくり国民に約束しました。仕分けという今迄にない行政を行い新しい風穴を空けてくれました。頑張っている姿は見られます。
民主党びいきの人達はよくやっている、もう少し長い目で見てやろうと言う人もすくなくありません。でもそういう見方は甘いと私は思います。
子供手当にしても財源は有ると言い切っていました。しかし無いので大幅な国債発行で実施します。
地方にも負担を求めると言っています。無かったら借金をして行う。こんな政治なら誰でもやります。私だってやれますよ。皆様そう思いませんか。
財源はある、何とかすると言い切って国民に約束をしました。しかし財源は無いので借金をし、暫定税率廃止を取り止め、高速道路の無料化も不可能です。
結論としては思惑違いだった、勉強不足だったのです。それによって約束をほごにしなければいけなかったのです。これは真実でしょう。
何故その事をきちっと国民に謝らないのですか。約束した事は出来なければあやまる。民主党は人気は4年もあるのですから、当初の思惑に外れたけれども任期満了までには必ずこういう国造りをしますからと弁明をすればいいのではないですか。
努力していると主張するばかりで約束をほごにする姿は子供の教育上よろしくありません。そういう姿を見ていると自民党と何らかわりありません。
結局政治家という職種の人間は誰がなってもそういうものだという事になり国民は全く希望が持てなくなってしまいます。
民主党の政権はあらゆる点で最後の希望の星なのです。その事をよく認識して国民に希望のもてる政治というよりも人間性を発揮してほしいです。
必ずや来年は希望の持てるものにしてほしい。
何をやっても最後は人芸性が出て来ます。素晴らし人間性を発揮して下さい。
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2009年12月26日土曜日
無常
水上勉先生は良寛という著書の中で般若心経に書かれている「色即是空」が仏教の基本だと書かれています。
私の家は浄土真宗ですから般若心経は唱えません。他力と自力と相反するようにおもいますが、そんなことはありません。
浄土真宗では
一期は夢ぞ 狂わんと 言えどもせんなき幻の 人の命は石火より
はやく消えゆく宿命なり われが先かや 人や先 朝の紅顔たちまちに
無常の風の吹きくれば ふたつの眼とく閉じて ただ白骨ぞ残りけぬ
ただ白骨ぞ残りけむ
と我々に無常を唱えて説教をいたします。
大宇宙の摂理からすれば、私たちの命も含めて全てがあっという間に移り変わっていきます。色即是空の空とは、そういう無常のものに捉われるなという意味だそうです。
瞬時に移り変わっていく無常のものに捉われるなということでは、自力も他力も仏教の基本は同じです。
私たちは長生きしたい、賢くなりたい、金持ちになりたいと様々な色の世界に捉われます。捉われることによって様々に苦しみ悩みます。確かに捉われなければ心豊かに生きていけるのですが、欲深い我々凡人には無理なことです。
無理なことですが色即是空の意味を知って己の心に問いかけていれば、少しは己の心を制御してくれます。
私も昨年は脳腫瘍を患ってもうだめかと思いましたが、普段から最後というものを意識していましたので恐怖心は湧きませんでした。
幸い何の後遺症もなく無事生還することができました。
もう少し頑張れという神のありがたい声だと思い、精一杯前向きに生きようと心を新たにしました。
その一つの試みにパソコンが出来ませんでしたので、パソコンを勉強しました。パソコンを初めて一年と少しです。
パソコンは奥が深くて我々年寄りには難しいです。まだまだ分からないことだらけですが、私のような者の意見でも発表できるありがたい機関ですから、遊びの具として用いるだけでなく少しでも人様の役に立てる用い方をしたいと頑張っています。
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2009年12月22日火曜日
死の直前
臨死とは 現世と冥土 渡し船
私はこれまでに3度死にかけたことがあります。
一度目は小学校6年生の時です。
今は武庫川で泳ぐ人はいませんが、私たちの子供のころは武庫川は水泳場になっていて、多くの大人や子供が泳いでいました。
武庫川は阪神の武庫川駅の北側~旧国道までの尼崎市側の川渕は深くなっています。その深間で妹が溺れていましたので助けに行って、私も妹に抱きつかれて身動きが出来なくなって一緒に溺れてしまいました。
意識を回復した時は河川敷に寝かされていました。どこかのおじちゃんが助けてくれたと聞きました。
溺れて死んで行く時は、皆さんはさぞ苦しいだろうとお思いになられると思うのですが、そんなことはありません。
大きく一息水を飲み込みますと直ぐに意識はなくなり、分からなくなります。
例えば、首つり自殺をする時でもさぞ苦しいだろうと思いますが、体重が首に掛った瞬間に、苦しいと感じる以前に意識はなくなります。
高い所から飛び降りる時でも、どかんと地面に叩きつけられるまでに意識はなくなり、苦痛は感じないのではと思います。
人は現世から直ぐに冥土に行くのではなく、現世~臨死状態~冥土~来世という順序になっており、臨死状態に陥れば苦痛は意識しなくなるのだとおもいます。
そう考えれば末期癌などで亡くなる人は気の毒です。
現世の終盤に抗がん剤治療で苦しむだけ苦しんで、そして大抵のひとは助からずに臨死状態~冥土の旅につかなければいけません。
臨死状態になれば意識は朦朧として苦痛は感じなくなるのですが、それまでは家族の者でも、もう死なせてやって欲しいと思うほどに苦しみます。
苦しんでも蘇って来ることが無ければ臨死状態になる前に、苦しまないで死ねる道を自分で選択できるようにして欲しいです。
生きているという事は息をしているということではありません。
喜怒哀楽を感じることが出来なくなるという事は生きているという事ではありませんので死なせて欲しいのです。
そんな状態で生きていても本人は勿論のこと。家族や社会に多大の迷惑をかけてしまいます。
人は早かれ遅かれ死亡率は100%ですから、死に対する覚悟をしっかりと持って生きることが大切です。
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2009年12月19日土曜日
昨年のトップニュースは脳腫瘍
極楽を 彷彿させる 花やかた
自身の昨年のトップニュースは脳腫瘍です。
高熱が出て三日間寝込みました。熱が下がって床から出ますと目が霞んでいます。
知人は「白内障やろう」年を取れば誰もが成るからと言ってくれました。
自分もそうではないかと思い眼科に行きました。綿密に検査をして頂いて先生に呼ばれて診察室に入りました。
「目はどうもない。これは脳腫瘍や間違いないと」と断言されました。
「えーまさかそんな」と思いましたがその段階では大きな動揺はありませんでした。
今日は西宮協立病院は午後も診察をしている筈だから、紹介状を書くから今から行きなさいと言われました。
病院に行くまでに「もしそうならどうしよう」と考えましたが大きなショックはありませんでした。
CT撮影をしてその画像を見せられてがっかりです。10円玉くらいの丸い影が映っています。間違いなく癌ですといわれました。
段取りとしてはMRI撮影をしてから具体的な手術の日取りを決めるということで帰宅しました。
万悪くその月内に転居しなければいけない事情になっていましたので、家捜しをしなければいけません。引越しの準備をしなければいけません。入院の準備もしなければいけません。
最近は個人情報漏洩防止で本人確認がうるさくなっているので、定期をそのままにしておけば引き出せなくなるかもしれませんので全て普通にしなければいけません。
友達は協立はうまいから死ぬという事はないけれども、脳の場合は必ず手足や言語障害が出るから覚悟をしておけと教えられましたので、もし手足にまひが出て運転できなくなれば人の手を煩わせることになるので車を入院前に処分をしておかなければいけませ。
何が幸か不幸かわかりません。入院までにやっておかなければいけないことが沢山ありましたので、病気に対する恐怖と言うもには忙しさで少しは軽減されました。
それでも夜床に付けば、これからどうなるか。どうしてもそのことを考えてしまいます。
一番怖かったのは死ぬことよりも、後遺症が出て人にその後の面倒を見てもらわなければいけなくなるのではということでした。
それだったら殺してくれという気持ちでした。
日本人は1200兆円もの個人資産を持っています。それを半分にするくらいに皆さん使えば景気は浮上するのですが、国民は絶対につかいません。
年老いて私のようなことになればどうしよう。そういうときの自己防衛に使わないで貯蓄に回しています。
政治が貧困だかです。
子供手当なんて言っていますが、そういうことをするよりも、若い人たちには働きやすい環境作りを確りしておいて、若い人たちよりも年老いてから何の心配もしなくてよい環境を作れば、貯蓄なんかしなくて皆さんお金を使います。
何が恐怖かといえば、自分のことを自分で出来なくて、人に面倒を見てまらわなければいけないことです。
そういう恐怖を取り除くのが政治の課題の一つでしょう。
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2009年12月15日火曜日
生きる
吾もまた 紅葉のごとく 燃えて散れ
自分は人に1000円のお金も借りたことが無い。自分の力で生きていると自負している人も少なくありません。
親に産んでもらって育ててもらって、成人になれば自立するのは当たり前のことで、それだけで自慢できる様なものではありません。
最近は幾つになっても親頼みで自立の出来ない子供が増えていますので、そういう人に比べればましという程度でしょう。
歌舞伎の演目で親の獅子が子供を自立させるのに谷底に付き落とすという物語があります。
親の最大の子供に対する役割は、少しでも早くしっかりと自立する子供に育てるということですが、子離れの出来ない親も最近では増えています。
どんな動物も親から離れて自立することが自然の姿ですから、自立することは当たり前で、自立しているからといって、自分は人の世話になっていないと考えるのは拙いことです。
家に帰ればスイッチを押せば明りが灯って快適な生活ができます。
蛇口を捻れば美味しい水が頂けます。
そんな文化的な生活はどんなに力のある人でも独りの力ではできません。
人は社会という人の群れの中で支えられて自立出来ています。
日本は経済大国ですから後進国に多額の援助をします。現状のように不景気で国内で困っている人が多いのに何故そこまでするのか疑問視する人も少なくありません。
それでも援助をするのは、そういう貧しい国からも物をを買ってもらって支えられているから援助をします。
国も国民も全ては支え合っているのです。完全自立なんかありません。それが真理ですから私たちは生きている限り感謝することを忘れてはいけないのです。感謝の気持ちの希薄な人は真の自立者ではありません。
このままいけば近い将来は経済的には中国、インド、ブラジルなどに追い越されてアメリカや我が国は転落してしまうと言われています。
それを食い止めるのは教育でしょう。根本的な精神教育が大切です。
もっと感謝する気持ちを教育によって育むことが大切です。
強制的に義務的にやらされる勉強や仕事は苦痛しか生まれません。
感謝する気持ちを持って行う勉強や仕事は楽しくやれて、その分成果も上がります。何事も根本となるのは精神です。精神教育が最も大切です。
豊かになって少し贅沢を覚えた今の日本人は感謝する心が希薄になってきています。これでは先は不幸になります。
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2009年12月12日土曜日
長寿
なばなの里 ベゴニア館
幸若舞の「敦盛」に「人間五十年下天の内にくらぶれば夢まぼろしのごとくなり一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」とあります。
昔は医療も医薬も劣っていて、栄養条件も悪い。木綿が普及して布団が用いられるようになるのは江戸時代の中期以降ですから、それまでは一般庶民は何を着て寝ていたのでしょうか。
百姓は藁の中に潜り込んで寝ていたと言われています。
一般庶民もおそらくは筵のようなものを被って寝ていたのでしょう。
現在と比較すれば生活環境が悪かったので、風邪をひくと肺炎を併発して亡くなる人が多く、50年も生きれば平均寿命を生き抜いたと言えたのでしょう。
鶴は千年、亀は万年と言われ、長寿の象徴として崇められ吉祥として崇拝されて来ました。そのことに象徴されるように昔は如何に長生きするか。即ち長寿が人々の最高の願いであったわけです。
今は寿命は80年の時代になり、昔の人達の夢が現実になりました。もうこれ以上の長寿は誰もが願っていないでしょう。
現在のように長寿になりますと、長く生きるということよりも、どういう内容で生きるかという生き方が問われるようになりました。
長生きできる事はいいことだけど、生きる目的がなくなったり、人のお世話にならなければ生きて行けないようでは、早く死んだ方がよいと考える時代になりました。
苦しまないで、人の手を煩わせることなく急死したいというのが現在人の最高の願いに変わってしまいました。
長寿が現実化すると長生きすることよりも、如何に楽に死ねるかという死が課題になりました。
こんなことを言うと問題視されるかもしれませんが、末期のがん患者や認知症で全く判別の出来ない人などを拝見していますと、家族の人達でさえ、もうこれ以上本人も家族も苦しみたくないから逝かせてやって欲しいと願っている人も少なくありません。私もそう思います。
生きていても苦しいだけの人は、本人か本人で判断の出来ない人は配偶者か家族の者の願出があれば逝かせて上げる法律はできないものでしょうか。
私ももうこれでいいと思えば簡単に死を自分で選択して、一服飲めば逝ける薬が欲しいと願っている独りです。
寿命も自分で選択させてください。
2009年12月4日金曜日
西国33ヵ所巡り
西国23番札所 勝尾寺 千里中央~バスで30分 バス代480円
夏に書写山に行ったのをきっかけに西国33ヵ所札所巡りを始めました。
昨年脳腫瘍を患い、後遺症によって運転が出来なくなるだろうと考え車を手放しました。バスと電車を利用しての巡礼ですから死ぬまでに回り切れるでしょうか。
今回は2か所目になりますが、一回目はそれが目的で行ったわけではありませんので、厳密にはこれが初回の巡礼です。勝尾寺に行くことにしました。
まだ紅葉が見れるかも知れないと思い、勝尾寺からは山中を歩いて箕面の滝まで回って来ました。
箕面は思った通りに今が盛りと燃えていました。
札所巡りを始めたのは信仰心によるものではありません。折角ですから御朱印張に御朱印を頂戴していますが、主は観光です。
主の目的は観光ですが、お寺にお参りしますと気持ちが落ち着いて清々しい気分になり癒されます。これは何故でしょうか。
お寺にお参りに行って悪いことをしてやろうと思う人はいないでしょう。
悪いことを企んでいるような人は最初からお寺になんかは行きません。
お寺にわざわざ出向いてお参りに行く人間は、特別に信仰心が無くても、神や祖先を敬い感謝する心を持っている人だから、その場に佇むとその人の有する善良な気持ちが心を支配して、清々しい気持ちになるのです。
そういう現象は関係者に言わせれば神仏の霊力によるものだとおっしゃるとおもうのですが、そうではなく個々の心根の在り方によるものではないでしょうか。
テレビなどではあの世に逝った人の霊と会話するというような、私に言わせれば実に馬鹿馬鹿しいことを、恥ずかしげもなく取り上げてやっています。
あれは宗教や信仰ではなく好き勝手に占いをしているものでしょう。
当たるも八卦、当たらぬも八卦で当たると信じている人の気持ちがわかりません。世界では宗教戦争が各地で行われています。そういうものは人を惑わし不幸に導いても幸せにはなれないのです。
私たちが生を受けて現実に今この世に存在しています。人生は怒哀ばかりではありません。必ず喜楽も味わっている筈です。喜怒哀楽を経験出来るのは生きているからです。それを思えば生きていることに感謝すべきです。何故なら人は自分の力だけでは絶対に生きて行けないからです。
その感謝の気持ちを奉げる順序を考えてみれば、先ずは両親でしょう。
そして兄弟姉妹でしょう。そして祖先であり、私たちに生きる糧を与えてくれている偉大なる神々でしょう。そういうものに対して先ず感謝の祈りをすることが信仰の原点ではないでしょうか。
この世は自分の力で生きているのではありません。それを分かればもっと宗教心を持たなければいけないのではないでしょうか。
2009年11月30日月曜日
理想の彼氏
紅葉に 負けじと強く 手を握り
封切を待って27日に「理想の彼氏」という映画を見てきました。
離婚をし、不倫も経験し、裏切りもし裏切られもして、67年間女性関係では様々な人間模様がありました。
女性関係に於いては自慢にはなりませんが一般の人よりも少しは経験を積んでいます。そういう経験上から理想の男性と女性の在り方に付いて私なりの結論をえていますが、文化の違う外人とでは異なりはあるのではないかと大変興味がありました。結論としては同じでした。
夫は経済的に力があり、日本の男性によく見られる亭主関白で、自分の思い通りに生活を営んでいます。
そういう男は経済的に豊かで何の不自由もさせていなければ、妻は十分に満足しているだろうと思っています。
十分にそれで幸せだろうと思っているから、妻の気持ちを顧みようとはしません。その上に自分の力に溺れ妻を軽視していますので浮気も平気でします。
そういう夫の浮気を目にして幼い子供を二人連れて妻は家を出ます。
子供は幼いので自分が働くには子守が必要です。アルバイトで若い子守をしてくれる男性を雇います。その男性とハッピーエンドで終わるという映画です。
夫と別れてから友達の勧めで幾人かの男性と付き合いをするのですが、どの男性も自己中心の考えをする人で好きになれません。
ところが子守の男性は彼女が一番喜ぶことを優先させて尽くします。
正規の職業を有していないのですが、駄目男ではありません。大企業の誘いがあるのですが、自分が就職をすると彼女が困りますので断わって、子守のアルバイトを優先させます。
そういう優しい心に引かれて彼女はその男性を愛するようになり二人はむすばれます。
この後、二人は一度別れるのですが、自分の理想とする人は彼女と彼しかいないということで、別れてもお互いを思い心ではつながっています。そんな二人が再開して二人は結ばれるという内容です。
お父さんと旅行に行くのは嫌、同じ楽しむなら友達と気楽に行きたいという女性が沢山います。
経済的に明日から困らなければ直ぐにでも別れたいという、潜在感情を抱いている女性は物凄くいます。
お互いの自我の応酬戦が何時の間にか一緒にいても楽しくないという夫婦関係にしていまっているのです。
結婚をしてそのまま来ている人には理解できないかもしれませんが、人間の一番の喜びは、年老いても尚二人でいることが楽しいという関係です。
そういう関係が壊れてしまっているから、それを補うのは趣味やお金ということで、余計にお金に執着してしまうのです。
お金なんか食うに困らないだけあれば十分です。それよりも映画で描かれているようにお互いが労り助け合う優しい関係が理想です。
難しいね。この理想を成し遂げる人が何人いるでしょうか。時代がどのように変わっても永遠のテーマですね。
2009年11月27日金曜日
欲
太閤も めでた紅葉や 瑞宝寺
バスは裏六甲を下って行く。有馬の街を見下ろす麓に近い所に瑞宝寺前のバス停がある。バス停の直ぐ目の前に階段があり、そこを10m程上がると民家があり、その民家の空き地に大きな古木の紅葉の木が二本あり、今が盛りと赤く燃えた姿を見せてくれる。
しばし立ち止まってカメラのシャッターを切る。
そこを左に曲がって坂道を少し行くと、その一角だけが赤く燃え上がって私たちを迎えてくれる所がある。そこが瑞宝寺だ。
極楽浄土は花で彩られていると聞いているが、その極楽浄土に招かれたごとくあまりの美しさに呆然となってします。
紅葉は黄色、オレンジ、紅色に姿を変え折り重なるように色を重ねて輝いている。
その色はただ絵具で色を重ねた色彩ではなく、先のない命を燃やして最後の務めを果たしいる生きた色だから私たちの心を捉えて離さないのだ。
あまりに艶やかだから彼女達にしよう。彼女達はもうすぐに散り絶える。
しかし来年もまた元気に芽吹き私たちの人生と同じように一生を演じる。
私たちは一度きりだがその生き様は同じだ。
宇宙という大極からすれば人間も木々も宇宙を構成している一つの要素にすぎない。
同じものであるならば自分も最後は紅葉や桜の如く、最後を華麗に輝かせて死にたいものだ。
そのためには深く緑に彩られている間に輝きの為の蓄積を怠ってはいけない。六十代はまだまだヒヨコだからもう一頑張りしなくては。
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2009年11月24日火曜日
大自然の芸術
これから化粧を始めようとしている。少し化粧の出来ている人もいる。すでに化粧を終えて艶やかに颯爽と風になびいて私の目を捉えて離さない魅力に溢れている様子を振舞っている。
この艶やかな魅力に溢れた様子は私たち人間には創り出せない大自然の芸術だ。
芸術とは美を伝える手段で、美とはそれにふれた者の心を高尚に、かつ高揚に導き、一服の清涼剤を頂いたごとく心を癒してくれる。それだけに留まらず「よし、また明日から頑張るぞ」という善なる心を喚起させてくれる偉大なパワーを持っている。だから芸術は偉大なのだ。
大自然は季節ごとに私たちに素晴らしい芸術を提供してくれる。この無償の芸術を体一杯に感受することは生きていく大きな喜びの一つだ。
しかしこれは誰もが感受出来るものではない。自然の偉大な力に畏敬を抱き感謝し、いつも関心を寄せているものだけが受け取れる恩恵だ。
神は差別なく偉大なものを提供してくれているがそれを感じ取れる個々の生き方が問われる。
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2009年11月19日木曜日
自立
以前に「スタンドバイミ」という映画を見ました。
子供の頃は各々の立場や思惑や利害などの絡みはなく無邪気に交際出来ていたのが、大人になれば各々の思惑やまた利害や損得が絡んできて、こどもの頃のように無邪気に友達として交際しにくくなるという映画であったと記憶しています。
大人になれば男は特に仕事が主となりますので、利害や損得や力関係を考慮しつつ付き合わなければいけなくなります。
マイペースで付き合えることは少なくなります。こういうことは国と国との関係においても全く一緒ではないでしょうか。
鳩山総理と岡田外相の間で沖縄の基地問題に付いて温度差が生じているようなことが報道されていました。
マニフェストに掲げた方針を貫きたいというのが鳩山総理の意向のようにおもいます。それに対して岡田外相の方は現場で直接折衝を行っている立場として、民主党の思惑を貫き通すことの難しさを直に感じ取っていることの温度差のように思います。
自分のペースで交渉は進展して行けば問題はありませんが、それぞれに事情を抱えているもの同志ではそんなに簡単にはいきません。
自分のベースで付き合いたければ、人に一切依存することない完全自立が先ず大前提でしょう。
防衛面において長年に渡って人頼みの政治を行ってきているのですから、政権を取ったからといって自分たちの思い通りにと考えるのは拙すぎる考えだと思います。
自分の意見を通したければ憲法を改正して自国の防衛は自国でする。
完全自立を果たしたから、「アメリカさん長年に渡ってありがとうございました」といって引きさがってもらうようにする。それが当然の理でしょう。
何故勇気を持って憲法改正を唱えて実行しないのでしょうか。
今やアメリカは日本よりも中国をパートナーとして重視しています。
中国の体制を考えた時に中国と対等に仲良くやっていくには、力関係において強さを誇示する外交上の作戦があって日本を踏み台にしているということではないでしょうか。
日本は早くに完全自立しなければ、世界での発言力が劣化していきます。
国と国の交わりは人と人との交わりと同じです。完全自立なしで相手と対等に対話できるはずがありますん。
子供たちは完全自立出来ていないのに大人に対して生意気な振る舞いをします。それを許しているそんな軟弱な大人たちの心根がそのまま政治の場でも拙さを披歴しているように思われてなりません。
私は子供のころは悪ガキで喧嘩も強かった。あいつは強いと思われていると人は親切にしてきます。それに対してこちらも優しくしていくと信頼関係はより深まります。
あいつは弱いと思われていたら、何を主張しても取り上げられないで軽視されます。子供の世界も外交も同じです。喧嘩をして血の一つも流したことのない良い子はそんなことは分からないかもしれませんね。
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2009年11月14日土曜日
大丈夫民主党
官僚は参画させずに民間の有識者と政治家主導で財政の仕分けが現在行われています。
今までには見られなかった画期的な試みですから大いに期待し政治が変わっていくことを嬉しく思っています。
一般論ですが、役人は保身のために保守的な考えに陥っています。
民間では保身のためには実行力をもって革新的でなければ今や直ぐにリストラの対象になってしまいますので、大きな違いがあります。
無愛想で事務的で血の通った対応が感じられません。
「すみません」「ありがとうございました」と頭を下げることを知らないのでしょう。そのくせ仲間意識が強くコネクションのある人や、知り合いに対しては親密です。だから天下りが後を絶たないのです。
役人に対しては私だけでなく馴染めないという人が多いのではないでしょうか。
このたびの仕分け作業は私たちが直接選んだ人が主導権を握って行っています。即ち、我々国民の手に主導権が渡ったということですから、それだけでも民主党に勝利させて良かったというのが正直な感想です。
良い面は如実に表れていますが、その反面で非常に重要のところで大丈夫かということも露呈しています。
その一つが暫定税率の廃止です。
暫定税率を来年四月から廃止と唱えています。1リットル当たり25.1円の
暫定税率分を廃止する代わりに20.1円の温暖化対策税を課すという案がでています。
ガソリンは安くなりますが石炭は1キロ当たり0.7円の温暖化対策費を上乗せして3.44円にして、灯油は1キロ当たり2.04円から4.82円とする。電気料金の税負担は1キロワット当たり0.52円から1.04円にアップします。
それによって暫定税率は廃止してもⅠ世帯当たり年間1127円の負担増になるということです。
暫定税率廃止などと私たち国民を喜ばせる格好いいことを言いながら、「なんやこれは」という事態になっています。
今の財政の仕分けを見ていますと、財政の本体である部分に出来たオデキや腫れものをどう除去しようかというっことをやったいるだけですから、大きな無駄廃止にはならず、結果的には財政は膨らんで国債を増発し我々国民に負担を強いるということになっています。
このたびの選挙では民主党は財政の抜本的な改革を行い、無駄を省いた余剰金でマニフェストに掲げたサービスが提供できると確か言っていたはずです。
まだ始まったばかりですから、もう少し長い目で見て行かなければ仕方がないと思いますが、約束通りに財政の抜本的な改革がおこなえるのでしょうか。
そのうえで役人や議員の定数も削減して国民の納得が行くようにしてくれるのでしょうか。
そこまで本当に出来るのか。大丈夫ですか民主党さん。大きな名誉とお金を得ているのですから命を掛けて頑張ってください。
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2009年11月9日月曜日
子供はどう育てるのが理想か
昔は子供は社会からの預かりものと言われ、子供の養育についての指針や概念がありました。
私たちは社会とい人の群れの中で共存し共に支えあっています。
支えあっていると言っても、どんなに力のある人であっても支えている力は微量です。
支えられて生かされていることが真理です。
その道理からすれば、自分の子供といえども少しでも早くに社会に送り出して恩返しをすることが真っ当な考えでしょう。
社会に出て大きく社会貢献した人は、経済的に潤い心の面においても豊かに暮らせる。社会というものはそういう図式で出来あがっていますので、昔のように子供は社会からの預かりものという観念で育てることが、当人にとっても最も益のあるものとなるように思います。
幕末に活躍した吉田松陰は叔父の玉木文之進に教育されました。
玉木文之進は大変厳しい人で、ある時松陰が叔父から殴る蹴るの暴行を受けているのを松陰の母は偶然見かけました。あまりにすさまじい怒り方に母親は思わず出て行って救いの手を差し延べようとしたのですが、ぐーと思い止まって、物陰で泣いていたという逸話があります。
今の親だったら「家の大事な子供に何するねん」ときっと喧嘩になるだろうと思います。
手を差し延べるのは簡単です。しかし子供の成長のためにはぐーと堪える愛の方が大切です。
簡単なことよりも難しい方を選択して子供と接して行かなければいけないのですが、今の親は直ぐに子供を構ってしまいます。
その分子供は根性のない、辛抱や我慢の出来ない、勇気のない子供になってしまいます。
厳しく怒られて恐怖心を抱いたことのある子供、辛くて怖い経験のある子供は人に対して思い遣りのある、そして勇気のある子供に育ちます。
学校でも職場でも陰湿な苛めが蔓延っていますが、苛める子供は自分が怖い経験をしたことがないのです。甘やかされて育っているから他人の苦しみや辛さが理解できない最低の子供に育ってしまいます。
学校や職場はその人の人生を左右する重要な場です。それが苛めによって続けられないということになれば、それは立派な犯罪行為です。
勉強なんか二の次で良い。人の苦しみが理解できない人間は最低です。
それを理解して教育して行くのが親の責任です。親達よ頑張ろう。
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2009年11月5日木曜日
子供の芽生え
子供を出産すると母親の体力が戻るまで育児室に預けられ、大きな病院では多数並べて寝かされています。
母乳を与える時以外は必要なチャックを受けて寝かされていますので、その段階では嬰児達はぐずったりというような個性を発揮することなく大人しく寝ています。
ところが母親の手元に戻されて親が養育しだしますと次第に色づけされて個性が作り出されて行きます。
A:親の中には子供可愛さに一生懸命に構って育てる親
B:どうしたらよいのか分からないから親頼みの母親たち
C:子供は可愛いけれど生活のために構って上げることが出来ない母親
D:子供を構って上げる時間は十分にあるけれども、自分の癒しや楽しみ
を優先させる母親
子供を育てるということはそのことを通して親自身が勉強するということですからBやDの親は大人に成り切れていないのです。
子供はそういう親の都合や環境によって次第に色づけされて性格というものが作り出されていきます。
子供自身で性格を作るということはないのです。
昔から子供は親の尺度しか育たないと言われています。その言葉がそれを証明しています。
どんな形で子供を育てようと子供は育ちます。
ですが子供は自分の分身で可愛い、そして子供は親の生き甲斐であり、夢の一つであり、楽しみの一つです。中には自分が達成できなかったロマンを子供に託して子供の養育に必死になる母親もいます。
子供を掴まえて始終小言をいったり叱ったりしている母親も少なくありませんが、そういう行為は結局は自分自身を叱っていることになるのですが、親は分かっているのでしょうか。
子供の芽生えにとってそういう親の芽生えが大切です。
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馬鹿が歌っています
2009年11月1日日曜日
生き方の修正
人間の欲望が文化を発達させて来たことは確かです。
今後どのように発達して行くかということですが、難しいことは分かりませんが、テレビや自動車は目覚ましく進化して行くと思います。
これも人間の欲望のなせることですが、忘れてならないことはどんなに文化が発達しようとも、私たちの生きて行く原理原則は普遍のものであるということです。
野には赤い花黄色い花が咲いています。
夜の巷には同じように赤い花、黄色い花、青い花が咲いています。
欲望の強い私たちは野山に咲く花よりも、あやしく光り輝く街の花に心を奪われ勝ちです。
町の花は貪欲に彩られているだけで、それはやがて貧困につながります。
その点、野に咲く花を愛する人は持続する豊かさを得られます。
人は寂しがり屋ですから、人の温もりを求めて街に繰り出しますが、そこに咲く花からは一時の癒しが得れても持続する豊かさは得られません。
嘗て、日本人は大自然の風情いを愛でるというよりも信仰にちかい気持ちで接して心の豊かさにつなげて来たという歴史があります。
今の人は経済に振り回されて自然を愛でるという美意識を失くし、ハイテクにばかり目を向けています。
ハイテクは生活を便利にしてくれますが豊かにはしてくれません。
便利さを得てそのゆとりを大自然に目を向けた生活をしてこそ、真にゆとりのある生き方が出来ると思います。
野山が美しくなり、川や海が美しくなってこそ私たちの心も美しくゆとりあるものになると思うですが如何でしょうか。
私たち全てが最後は自然の白い花に囲まれて見送られことを忘れてはいけないと思います。
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2009年10月26日月曜日
子供の教育 叱り方
象使いは手鉤で容赦なく叩きます。飼い主は怖いと象に思い込ませておかないと舐めて言うことを聞かないからです。
人間も同じで親は怒れば怖いということを子供の心に焼き付けておかないと、舐めていうことを聞きません。
人間も最初は野生のままですから、親が怒れば怖いという思わせる調教が必要です。
その時期は、親にいくら怒られても、やはり親が一番好きで怒られても怒られても親にじゃれてくる時期があります。
怒られても怒られても親になついてくる時期というのは可愛い時期ですから、親は怒るゼッシャーだけで、真に厳しく怒れない親がおおいのですが、その時期に親が怒れば子供が恐怖心を抱い暫くは震えが止まらないぐらいに、怒るときは蹴飛ばさなければいけません。
蹴飛ばさなければいけないといっても、可愛い子供に行う愛の鞭ですから子供が怪我をしないように手加減することは可能でしょう。可能ですが手加減をしていることを悟られないように厳しくおこらなければいけません。
その印象は子供が大きくなっても子供の心に焼き付いていますので、親の威厳は保てます。
子供も小学校の4~5年生にもなりますと、善悪、成否の判別がつくようになってきて自立心が芽生えてきたから暴力を振るうと反発して反抗心ばかりが起こりますから、幼い時に親は怖いと印象付けをしておいて、そのくらいの年からは聞き役や相談役に回って暴力は振るわない方がいいと思います。
何時までもこうしなさ「それは駄目」などと小言を言っている親も少なくありませんが、いくら小言を言っても子供は親の念仏を聞いているごとくで心に届いていません。
大きくなれば自立心を養育する以外にありません。自立心というものは親が言い聞かせて育つというものではありません。
黙って見守って親自身が自分の人生を充実される活躍をすることがたいせつです。夫婦もそうですが親子の関係でも、子供から見て尊敬できる親になることが子供の自立に大切な要因の一つであるとおもいます。
幾つになっても親が傍で構って口うるさく言う親がいますが、それが高じて子供が親の顔を見るのも嫌ということになれば、成績どこころか、悪くすればぐれてしまいます。
ぐれてしまっている子供は、親にその原因があることがほとんどで、特に母親とうまく行かない子供はぐれやすいので気をつけなければいけません。
ぐれている子供は母親に原因がある場合がおおいのです。
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2009年10月20日火曜日
子供の教育 愛と躾
親の子供に対する最大の愛情は、少しでも早くに自立した子供に養育して上げることです。
自立にとって大切なのは、甘えさせて自我を主張することばかりの子供にしないことです。親の言いつけに従う躾が大切です。
三つ子の魂百までと言いますように、躾は嬰児から幼児期までが一番大切です。
嬰児は体の不調を泣いて知らせます。空腹を泣いて教えます。身辺の環境の変化を泣いて訴えます。そのように嬰児は泣くのが仕事ですから、泣けばそういう肝心なことだけを確認し対処しておけば、後はあまり構わない方が忍耐力や我慢が育ちます。
泣けば可愛いからすぐに抱いてあやして構ってしまう。親に抱かれていれば安心して気持ちがいいので、構ってほしいから泣いて構ってくれることをねだります。嬰児でもそういう知恵は備わっているのです。そういうことを繰り返せば我慢や辛抱の出来ない子供に育って行きます。
幼児期になるとお菓子屋やおもちゃ屋さんの店先で買ってほしいと泣いて駄々をこねている子供を見かけます。泣いて駄々を捏ねればこれまでは自分の欲求が叶えられて来たからです。
レストランに行きますとジート座っておれなくて直ぐに周辺を走り回る子供がいます。他の客が不快ですから親を批判の目で見つめます。その目線に耐えかねて親は子供に「ジート座っていなさい」と怒ります。しかし、親が怒ってもこの程度と知っている子供は聞き入れません。
子供は何故悪いのか理屈が分からないのですから、親の威嚇で制する以外にないのですが、親が舐められているから聞かないのです。そんな躾で良い子に育ちますか。
甘やかされて育った子供は自己主張することばかりを覚えます。客観的にその場の雰囲気を感じ取って判断をするということが出来ない子供になります。
そういう子供に育ててしまう親は、私もそうでしたが優しく接することが愛だと勘違いしてしまっているのです。
子供は自身でで善悪や正否を判別できるよういなる年頃までは、駄目なことをしたときは子供が恐怖心を抱いて震え上がるほどに、どついて蹴飛ばして怒らなければいけません。
野生のままでは自己中になってしまうだけですから、親の威嚇と愛の鞭で調教をしていかなければいけないのです。
色々と構って子供に接するよりも、あまり構わずにジート見守る方が親としてはつらいのです。辛くても子供のために辛くて難しい方を選択するのが本当の愛情ではないでしょうか。
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2009年10月16日金曜日
子供の教育親の錯覚
子供に謝ったと前回書きました。
親の私が成育出来ていなかったのに、その段階では自信たっぷりに親役を務めていました。ある年齢に達したから子供に対する愛情はこれは違うということがわかったからです。
自分では満足に親役を務めていましたが、子供の目線で見た場合に、これで本当に子供にとってベストの接し方なのか、愛情の注ぎ方なのかという点について間違っていたことがわかったのです。
子供にとって一番大切なことは、自分のことは自分で出来る、自分の確かな足で自立して歩めるように、少しでも早く親が手助けをしてあげる。
それが最大に子供に対する愛情の注ぎ方だということに気付いたのです。
子供は社会からの預かりものという言葉があります。
私たちは社会という人の群れの中で共存して、不特定多数の人達に支えられて生かされています。
生かされているという真理を理解できていない人も少なくないのですが、それは間違いのない真理です。
その真理が分かれば子供は少しでも早くに自立をして、そして社会に送り出してやる。それが親の一番の役目なのです。
子供自身は少しでも早くに自立して先ずは自分のことは自分で出来る子供になる。そして力のある人は大いにその力を発揮させて活躍して社会に貢献をする。
そうすることが社会に奉仕しなさいという奉仕を強いるのではなく、自分の人生をより大きく充実させることになるからです。
社会は大きく貢献をした者には、大きな充実感という褒美をくれる。社会というのはそういう図式になっています。その方程式を少しでも早くに教えて上げることが親の役割です。
そういうことをもっと早くにわかっていれば、もっとよい躾が出来たろうにと子供たちに申し訳なく思っています。
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2009年10月15日木曜日
木綿
木綿の原産地はインドで紀元前2500年頃から栽培され棉織物が織られていたと文献にあります。
シルクロードを通って運ばれたインド木綿の軽やかさに古代ローマの人達はすっかり魅了され
「織られた空気」「流れる水」「夕べの雪」などと呼称して珍重したそうです。
日本で木綿が織られるようになるのは天文・弘治(てんぶん・こうじ1532~1577年)の頃で桃山時代の末期には
河内・丹波・を中心に山城・摂津・和泉・播磨などで盛んに織られました。
一般の衣料として普及するのは江戸時代の中期以降です。
それまでは麻が主流でしたが、江戸時代の後期になりますと麻に代わって木綿が広く用いられるようになります。
それまでの麻は木綿よりも高級な夏の衣料として使用されるようになるという変遷をしていきます。
木綿が一般に広がるまでは、布団なんかなかったわけです。京都の藁ぶき屋根の集落に見学に行きますと
農家の寝室が残されています。
5寸くらいの囲いが出来るように板の間を低くしてあり、そこにご座や藁をいっぱいに引き占めてその藁にもぐって寝たと言われています。
おそらく町家の人達も真綿で作ったかい巻きなどはなく、農家の人達と同じではなかったかと思います。
そういう生活ですし、食料事情も良くなかったので、すぐに風邪を引き、風邪を引けば肺炎を併発して亡くなる人が多かったのです。
それが木綿が普及したことによって死亡率がうんと減ったと言われていあます。
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2009年10月13日火曜日
子供の教育
エチカの鏡という番組を偶然見ました。
通称かよこ先生、久保田カヨ子先生と鹿児島で保育園の理事長をされている横峯先生が、子供の教育に付いて話をされている番組で、横峯先生のおっしゃっていることが全く同感だと感銘を受けましたので、おもわず見入ってしまいました。
子供の教育で一番問題となるのは親の成育度なのです。
子供は社会の預かりものという言葉が昔にありましたが、その言葉の意味をどの程度親が実感として理解されているかという点が先ず問題なのです。
私も恥ずかしながら子供の成育にとって一番大切な時に、大人として親として成育出来ていなくて。ただただ子供が可愛い、愛おしいという愛情だけで育てましたので、学校の成績はあまり芳しくはありませんでした。
上の子供が中一で下の子供が小5の時に、個人懇談がありましたので私が先生に面会に行って話をしました。
帰って子供に報告をするときに、子供の成績に付いて私は子供達に謝りました。
将来の子供たちの夢に対して成績は大きな影響力を持っている。その成績が中の上当たりでいるのはお前たちの責任ではない。子供に対して真の愛情とはどうあるべきかをもっと早い時期にお父さんが理解できていれば、もっと良い成績の取れる子供に育てて上げることができた。それが出来なかったのは「お前たちの責任ではない、全てお父さんの責任だから気にしなくてよい」。今さら急に厳しくしても親子の関係に溝が入るだけだから。お前たちは自分の進む道を自分で自由につくれ、お前たちが決めたことには全面的に応援をすると言ってやりました。
親としては何処の親でも人様に羨ましがられるような成績の良い子であって欲しいと願うのは当たり前ですが、親の私が拙かったのですから仕方がありません。
横峯先生がおっしゃられることは今はよくわかります。全くその通りですが、ゲストに出ておてれた若いタレントさんなんかは、私には私のやり方があると考えておられて、結局は私のように可愛さに負けて甘やかせてしまうのだと思います。
もっと書きたいのですが文字数に限りがありますので次にします。
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2009年10月11日日曜日
生きるサイクル
人間の生きているサイクルは何も難しいものではなく・仕事すること
・遊ぶこと ・寝ることのサイクルでなりたっています。
そのサイクルが正常に循環していれば健康で充実した人生を過ごせます。
それぞれに生きていくには大切ではありますが、その三つのなかで最も大切なのは仕事です。
その理由の一つは、我々は自分の力で生きているわけではありませんので、健常者はそれぞれに頑張って仕事をして社会に報いる義務を担っているからです。
私は仕事が楽しい生き甲斐だという生き方が出来ている人が一番幸せな人生を送っておられる方だと思っています。
それが証拠に、アスリートで活躍している人、役者などを含めた芸術分野で活躍なさっている人、特別なライセンスを有して活躍しておられる人、会社の役員や自営業者の人たちなど皆さん活き活きと人生を送っておられます。
お金は高い所に流れると言われていますように、活き活きと活躍されておられる人のところにはお金も流れて豊かな生活ができるという構図になっています。
誰もがそういう生き方が出来るわけではありません。中には生活のために仕方がないから仕事をするという人も少なくありません。
そいう人はどうしても遊びが生きていく主になってしまいます。そういう生き方はお金はいくらあっても足りない、お金も入ってくるのが少ないという人生になってしまいますので仕事の大切さを認識することが重要です。
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2009年10月9日金曜日
二人仲良く墓場まで
ここ何回かNHKが男と女の違いで取り上げていました、夫婦は何故仲良くやっていけないのかに付いて私見を述べさせて頂いています。
結婚をしてそのまま夫婦生活を続けて来られた人達は、お互いに大切な存在であることは認識されておられても、人生に於いて最も幸せなことは、何時までも連れ合いと仲睦まじく生きて行くことであるというとこまでは、恐らく理解されていない人が多いのではないかと思います。
斯く言う私も全く理解の出来ていない一人でございまして、自分の拙さから平成元年に離婚をして今も独り住まいをしています。独り住まいは本当に淋しいですよ。経験のない人は分からないでしょうね。
男ですから若い時は自身の立場の確立を目指して懸命に頑張ります。
そうすることが妻にとっても家族にとっても重要であるから、特に妻は自分に対して最大の理解者であり協力者であるべきだと決めつけています。自分に対して奉仕者であるべき点に不足があれば情け容赦なく糾弾をします。
また、自分を基準にして妻を推し量り鈍臭いことをしたり拙い言動があれば指摘しそれを糾弾します。
何時からか妻を褒め称えることも、優しく労わることもなく、家族の下部的存在のように労働を課して行きます
そんなことをしていればどんなに惚れて一緒になっても、七年も経てば相手の中身がすっかり分かってしまい、嫌で嫌で仕方がない。今すぐにでも出来ることなら別れてしまいたいと思うまでに至らなくても、一緒にいても楽しくないということになってしまうのは当然の成り行きです。
人間は育ちの環境によって個々に異なった人格や人間性が備わっています。その異なった他人同士が一緒になるのです。惚れている間は拙いところを見せないように。相手が喜んでくれるようにと気遣いをして、相手に合わせようとしますが、そんなことは長続きしません。直ぐに本性が露呈して、欠点の指摘と糾弾のバトルが始まります。
完璧な人間なんていません。みんな欠点を持っており異なった性格同志なのですから、結婚は大人としてそういうことを十分承知して、お互いに拙いところは補い合うというのが結婚であらなければ行けない筈です。
それが出来なかった馬鹿者の一人が私です。何故それが出来ないのか。人間は自負心が物凄く強くて、自分は正しい、素晴らしい、偉いと思っているから、自分を軸に回転しなければ気が済まないのです。それに逆らう者は気に入らない、気に入らないからその点を指摘し糾弾してしまいます。
そういうことが是正されない限り、人生最大の悦楽である夫婦仲良く手を握り会ってという楽しみを得ることは無理でしょう。
今さらそんな楽しみを求めなくても、お金さえあれば他に楽しいことはいくらでもあるというのが、多くの人達の生き方なのでしょうね。
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2009年10月7日水曜日
濡れ落ち葉
私はURの18階に住んでいます。
一日に何回エレベーターに乗るでしょうか。
エレベーターに乗り合わせますと女性は必ず挨拶をしてくれます。
そして昇りでは先に降りるときは必ず「お先に」と言って降りられます。
それに対して男性は顔を合わせても会釈もしませんし、ほとんど声を掛け合わせるということはありません。
女性は優しいです。例え上辺だけであっても近隣の人には声を掛け合った方が気持ちは晴れます。
女子の方がうわてですね。
男性は濡れ落ち葉と言われています。家でゴロゴロしているとうっとおしいので、濡れ落ち葉のごとく始末に悪いということでしょう。
近くの公民館にいきますと、どのサークルも女性ばかりです。女性の方は何にでも積極的に参画するけれども、男性にはそういう勇気がありません。
当然のことながら寂しい人生になってしまいます。寂しいから酒やギャンブルに走ってしまう人が多いのです。
私もサラリーマンの経験があります。
会社の同僚との付き合いは会社に在籍している間だけです。引退すれば友人としてつながりません。だから連れ合いを大切にしておかなければいけないのですが、それが理解できていません。
それまでに地域の活動に参加して積極的に人間関係を構築する努力をしていなければ、引退したら本当に寂しいことになるのですが、それも出来ないひとがほとんどです。
子供は寄り付かない。女房はお父さんと一緒にいるよりも友達と旅行にでも行っている方が楽しく面白いといわれる存在になる。それはだれのせいでもありません。自分が駄目なのです。
男は偉そうにしていないでもっと女性の生き方を見習うべきですね。
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2009年10月6日火曜日
考え方
芋と栗 君と供する 十三夜
現在は日本女性といえども自分で着物が着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。
着物にも普段着から礼装までありますので、いつでも着る機会はあるのですが、ほとんどの人は着ません。着ないから、馴染みがないから着れないのですが、時によっては着なければいけない時もあります。その時のためにわざわざ着付のお稽古に行くのは合理的ではありません。
そんな時は私共では出張をして留袖を3000円で着付けていますので、それを利用する方が合理的です。
こんな時代にわざわざお稽古する限りは、思いついた時に何時でもきもののお洒落を楽しめるようにお稽古をすべきです。
きもののお洒落を主目的にお稽古をする限りは、自分の姿を鏡に写して惚れ惚れとするくらいに上手な着装ができるようにならなければお稽古に行く意義がありません。
上手の目標は教えて頂いている先生です。先生と肩を並べるところまでに至って上手にできるようになったといえます。
そこまでに至るには血の出るような努力が必要です。着付けも例外ではありません。
人は何かに取り組んで目標を掲げても、大方のひとは目標の手前で挫折してしまいます。だからやると決めたら先生を追い越すくらいに目標を高くもって臨まなければいけません。
成果という形は目標を高く掲げて実践をした結果として実現するもので、精神の高揚が最も大切です。
精神性の大切さを理解できずに「着付けぐら」という精神性の低い考えの人が少なくありません。それでは掲げた目標に絶対に達しません。
キチットした考えと心の整理が大切なのですが、そんなことを考えようともしないで何かに取り組み、「着付けぐらい」と侮ってしまう。
人とは不思議な動物です。
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2009年10月5日月曜日
心の整理
着付けを習いに来る人の中には「着付けぐらい」という気持ちを持っておられる人が少なくありません。
そういう皆さんの心が見えていましたので「着付けぐらいでいいのですよ」「ぐらいと蔑んでいる着付けぐらい直ぐに出来るようにしなければね」「ぐらいと蔑んでいるものにてこずって、何時までも出来ないようでは貴方はぐらい以下の人間になってしまうからね」と、随分と皮肉って手厳しく言いました。
手厳しく言わなければ思考を変えようとしないからです。
それは「ぐらい」と侮っている人は絶対にきちっと出来ないから、出来るようにするには思考を変えて頂く以外に手だてがないからです。
どんな技芸や技能でも下手、普通、上手とあります。これは次に述べますがお稽古に来たならば上手という域に達するまでに至らなければ、それまでの貴重な時間とお金が無駄になってしまうことが多いからです。
上手になるにはどんなものでも一時は血の出るような苦労や努力が必要です。
一芸に秀でた人は万事に優れていると言います。一芸に秀でた人はそのものを通して、どんなものでも難しく懸命な努力が必要であるということをよく分かっているから、他の事に取り組んでも最初から心して当たるからです。
ところがそういうものを所持していない人は、そういう道理が理解出来ていなくて「そんなものぐらい、その気になったら」と安易に考えてしまっているから、「着付けぐらい」と侮ってしまうのです。
そんな人でも皆さん「自分は賢い」とプライド一杯に持っておられます。
恥ずかしいですね。
2009年10月1日木曜日
男は女性を労わらなければ
以前にNHKで男と女の違いに付いてシリーズで放映していました。
一回目は好きで一緒になったのにどうして嫌いになってしまうのかがテーマでした。
多くの方はそんなことに特別意識を向けなくても、何の支障もなく生活が出来ておられるので、特別に取り上げて精査するほどの事柄ではないのではないかと感じておられる人も多いのではないかと思いますが、私は大変重要なテーマではないかと思います。
何故ならば明日から生活して行くのに経済的に心配が無ければ、今すぐにでも離婚をしたいと考えておられる女性が物凄く多いからです。
何故仲良くやって行けないのかを専門的に研究しておられる博士は、その原因は男性の方にあると言っていますが私も同感です。
男は経済を担っていて立場的には大変に強い。外にでているから見識も広い。食べるためだけに働くのは大変辛いので、仕事を生甲斐として頑張るという向上心も一般的には女性よりも高い。趣味や娯楽においても、競争心を煽るスポーツやギャンブルが大好き。
それに対して女性は家庭や近所、子供や子供絡みの学校といったように身近なものに関心を持たざるを得ないようになり、会話はどうしてもそちらの方に偏って行ってしまいます。
夫婦であっても全く接点がないのです。接点がなくても男と女の交わりが頻繁にある時は幸せ感に浸っておれるのですが、それも遠のいて行きますと精神的な交流が主流になります。その精神面で共通する話題がなくなりますと、当然会話も途絶えがちになります。
会話が無くなるだけではありません。夫婦といえども異なった人間なのですから、言動は自ずとことなります。異なるのは当たり前ですから優しく見守ってあげればいいのですが、自分よりも鈍臭い言動があると、親しさ故にそのことを指摘し糾弾します。
それでも昔は女性は耐えて男性を立てて合わせなさいと教育されて来ましたが、現在は大事に大事に育てられてきていますので我慢辛抱ができませので直ぐに切れてしまいます。そういうことを延々と繰り返すのですから、次第に嫌に成っていくのは当然です。
総合すれば専従している女性よりも、男性の方が視野も広く見識も高いのが一般的ですから、仲好く過ごすには男が努力して女性を労わって喜ばせてあげることが大切です。男の方に原因があるというのは、男の方が合わせる努力をしなければいけないのですが、それをする男は少ないのが現実です。 だからお父さんと一緒に行っても面白くないし、しんどいだけだから、お友達の方がいいということになってしまいます。
会話が頻繁になくても生活に何の支障もないと思いますが、そんな人生が本当に楽しく幸せな人生だといえるでしょうか。もっと真剣に夫婦の在り方を考えるべきではないでしょうか。
年老いて伴侶と一緒にいるのが楽しいという夫婦を拝見したいものです。今迄に見たことがありません。
2009年9月30日水曜日
年金
ススキゆれ さわやかなれど 淋しげに
私の年金は当初より相当減額になりました。真面目に働いて国の定め通りに文句も言わずに年金を納めて、その結果生活保護者よりも少ないなんておかしいと皆さん思いませんか。
定めの通りに納金した人には、基礎年金さえあれば生活保護者並に最低限の生活が出来なければ、なんのための年金なのでしょうか。
年金で生活していけないのであれば、結局は自己責任で生活を維持していきなさいということですから、それならば全く自己責任にして、年金制度なんか廃止すればいいのです。
年金を掛けていても、年金で生活できないのであれば、そんな年金なんか払いたくないという人が現れるのは当然のことです。 若い人達に年取って収入が無くなったらどうするのと聞けば、その時は憲法で最低限度の生活が保障されているのですから、生活保護を受けたらいいねんと平然として言います。
これは施策の拙さが露呈している現象です。新政権は年金を最低7万円にすると言っています。少しでも上がることは歓迎ですが、そのために現在貰っているひとの年金を減額することは絶対にしないでください。現行で何とか食べているという人は物凄くいるからです。
7万円では生活していけませんので年金は最低生活保護者並に支給すべきです。このことを皆で強く訴えて行こうではありませんか。
お金の必要なことを言いますと「財源はどうするのですか」がうたい文句になっています。そういう議論を聞いていますと、言葉は汚いですが「馬鹿とちがうか」と言いたくなります。
財源はどうするというのであれば、先ずは国会議員の数を減らす。そして議員は贅沢に国の金を使っていますが、一切の無駄を省く努力をする。例えば秘書が必要であれば自分の甲斐性で自腹で雇えばいいのです。
昔は書生という人達がボランティアで手足となって動いたじゃないですか。 議員が先頭に立って一切の無駄を省き、それでも財源が必要であれば国民は喜んで税を負担します。それをしないで国民に負担をかけることばかりを行っているから、国民は馬鹿馬鹿しくなってそっぽを向いて、貯金という自己防衛に走ってしまうのです。そんな状態で内需拡大なんて言っても、誰がお金を使いますか。簡単な数式なのに政治家は分かっていないのです。
恐らくそんな簡単な数式は分かっているでしょう。分かっていてもやらない、やれないというのは政治家の怠慢そのものでしょう。
この度の選挙がいい例ではないですか。今迄やれなかったことを民主党がやると言ったからあれだけ大勝したのです。
国民を舐めたらいかんよ。やると決めて実行してくれればそれに国民はちゃんと応えるのです。
政治家は私利私欲を捨てて歴史に残るいい政治家になってください。 経済と医療面で安心のできる社会を構築してください。そうなればお金なんか貯めておく必要がないのですから、 増税大歓迎で応じます。
2009年9月28日月曜日
年金
私の年金は当初より相当減額になりました。
真面目に働いて国の定め通りに文句も言わずに年金を納めて、その結果生活保護者よりも少ないなんておかしいと皆さん思いませんか。
定めの通りに納金した人には、基礎年金さえあれば生活保護者並に最低限の生活が出来なければ、なんのための年金なのでしょうか。
年金で生活していけないのであれば、結局は自己責任で生活を維持していきなさいということですから、それならば全く自己責任にして、年金制度なんか廃止すればいいのです。
年金を掛けていても、年金で生活できないのであれば、そんな年金なんか払いたくないという人が現れるのは当然のことです。
若い人達に年取って収入が無くなったらどうするのと聞けば、その時は憲法で最低限度の生活が保障されているのですから、生活保護を受けたらいいねんと平然として言います。
これは施策の拙さが露呈している現象です。
新政権は年金を最低7万円にすると言っています。少しでも上がることは歓迎ですが、そのために現在貰っているひとの年金を減額することは絶対にしないでください。
現行で何とか食べているという人は物凄くいるからです。
7万円では生活していけませんので年金は最低生活保護者並に支給すべきです。このことを皆で強く訴えて行こうではありませんか。
お金の必要なことを言いますと「財源はどうするのですか」がうたい文句になっています。そういう議論を聞いていますと、言葉は汚いですが「馬鹿とちがうか」と言いたくなります。
財源はどうするというのであれば、先ずは国会議員の数を減らす。そして議員は贅沢に国の金を使っていますが、一切の無駄を省く努力をする。例えば秘書が必要であれば自分の甲斐性で自腹で雇えばいいのです。
昔は書生という人達がボランティアで手足となって動いたじゃないですか。 議員が先頭に立って一切の無駄を省き、それでも財源が必要であれば国民は喜んで税を負担します。それをしないで国民に負担をかけることばかりを行っているから、国民は馬鹿馬鹿しくなってそっぽを向いて、貯金という自己防衛に走ってしまうのです。そんな状態で内需拡大なんて言っても、誰がお金を使いますか。簡単な数式なのに政治家は分かっていないのです。
恐らくそんな簡単な数式は分かっているでしょう。分かっていてもやらない、やれないというのは政治家の怠慢そのものでしょう。
この度の選挙がいい例ではないですか。今迄やれなかったことを民主党がやると言ったからあれだけ大勝したのです。
国民を舐めたらいかんよ。やると決めて実行してくれればそれに国民はちゃんと応えるのです。
政治家は私利私欲を捨てて歴史に残るいい政治家になってください。 経済と医療面で安心のできる社会を構築してください。そうなればお金なんか貯めておく必要がないのですから、 増税大歓迎で応じます。
2009年9月26日土曜日
夫婦
私は独り住まいですから朝は行きつけの喫茶店でモーニングを食べて朝食としています。
朝の喫茶店にはこれからパートに出かける女性も多数おられます。
女性の会話で一番多いのはやはり夕食の内容に付いてです。「あんたとこ今日は何にするのん」とよく聞きます。「今日はうちは出張でいないし、子供も友達と外で食べてくると言っているから残りものですませるねん」「いいなぁーうちも一か月ぐらい出張で何処かに行ってくれたら楽なのになぁー。毎日決まった時間に帰って来るからしんどいわ」「亭主は元気で留守がいいと言うけどほんまやわぁー」「ほんまやなぁー、何もしないでドサット座っていられたらうっとおしいだけや」と返しています。
私も長年女性ばかりを相手に仕事をしていましたので、多くの女性は旦那に不満を抱いていることは分かっていました。
顔なじみで親しく会話が出来る関係ですから、「あんたらは旦那の悪口ばっかり言っているけど、そうなったのはどちらに原因があるのー」と聞きますと「そりゃ旦那にきまってるやん」と異口同音に答えが返ってきます。
男なんて結婚をして暫くすると、感謝する気持ちや思い遣る気持ち、労わる気持ちはまったくなくなり、それだけでなく女性を馬鹿にしているところがあるからだと言います。
男の仕事と比較したら家事なんか誰にでも出来る、そんな簡単なものはキチットやって当たり前と男は思っている。そして俺の働きがあるから生活が出来ている。だから女は男に対してもっと気遣うのが当たり前と思っている。 それを感じるから次第に一緒にいても面白くない。お金だけ持って帰ってくれたらいいねんということになるのだということです。
男性側にも色々と言い分があるでしょうが、女性に対してそのように考えてている男が多いことは確かです。 女性達も旦那が頑張ってくれているから食べていけることは分かっています。 分かっていてもそれを恩着せがましく言われれば、私達女性の立場はどうなるのと主張したくなるのは当然です。 男は俺が働いているから生活できるのだと威張りますが、男に子供は産めません。 子供を産むという事は物凄いパワーがいると聞いています。それと旦那の仕事とを天秤に掛ければ女性の出産の方が重いかもしれません。
大変な苦痛のもとに子供を産んでくれ、そしてその可愛い子供のために頑張れるのですから、男性はもっと女性に感謝し労わらなければいけないでしょう。 そういう感謝や労わりの気持ちが希薄だから、心が次第に離れて行き、明日から経済的に何の憂いも無ければ直ぐにでも別れたいと思っている女性が存在することになるのです。 そういう気持ちでいる女性が物凄いこといるという事実を男性たちは知っているのでしょうか。
一度別れてしまえば、男は別れてもなお元気でいてくれたらいいなどと相手を気遣う面がありますが、女性は別れたとたんに死ねばいいと思っています。 それは男の方が優しいとか、女の方がきついというよりも女性が男性の横暴に如何に耐えてきたかという証です。 人生で一番幸せなことは幾つ何十になってもチャーミィーの洗剤のコマーシャルにあったように、手をつないで仲良よく人生を歩んで行くことです。
それに勝る幸せはないことを理解されている人は少ないのです。
2009年9月25日金曜日
貴方はお金派それとも愛情派
五十路も過ぎて連れ合いと一緒にいることが楽しい、幸せだというご夫婦を未だ見たことがありません。
恋愛中や結婚当時は一緒にいるだけで楽しく幸せな気分であったのに何処に行ってしまったのでしょう。
人は「慣れる」「忘れる」「飽きる」という性を有しています。これは本能です。この本能があるからどんなに苦しく辛い目にあっても、少しの間だけ耐えていれば必ず普通に生活が出来るようになります。生きて行くために不可欠のものですが、これが愛情にも関わってきて、慣れて、飽きて、当初の熱い気持ちを忘れて消滅させてしまいます。
よく「あの人は情が深い」等と言いますが個々に罪はありません。人によって多少の長短はありますが恋愛感情は必ず消滅していきます。これは神様が人間をそのように作っていらっしゃるのですから仕方がありません。
恋愛感情は必ず消滅しますが、そこからが夫婦の課題であり、個々の人間性が問われるところです。
お風呂の湯も自然にまかせれば必ず冷めていきます。快適に入浴するには追い焚きをしなければいけません。それと同じで仲良く快適に生活をして行くには、相手に対して感謝する気持ち、労わる心、思い遣りという追い焚きをしなければいけないのです。それによって生涯楽しく暮らすことは可能なのですが、自己主張ばかりの応酬合戦になってしまうから、一緒にいても楽しくないということになってしまいます。
そうなれば当然のことながらお金の方が大切ということになってしまいます。仕事も究極の目的はお金を稼ぐためで、趣味もお金さえあればどのようにでもなりますので、仕事も趣味も含めて健康の次に大切なのはお金という人も多くなります。
私は独り住まいですから、毎晩お酒を睡眠薬代わりに飲んで何も考えないようにして眠ります。お金があればどんな高級なお酒でも飲めますが、そんな生活で幸せな筈がありません。私はお金は食べるに困らないだけあればよい。それよりも断然「愛」派です。
2009年9月24日木曜日
生きる
一度しかない命だから、充実した人生を歩みたいと願っている。
そのためにはお金は無視できない。しかし、お金は生家の実情という運命的なものや、個人の実力というものに大いに影響されるものだから、何ともし難いものがある。
残されたものは仕事による自己実現と男女愛・家族愛しかない。俺は一度仕事でもそこそこ実績を残したのだが、俺の愚かさと拙さで今はそれを手放し、今は新しく立ち上げて頑張っているが商売はそんなにあまいものではないので、この年になってからでは難しいかもしれないが、俺は死ぬまでもがいてもがき続けるつもりだ。
そのためには心の支えが必要だ。俺は一度離婚をしているから家族の支えは望めない。あとは男女愛だけだ。
俺のような馬鹿者でもいいと言ってくれる人が現れた。俺はその人を生涯大切にする。
俺のように何時も風波の荒い海で航海をする馬鹿もいるが、支えになってくれる人がいてくれる人がいるから前に進める。感謝で一杯だ。
辛いこと、悲しいこと、嫌なこといっぱいある。でも今はその線上にあるのだから恨まないで前向きに頑張る。
こんな爺でも頑張っているのだから若い人は負けないで頑張って欲しい。自分は何もしないで白馬にまたがった王子様が幸せを運んでくれることは絶対にない。
2009年9月19日土曜日
我が政治の理想
新しい政権が始動した。
今はマニフェストを実行することに傾注している。これまでは様々な公約が実行されることなく、騙され続けてきた我々国民はこれで少しは変わるのではないかと期待感が持てる。
しかし。マニフェストが実行されたとしても、必ずよくなるとは限らない。
どういう世の中にするのがいいのか、我々が直接訴えていくしかない。政治の根本目的は平和で住みやすくそして豊かな国にして行く事だ。その根本に基づいて言えば、富める人は放っておいても死ぬことはないが、底辺の人は放っておけば死んでしまう。
それを考えれば政治はもっと底辺の人達にまとを当てたものでなければいけない。真面目に勤めあげ年金を納めた人には、老後には最低限度生活保護者並の収入と医療を保障すべきだ。現状では食べていけないし不安が一杯だ。
老後に生活の心配がなければ貯金をする必要がない。国民は1400兆金融資産を有しているのだから、心配がなければ使います。そうすれば内需が拡大します。
底辺に厚く等と言いますと二言目には財源が言いますが、徹底して行革を行い、社会保障を充実させれば足りなければ国民は納得して増税になっても払います。 納得できないから増税などを口にすると反対をするのです。税負担を納得し、喜んで負担に応じられる国造りをして欲しい。このままだと俺達の孫達には何の希望も持てなくなってしまう。
2009年9月18日金曜日
2009年9月16日水曜日
達人イチロー
九年連続200本安打の達成おめでとうございます。
以前はオリンピックの陸上競技に象徴されるように西欧人や黒人には身体能力において劣るとされ、野球においても全く歯が立たなかったものが、アメリカにおいて偉業を達成させたことは、日本人として本当に嬉しく、イチローには何故かしら感謝したい気持ちです。
打撃においての物凄さは周知の通りですが、12日の試合で守備の物凄さに驚嘆いたしました。
1回裏ノーアウト2塁の時に次打者が大きなライトフライを打ちました。イチローは追います。ところがフェンスの大分手前で追うのをやめて、2塁ランナーを見ました。その姿はいかにもフライを捕球出来ると言わんばかりの振り返り方です。
球はイチローの頭上を大きく越えてフェンス直撃です。その球はワンバンドしてイチローのところに帰ってきました。
最後まで追っていれば2塁ランナーは楽々の生還です。イチローに牽制されたために動けずランナーはそのままで1塁2塁です。
それを見ていて大昔の剣豪を見ているようでした。冷静なよみと動きときれにはうなってしまいました。凄いです。
政治家の先生方どうか見習って下さい。天才が努力すればあそこまでなれるのです。 イチローに少しでも近づく努力をしてください。今年のオフには国民栄誉賞を上げてください。
2009年9月15日火曜日
吉祥文様
菊水文様
重陽の節会が始まったのは平城天皇の大同二年(807年)です。
しかも当日の宣命のなかに節会再興の思し召しが述べられていますので、これ以前から行われていたものと思われます。
菊花は神仙にいう長寿の瑞草隠逸{ずいそういんいつ(菊の異称)}の君子とされ、また日精と呼ばれ、太陽の精気含んだ花とされ、百草の王とも言われています。
菊花は人間の身体を軽くして精気を増し、更に人を健康にするという効果があると言われています。
菊を浸した水は生命の水、不老長生の水であり、菊に水を配して瑞祥の文様とするのは、全てこの話から生まれたものです。
織文としての菊は鎌倉時代以降で、後鳥羽天皇をはじめとする仙洞の御紋でした。菊の紋章は明治二年八月に十六弁八重菊を皇室の御紋章と定め、皇族は十四弁単裏菊をもって定め、皇室以外の使用は禁止されました。
2009年9月14日月曜日
優しさは人生を豊かにする
前から自転車が来た。このままだと当りそうだから慌てて右に進路を変更。すると相手も左に変更。あわてて左に変更。すると相手も右に変更して衝突寸前で止まった。
私は軽く会釈をしたが相手は鬼面のような顔をして怒って去った。
前から高校生が自転車で狭い歩道二列で話しながら幾重にも成って走ってくる。対面で歩いている私達はこのままでは通れない。目前に来れば避けて道を明けてくれるだろうと思っていたが、避ける様子がないので私達歩行者の大人達が逃げるようにして慌てて道を明ける。
昔は年長者や目上の人を敬い、そういう場合は歳下の人が道を明けるというのが常識だったが、そういうモラルは消滅しようとしている。
目上の人を敬い、弱気を助け強気を挫くという気概はない。人のやめに優しくするというのは親切だけの強要や押し売りをしているわけだはない。
人に優しく気配りができるという事は人のためでなく、自分の人生の充実に欠くことのできない要素だからです。 そういう関連性が理解出来ない人が増えている。親や学校の先生はそこまで分かって教育やしつけをしているのだろうか。最近の子供をみとぃると疑ってしまう。
おすすめリンク着付名人http://kitukemeijin.jp/index.html
動画の着付け
私は軽く会釈をしたが相手は鬼面のような顔をして怒って去った。
前から高校生が自転車で狭い歩道二列で話しながら幾重にも成って走ってくる。対面で歩いている私達はこのままでは通れない。目前に来れば避けて道を明けてくれるだろうと思っていたが、避ける様子がないので私達歩行者の大人達が逃げるようにして慌てて道を明ける。
昔は年長者や目上の人を敬い、そういう場合は歳下の人が道を明けるというのが常識だったが、そういうモラルは消滅しようとしている。
目上の人を敬い、弱気を助け強気を挫くという気概はない。人のやめに優しくするというのは親切だけの強要や押し売りをしているわけだはない。
人に優しく気配りができるという事は人のためでなく、自分の人生の充実に欠くことのできない要素だからです。 そういう関連性が理解出来ない人が増えている。親や学校の先生はそこまで分かって教育やしつけをしているのだろうか。最近の子供をみとぃると疑ってしまう。
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2009年9月12日土曜日
きものと帯の調和・格式の統一
着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
その内で・格式の統一・材質の統一は約束事ですから守らなければいけません。
フォーマルは間違うことはないとおもいますが、問題は外出着と街着です。
外出着というのは御挨拶やお礼に他家を訪れる時に儀礼の意味を込めて着る服です。街着は買い物や散策観劇の時に着るお洒落着です。
外国ではオペラやクラシックの演奏会に行く時は礼装もしくは盛装です。それと同じで日本でも歌舞伎や社中の会では盛装が常識です。
外出着は染めの着物です。染めの着物のときは、帯も様々な色糸や金糸、銀糸、箔糸などを使用して織った帯を組み合わせるのが約束事です。
お洒落着の代表は紬ですが、紬は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を組み合わせるというのが約束事になっています。染めのきものをお洒落着として使用することは間違いではありません。逆に紬などは外出着として利用できません。御正月に男性は大島を晴れ着のように着る人がいますが、それはまちがいです。
上図に染と織のきもの両方に染め帯を組み合わせてあります。江戸時代のならわしをそのまま踏襲して、染帯は染め織両方に締めてもいいことになっています。
2009年9月10日木曜日
年齢詐称
彼女に年齢を詐称していることを言わなければ俺の愛は虚偽になってしまう。
思い切って言いました。彼女は大変怒りました。
そりゃそうです。 俺らの年齢になれば5歳の差異は物凄く影響します。
最初から嘘を付いていたということは、最初から遊びのつもりであったのだろうとも彼女は言いました。年齢のことよりもそのことが許せなかったようです。
俺には何の弁解の余地もない立場ですが最初から遊びであったのだろうということには、それは違うからと弁明をしました。
付き合っても好きでない人に対しては、詐称していることを告白する必要はありません。好きになれば行ったらいいわと安易に考えていあたのです。
だけど一目惚れ状態で好きになってしまった。 好きでなければ何でも言えるから、そのまま隠していると負い目を感じるから近々に言うつもりでした。それがあまりにも好きになってしまうの早すぎたのです。
秘め事があっても好きになってしまえば、言えば嫌われるのではないかと思い、なかなか言い出せないという事はあるでしょう。 他意はない、そういう状態に陥ってしまったのです。
遊びだったら隠し通します。非常に曲がった告白ですが、嫌われるのを覚悟で告白をしたという事は、大切におもっているからで、それこそが愛の告白と違うかといいました。 やっと彼女は分かってくれました。嬉しいです。
2009年9月9日水曜日
男のサアウナー
スポーツクラブのサウナーに入りますと、皆さん股を開いて一物をこれ見よがしにしています。いくら男同志でも醜いです。
日本では竹は節操の象徴とされています。竹は正しく節を有しているからです。
人間の間という意味は、私の勝手な解釈ですが竹のように正しい節、即ち節操という意味ではないかと以前から思っています。
人と言えば物体の呼称ですが、人間というのは社会人としての人格を有している人達という意味ではないでしょうか。
人間の生きて行く目的は各自の幸せ充実です。そのために最も大切なのはお金ではなく人間関係です。
その人間関係を円滑に楽しいものにして行くには節操というのが最も大切ですから、
正しい節と節の間という意味での間ということではないでしょうか。
汚い一物なんか誰も見たくないのですから、慎み深く隠そうね。それも節操でしょう。
日本では竹は節操の象徴とされています。竹は正しく節を有しているからです。
人間の間という意味は、私の勝手な解釈ですが竹のように正しい節、即ち節操という意味ではないかと以前から思っています。
人と言えば物体の呼称ですが、人間というのは社会人としての人格を有している人達という意味ではないでしょうか。
人間の生きて行く目的は各自の幸せ充実です。そのために最も大切なのはお金ではなく人間関係です。
その人間関係を円滑に楽しいものにして行くには節操というのが最も大切ですから、
正しい節と節の間という意味での間ということではないでしょうか。
汚い一物なんか誰も見たくないのですから、慎み深く隠そうね。それも節操でしょう。
2009年9月8日火曜日
吉祥文様
2009年9月7日月曜日
吉祥文様
吉祥文様とは「よいしるし、めでたいしるし」の意味で、それを表現した文様を総称して吉祥文様と言います。
・三寒三友(さんかんさんゆう)
松・竹・梅を三寒三友と言います。 冬の寒さに耐えて育つところから、艱難辛苦に耐えて生育するという意味で、吉祥文様としては最高位を与えられ て、祝賀の時は必ず用いられています。・四君子(しくんし) 四君子は梅・竹・菊・蘭の四種を言います。
高潔のことが君子のようだという意味で付けられた名です。 蘭は美しく、蘭気(香り)がすがすがしくさっぱりとした香気なので、君子になぞられています。
竹は四季緑を変えず、その成長と繁殖の目覚ましい活力、不思議な中空の幹の形態などによって、霊的なもの 或いは神性なものとみなされていました。
重要な神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)として現在も欠くべからざる植物とされ、地鎮祭・七夕 祭りの主役として使用されています。
中国では瑞鳥の鳳凰が桐の木に宿り、竹の実を食べて成長するという、いわば慶寿の植物とされてきました。
さらに竹が節を正しく持するため、節操の正しいものの代表として梅・蘭・菊と共に四君子の一つに数えられ こうした考えが松・梅・と結びついて歳寒三友、松竹梅の観念を生み出し、広く一般に知られるようになりました。
宝尽くしと七福人は次回に回します。
2009年9月4日金曜日
模様の由来
模様には地名を表したものがあります。
・近江八景
中国の景色のよい名所を真似て近江の国の琵琶湖付近の・比良の暮雪(ぼせつ=暮れに見る比良の雪)・矢橋 (やばせ)の帰帆(きはん)・石山の名月・瀬田の夕照・三井の晩鐘・堅田の落雁・粟津の晴嵐・唐崎の夜雨 を近江八景と言います。
・武蔵野文様
武蔵野は関東平野の西にある平らな台地をいいます。 山らしい山もなく、月は草より出でて草にはいるといわれ、その趣のある風景を取り入れた文様です
・八ツ橋文様
八ツ橋は愛知県にある地名です。 かきつばたの名所で、在原業平が歌を詠んだ地として知られています。 川の流れに折れ折れにつながった橋とかきつばたを配した情景を、尾形光琳が「八ツ橋蒔絵硯箱」として作りまし た。それが有名になり意匠として用いられるようになりました。
・洛中洛外図
安土桃山時代を中心に流行した屏風絵の一つです 京都の内外に皇居、幕府、社寺、邸宅、住居、商店などが並び、沢山の民衆が起居していた都会の生活の繁栄 の様子を描いたものです。 名所を中心に庶民の生活や様々な職人の生活を描き出します。
2009年9月3日木曜日
きものと帯の調和
着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
その内で・格式の統一・材質の統一は約束事ですから守らなければいけません。
フォーマルは間違うことはないとおもいますが、問題は外出着と街着です。
外出着というのは御挨拶やお礼に他家を訪れる時に儀礼の意味を込めて着る服です。街着は買い物や散策観劇の時に着るお洒落着です。
外国ではオペラやクラシックの演奏会に行く時は礼装もしくは盛装です。それと同じで日本でも歌舞伎や社中の会では盛装が常識です。
外出着は染めの着物です。染めの着物のときは、帯も様々な色糸や金糸、銀糸、箔糸などを使用して織った帯を組み合わせるのが約束事です。
お洒落着の代表は紬ですが、紬は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を組み合わせるというのが約束事になっています。染めのきものをお洒落着として使用することは間違いではありません。逆に紬などは外出着として利用できません。
御正月に男性は大島を晴れ着のように着る人がいますが、それはまちがいです。 上図に染と織のきもの両方に染め帯を組み合わせてあります。江戸時代のならわしをそのまま踏襲して、染帯は染め織両方に締めてもいいことになっています。
2009年9月2日水曜日
模様の由来
古代には事ある毎に女は鬘(かつら=草花で髪を飾る)を巻きました。それを桂とも書きます。
頭に巻くターバン鉢巻のことです。この鉢巻のルーツは挿頭花(かんざし)で、花の生命力を自分の身体に付けることによって、元気になり幸せになるという生命触れ合いの信仰からきています。
人も自然の一部ですから自然と調和して、自然のサイクルと生命のサイクルが一致していれば健康で幸せになれるという信仰から、自然のものを身に付けて生命力を得ようとしました。
生の植物を装身具にすることから発して、それがべっ甲、珊瑚、金銀にとってかわるようになり、植物は衣服の文様として用いられるようになりました。
和服の模様は健康で幸せになれるという信仰からはじまっていますので、すべての模様は吉祥につながっています。
昔の人はそういう事については造詣が深く、人の交わりを大切にしましたので、和装に付いても約束事をきちっと守りました。
例えば、留袖の時の襦袢の色は白色と決まっています。喪服の時の襦袢の色も白色という約束事になっています。
留袖も喪服も同じ白色ですから、最近の人は色だけを取り上げて留袖にも喪服の時にも兼用できるように綸子の白の襦袢を用意されていて、それをどちらにも着ておられる人がほとんどです。そしてそれで正しいと思っておられる人がほとんどですが、それは本当は正しい着装ではありません。
地模様のあるもの、即ち模様は全て吉祥につながるものですから、昔の人は同じ白でも、喪服の場合は羽二重か縮緬の無文の生地で仕立てたのです。それをきちっと守らなければ、喪服を着ても意味がないのです。
そういう細やかな心使いを怠らないのが本来の日本人の美意識です。欧米の文化が横行しだしてから、日本人の美意識も変わってしまいました。良いものはドンドン取り入れてもいいですが、日本古来の良い面を捨て去ってしまっているようにおもいます。差し引きマイナスという面が多く目に付くようになっていることが残念です。
2009年9月1日火曜日
流れ
時は流れ そして人生もとどまることなく進む
時は悠久に流れるが 人生の流れは止まりやがて忘れられて行く
それは仕方のないことだが あいつが生きている間だけは
あいつの中に留まってさえいれば 俺は幸せだったと言える
俺は小五の時に新聞配達をさせてくれと頼みに言った。配達は中学からでないとさせられないと断られた。俺の頼みが切実だったので、配達はさせられないが売る方だったらさせてやると言って働き始めた。
その時から俺はずーとずーと今も懸命に働いている。働くのが嫌で言っているのではない。納得して頑張って来た。辛いことや嫌のことは山ほどあった。
人を愛し、そして捨てられ、また裏切った時もあった。憎み恨み、そして恨まれ憎まれた時もあった。だけどそういうことがあったからこそ、新しい人生のページが始まることは確かだ。
どんなに苦しみ、嘆き、恨みを抱いていても。新しい人生のページはその線上にしか開かない。
新しいページは忌まわしい過去の線上にしか開かないのだから、憎んだり恨んだりしないでむしろ感謝するようにしようと今は思う。
俺も昨年は死にかけた。その前には辛いこと嫌のこともあった。だけど今新しいページが開かれようとしている。
過去のページがあるから、新しいページが開かれようとしているのだから、過去は忘れて新しいページを楽しい紙面にすることだけを考えて生涯を終えたいと思っている。
新しいページを開いてくれたあの人にこのページを捧げたい。ありがとう。
2009年8月31日月曜日
ブログを世直しに
選挙の結果が出ました。戦前の予想通りに民主党の大勝です。
民主党が素晴らしいから、民主党の所属議員が素晴らしい人達だから勝利したわけではありません。
ただただ閉塞した社会を改善してほしい、変えて欲しいという国民の期待だけで政権を国民から委譲されただけですから、民主党はs国民の期待を裏切らないで死に物狂いで政局に臨んで頂きたいです。
そして望ましくは60歳まで真面目に勤めあげて年金を納めて来た者には、年老いてから医療費の心配をしなくてもいいように。そして最低限度の生活はして行けれる国造りをして欲しいと念じています。富める人は放って置いても大丈夫ですが、貧しい人は放っておけば死んでしまいます。富める人達は貧しい人達の力の上に存在出来ているのですから、政治は底辺の人に標準を合わせたものにするのが筋の通ったものではないでしょうか。
二言目には財源がといいますが、年老いてから心配のない国にするのだという確かなビジョンを持って政治を行う。そういう決意で国造りをして行き、政治家は率先して議員の数を大幅に減らしていき、行革を徹底して行く姿 勢を見せれば、国民は税金が上がってもお金は出します。将来に対して何の不安も心配もない社会を構築すれば、お金なんて貯める必要がないのです。
国民を納得させる政治を行えば国民は負担を拒みませんから財源なんかどうにでもなるのです。現状維持で高福祉を行おうと考えれば不可能なのは当たり前です。
年老いても心配のない国造りをする。そういう確かなビジョンをもって徹底して行革を行えば国民はついていきます。様々な人がいて中にはお金を貯めるのが趣味という人もいますが、そういう人は奇人で稀です。多くの人は先で生活の心配がなければ、国民は1400兆もの金融資産を有しているのですから使います。
内需なんていいますが、心配のない社会を構築しない限り内需が拡大することがありません。
何でそんなことが分からないのか、ブログをやっている人は皆で一斉に吠えれば、サイトの影響力は今や無視することが出来ない位に大きな勢力になって来ていますので、「世の中が変わるかも知れないのにね」と行きつけの 喫茶店のママに言いました。
するとそのママはサイトで遊んでいるようなゆとりのある人に、そんな深刻な話をしても無理無理と怒っていました。確かにブログで政治向きのことや固苦しい事を記しますと途端にアクセス数が減ります。私も最近はそうかなぁーと少し思えるようになりました。このように書くとまたきっとアクセス数は減るでしょうね。
でもね。私達一般人には新聞の投稿欄ぐらいで、私見を述べる場は今まではありませんでした。ところが有り難いことに無料で思い思いのことを述べれるようになり、それが今や全国に発信されます。こんな有り難い手段を楽しみや遊びの具としてのみ使うのは勿体ないです。
個人攻撃や中傷誹謗に使うのは絶対にいけませんが、世の中を良くする手段としてもっと活用すべきではないかと私は思っています。いまやサイトの力は無視できないのですから、次代の子供達のためにもっと世直しに利用すべきではないでしょうか。
ここをクリックして頂きますと動画の着付が見て頂けます
民主党が素晴らしいから、民主党の所属議員が素晴らしい人達だから勝利したわけではありません。
ただただ閉塞した社会を改善してほしい、変えて欲しいという国民の期待だけで政権を国民から委譲されただけですから、民主党はs国民の期待を裏切らないで死に物狂いで政局に臨んで頂きたいです。
そして望ましくは60歳まで真面目に勤めあげて年金を納めて来た者には、年老いてから医療費の心配をしなくてもいいように。そして最低限度の生活はして行けれる国造りをして欲しいと念じています。富める人は放って置いても大丈夫ですが、貧しい人は放っておけば死んでしまいます。富める人達は貧しい人達の力の上に存在出来ているのですから、政治は底辺の人に標準を合わせたものにするのが筋の通ったものではないでしょうか。
二言目には財源がといいますが、年老いてから心配のない国にするのだという確かなビジョンを持って政治を行う。そういう決意で国造りをして行き、政治家は率先して議員の数を大幅に減らしていき、行革を徹底して行く姿 勢を見せれば、国民は税金が上がってもお金は出します。将来に対して何の不安も心配もない社会を構築すれば、お金なんて貯める必要がないのです。
国民を納得させる政治を行えば国民は負担を拒みませんから財源なんかどうにでもなるのです。現状維持で高福祉を行おうと考えれば不可能なのは当たり前です。
年老いても心配のない国造りをする。そういう確かなビジョンをもって徹底して行革を行えば国民はついていきます。様々な人がいて中にはお金を貯めるのが趣味という人もいますが、そういう人は奇人で稀です。多くの人は先で生活の心配がなければ、国民は1400兆もの金融資産を有しているのですから使います。
内需なんていいますが、心配のない社会を構築しない限り内需が拡大することがありません。
何でそんなことが分からないのか、ブログをやっている人は皆で一斉に吠えれば、サイトの影響力は今や無視することが出来ない位に大きな勢力になって来ていますので、「世の中が変わるかも知れないのにね」と行きつけの 喫茶店のママに言いました。
するとそのママはサイトで遊んでいるようなゆとりのある人に、そんな深刻な話をしても無理無理と怒っていました。確かにブログで政治向きのことや固苦しい事を記しますと途端にアクセス数が減ります。私も最近はそうかなぁーと少し思えるようになりました。このように書くとまたきっとアクセス数は減るでしょうね。
でもね。私達一般人には新聞の投稿欄ぐらいで、私見を述べる場は今まではありませんでした。ところが有り難いことに無料で思い思いのことを述べれるようになり、それが今や全国に発信されます。こんな有り難い手段を楽しみや遊びの具としてのみ使うのは勿体ないです。
個人攻撃や中傷誹謗に使うのは絶対にいけませんが、世の中を良くする手段としてもっと活用すべきではないかと私は思っています。いまやサイトの力は無視できないのですから、次代の子供達のためにもっと世直しに利用すべきではないでしょうか。
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2009年8月28日金曜日
絵模様に付いて
平安時代の重ね色目に見られるように絵模様の持つ意味合いは当初は季節感でした。
季節感といっても季節をめでるというだけでなく、偉大な自然の力にあやかるという信仰心の方が勝っていました。
吉祥、有職模様は自然の息吹を絵模様の題材にしたもので、あやかるという美意識は東洋人特有のものです。
江戸時代までの絵模様は吉祥と季節感によるのものでしたが、江戸時代の中期以降になりますと次のような絵模様が加わってきます。
(1)伝説、伝承、故事、諺などによる絵模様
(2)年中行事に関連した絵模様
(3)物語、詩歌などに取材したもの
(4)歌枕、名所の風景を現したもの 近江八景、須磨明石、日本三景(天の橋立、松島、厳島) 淀、住吉、宇治、吉原などです。
(5)俗信 蛤の年を経たものが海中で気を吐くと蜃気楼があらわれる といったようなこと。
(6)判じ物的なもの 上図の下中の芝翫縞(しかんじま)は四つの縞と鐶(かん)つなぎを合わせたもので「しかん」と洒落ています。 歌舞伎役者の三代目中村歌右衛門が作った縞です
吉祥模様や有職模様のいわれを探っていますと、古代から人はどう生きるべきかの思考が垣間見られて楽しいですよ。
2009年8月27日木曜日
2009年8月26日水曜日
振袖の変遷
明治維新を迎え礼盛装は洋服一辺倒になりましたので、きものは江戸時代の後期のものが現在のきものの原点となり、模様や帯結びだけが多少変化してきているとうい状況です。
江戸時代の一般庶民の礼盛装は江戸褄に代表されるように裾模様が主です。その傾向は昭和の初期まで続き昭和に入って上図右下の振袖のように総模様が着用されるようになってきます。
また模様においては明治時代に科学染料が普及し、型友禅なども普及したことによって大正時代の後半になりますと、上図左下の振袖のように花卉を大きく大胆に洋画風に描写する絵柄も出てきます。
着物は時代の流行に合わせて袖たけを長くするとか、帯結びに変化を設ける以外にバリエーションのもたせ方がありませんので、昭和の50年代くらいから様々な変わり結びが結ばれるようになりました。
それは美容界の指導者や、きもの学院が普及してきて、人と違ったものを作り出して講習材料としなければネタがないというところから発生したものです。
皇室の皆様は振袖をお召しになる時は古式に従ってふくら雀しか結ばれません。一般の人でもご結納の時に振袖をお召しになられる場合は、古式通にふくら雀に結んで下さいと言われる人もおられます。
2009年8月25日火曜日
変わり結びについて
きものの場合大きく変化を見せれるところといえば帯結びしかありません。
きもの学院や美容界の着付の指導に当たっている人は、変わったことが出来ることをアピールするには、花嫁の打掛けが着せれるとか、振袖の帯結びを数多く知っているということぐらいしかありませんので、競って次々と新しい帯結びを創作します。
別にそれがいけないことではないのですが、上図を見て下さい。私なども毎年幾通りかの帯結びを創作しておりましたが、ピアノを引いているふくら雀の女性は素晴らしではないですか。
こんなに色々な帯結びができます。こういう様々な帯結びを出来るようにするには勉強が必要でコストがかかりますので、変わり結びはこれだけの料金を頂戴していますと、着付る方のつごうによって出来上がっているのであって、何を結んでも着る本人にはあまり関係はありません。
きものを着ていて素敵に着こなしているなぁー。素敵な人だなぁーと感じるのは、前姿だけを見て感じることであって後ろ姿で決まるわけではありません。
襟合せとか、帯の巻きつけとか、おはし折りの整え方、帯の位置とか、全体のシルエットの出し方とそのための補正、そして最も大切なのは来ている人の姿勢、歩き方、立ち姿や内面から出ている覇気や輝きによって決まってしまいます。そう考えれば帯結びなどは全く関係ありませんので、帯結びなどにあまりこだわらないで着付けをして頂くといいと思います。
ここをクリックして頂きますと動画の着付けが見て頂けます
きもの学院や美容界の着付の指導に当たっている人は、変わったことが出来ることをアピールするには、花嫁の打掛けが着せれるとか、振袖の帯結びを数多く知っているということぐらいしかありませんので、競って次々と新しい帯結びを創作します。
別にそれがいけないことではないのですが、上図を見て下さい。私なども毎年幾通りかの帯結びを創作しておりましたが、ピアノを引いているふくら雀の女性は素晴らしではないですか。
こんなに色々な帯結びができます。こういう様々な帯結びを出来るようにするには勉強が必要でコストがかかりますので、変わり結びはこれだけの料金を頂戴していますと、着付る方のつごうによって出来上がっているのであって、何を結んでも着る本人にはあまり関係はありません。
きものを着ていて素敵に着こなしているなぁー。素敵な人だなぁーと感じるのは、前姿だけを見て感じることであって後ろ姿で決まるわけではありません。
襟合せとか、帯の巻きつけとか、おはし折りの整え方、帯の位置とか、全体のシルエットの出し方とそのための補正、そして最も大切なのは来ている人の姿勢、歩き方、立ち姿や内面から出ている覇気や輝きによって決まってしまいます。そう考えれば帯結びなどは全く関係ありませんので、帯結びなどにあまりこだわらないで着付けをして頂くといいと思います。
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2009年8月24日月曜日
袖の変遷
着物のことを昔は小袖と言っていました。これは衣の大袖に対して上図の左上のように小さい搾袖(つつそで)だったのでそのような名称がつけられました。
その小袖は次第に表に現れる部分が多くなり、白色だったものに色や絵模様がほどこされて、安土・桃山時代には小袖中心の時代にとなります。
公服は公家社会、武家社会に確立されているのですが、安土・桃山時代になると貴賤を問わず小袖を着て過ごすようになります。
表衣化しますと身幅、身丈も変化をするのですが、特に大きく変化をするのは袖です。安土。桃山時代には筒袖から少し袂が膨らんで薙刀袖(なぎなた)になります。元禄時代になりますと更に袂が大きくなって元禄袖と言われるようになります。そして宝歴(1704~1711年)年間になりますと現在の角袖と言われる形になります。
角袖は四文銭で丸みを付けましたので銭丸袖とも言います。袖は振りの無いのが本来のお袖の形ですが、袖丈が長くなり、帯幅が広くなったことで上図右下のように明和(1764~1772年)年間になると振りが付けられることが一般化します。
但し、武家の女房は庶民の真似をしないで留袖で通しました。昔は結婚をすれば留袖仕立てにするのが習わしでしたから、留袖はミセスを表す言葉として使われています。
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