2011年7月1日金曜日

ちんちん電車




 私には腹違いの姉がいまして羽衣に住んでいました。
羽衣から次の駅の浜寺までは高級住宅街で、自分が住まいする高石とは全く町の佇まいのが異なり珍しかったので羽衣から浜寺までよく歩き回りました。
浜寺からは阪堺電車が阿倍野まで行っています。
大阪で唯一残っているちんちん電車です。
私達の時代には路面電車と言わないで、発車するときにぶらさっがっている紐を運転手さんが引きます。
そうしますとチンチンとなって電車が発車しましたので、専らチンチン電車といっていました。
その路面電車が今でも浜寺から恵美須町迄走っています。
そして浜寺終点駅は今も私達の子供の頃と変わらない姿で活躍しています。
懐かしくて胸が躍ってしまいました。
そして明治の建築家・辰野金吾が明治40年に設計して竣工した浜寺公園駅舎が、今でもモダンな佇まいで活躍しています。
昔の電車は茶色一色でしたが今はコマーシャル一杯で、彩もにぎやかに化粧していますが、浜寺駅は子供のころと同じです。
子供の頃に一瞬でも戻れる風景は懐かしいです。

2011年6月30日木曜日

懐かしの浜寺公園



昔は大阪湾は茅渟の海(茅渟の海)と呼ばれていました。
泉南郡、泉北郡から淡路までの地名が茅渟と言われたていたことに由来します。
茅渟の海の沿岸には高師の浜と言われる松原が広がり万葉の時代から親しまれていたと言われています。
南北朝時代に後醍醐天皇の勅命により三光国師(さんこうこくし)がこの地に大雄寺(たいゆうじ)を建立しました。「山の寺」と呼ばれていた吉野の日雄寺対して、大雄寺を浜の寺と称したところから浜寺という地名になったと言われています。
高師の浜と言われ美しい松林が広域に続いていて名所として親しまれて来ましたが、幾度かその松林の存続が危機にさらされたことがあります。
その最も近い出来事が明治維新です。
明治5年に政府は生活に困った士族に松林を払下げて伐採が行われました。
明治6年にたまたま視察に来ていた有名な大久保利通がその光景を見て「音にきく 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」という歌を詠みました。「あだ波」は、たいした風もないのに立つ波、すなわち軽々しい行為のたとえです。
太古から存在し名所として親しまれているものを軽々しく損ねていると怒ったのです。
その歌を見て一緒に視察していた税所 篤子爵が堺県令に直ぐに伐採を中止するように告げて松原が守られました。明治6年に浜寺を堺県知事は公園としました。浜寺公園は日本で一番早くに公園に指定されたと言われています。
 昭和22年にアメリカが進駐軍の宿舎用地として使用しました。
私が幼い頃は既に進駐軍がいましたので全貌は見たことがありませんでした。
昔の26号線から松林を抜けると直ぐに海で、高石とは海続きになっていましたが、浜寺からは境界線が設けられていて浜寺の海では泳げませんでした。
初めて懐かしの浜寺公園を散策してきましたが、松林が羽衣駅~浜寺駅を過ぎても連なっている素晴らしい松原です。進駐軍が使用していた消火栓がところどころにそのまま残っています。
涼しくなれば公園に汽車も走っていますので孫を連れてってやりたいです。

2011年6月29日水曜日

墓参り


娘が二度目の妊娠をして、つわりがひどくて何も出来ない状態に陥っていると聞いて、妻が泊りで家事応援に行くことになり送っていきました。
 二歳半の孫がいるのですが、妻が仕事をしていますので訪問をすることが少ないので、久しぶりに行って顔を見せますと驚いて泣かれてしまいます。それでも直ぐに懐いてくれるのですが、次に訪問をすると忘れられていてまた泣かれます。
 主人の実家の近くに住まいしていて、ご両親やご兄弟に可愛がられているようですから、心配はないのですが、出産の折には少しは私達も手伝いをしなければいけません。そのためには孫に懐いてもらえるようになっておかなければいけませんので、暇があれば手伝いに行きたいと思います。
 行先は和泉大津で、私は小4までは高石育ちで両親の墓が高石にありますので送って行った帰りに久しぶりにお墓参りをしてきました。

 仏壇をお持ちの方は仏壇に始終手を合わしておられると思います。
 よく「行ってくるよ」「帰ってきたよ」と言って先祖にご報告をしているシーンなどをドラマなどでみかけるのですが、亡くなった人は仏壇にはいないそうですね。
仏壇に手を合わせるのは仏壇の奥に祀られている如来像があります。その仏様に「亡くなった人を見守ってください慰めてやってください」とお願いをするために拝むと聞いています。
家に帰ってくるのはお盆だけで、そのための迎え火、送り火を炊くそうです。
 普段は墓に眠っているので頻繁にお墓参りをしなければいけないのですが、それがなかなかできません。
出来ないなんて言うと何か行けない理由があるように聞こえますが、そんなことはないのです。
自分の心がけ、思い遣りが足りないだけです。
それでもこうしてたまに行って、花を活け替えて、香をたいて、墓に水をかけて手を合わせますと、何とも言えない落ち着いた気分になれます。
神仏に手を合わせている間は世俗から離れた別世界に身を投じているからですね。
これからは度々墓の前を走ることが生じると思いますので、両親から「どうしたん珍しいなぁー雨が降るで」と言われるように行って話してやろうと思います。
愚痴や悩みや泣き言は言いません。
言う言葉は一つだけです。「楽しくやってるか」「もうすぐ行くから下界が良く見えるいい場所確保しておいてや」です。

2011年6月28日火曜日

冥途の旅 奪衣婆(だつえば)


三途の川を渡りきると一本の木が立っています。この木は「衣領樹」(えりょうじゅ)と呼ばれています。
この木の下で爺さんと婆さんが死者が来るのを待っています。
爺さんは懸衣翁(けんえおう)と言い、婆さんは懸衣嫗(けんえおう)と言います。
この婆さんの役目は冥途の旅人の衣服をはぎ取ることです。
そのために「奪衣婆」(だつえば)とも言われています。
奪衣婆は、はぎ取った衣服を懸衣翁に渡します。懸衣翁はこれを衣領樹にかけます。
この衣領樹は旅人の生前の罪の重さをはかる木なのです。衣服をかけると罪の重さによって枝のしなりが異なる仕組みになっています。この木ではかられた罪の重さが第二法廷の証拠物件となります。
第二法廷の裁判官は初江王(しょこうおう)です。
ここでは死者の生前の殺生に付いて裁かれます。五戒の内でみだりに生き物を殺す殺生は最も重い罪に問われます。
そのあとも裁判は第三、第四、第五、第六、の裁判を経て四十九日目にいよいよ最後の裁判を受けます。
それで結審されるわけです。それが満中陰です。
最終判決がくだされますと裁判官は六道のうちのどれかを決めます。
第七の泰山王(たいせんおう)は死者に六の鳥居を示してどの鳥居に進むかを選ばせます。
どの鳥居はどの世界に通じているかはわかりません。あくまでも自分で来世を決めるのですが、この選択は前世の業による結果なので、自分んで選んだつもりでも選択肢は決まっているのです。因果応報の原理が存在しているからです。

2011年6月27日月曜日

ドラマ「江」千利休死す


秀吉の茶頭である千利休は多くの名将達から敬愛されていました。
言わば一介の茶坊主が多くの武将から尊敬されて政治的に影響を持ってくる。それは秀吉子飼いの石田三成などからすれば許されないことです。何としても利休を政治の場から追放したいと画策し、その結果として利休は自刃に追い込まれます。
秀吉とすれば利休が許しを請うて従順を誓えば許してやりたいという気持ちがあったようですが、利休は死罪を選択します。
ここが千利休の精神性の高さを感じる、たまらなく感銘を受けるところです。
利休は禅宗の勉強をして、生きて行くうえで最も大切なのは心の潤いであることが分かっています。
利休の言葉である有名な「一期一会」は、会った縁を大切に最大限にもてなすということです。
 茶事は手段であって最も大切なことは心を込めてもてなす。心の交流を第一義にしているのです。
 心の触れ合いによって、みんなが優しく心豊かに生きて行けるようにする。だから茶道なのです。
ところが秀吉は権力者でり、支配者で生い立ちからくる理念は力が一番という人です。
 利休とは根本的に理念が異なる人種ですから、力関係は秀吉の方が上ですから、利休は無碍には反抗できませんが、人間としてのあるべき姿の真理(仏教の教理)から外れている秀吉を心では蔑んでいたと言われています。
そんな秀吉に許しを請うという事は自身の理念信条を放棄してしまう事になる。
それだけは絶対に出来ない。そう考えて茶道の祖として命を賭して自身の理念と信条を守り抜いた。
私もお稽古事に携わる一人として、それが利休という人だと思っています。
権力にたしては媚びて迎合して行く人間が多い中で、武士や僧侶たちにも勝る潔さに感銘をしているのは私だけではないでしょう。
 吉田松陰は獄中で「私が世の中の為に何か出来るのであれば生きたい。そうでなければいつ死んでも構わない」と言っています。幕末には近代日本の礎を作るために自分の命を擲って多くの人が死んでいます。
 人間は遅かれ早かれ必ず死にます。ならば命よりも生きて何をすべきか。生きていたことの証を残すことが大切ではないでしょうか。
 政治家の先生方確りしてください。命を懸けて死んで名を残す人になってください。権力闘争に明け暮れる議員の姿を見ていて、先生方は自分では私は偉い賢いと思っておられるとおもうのですが、国民は馬鹿と違うか救いようがないわぁーと呆れていますよ。

2011年6月26日日曜日

我住まい近辺の風景





我住まいは右側に見える武庫川団地です
団地内は緑が多いし、周辺は武庫川あり甲子園浜ありで散歩が楽しくなります。散歩しながらデジカメをぶら下げて撮りました。
ここをクリックしていただければ動画が見れます

2011年6月25日土曜日

人生は登り坂(No19)


5年生からはクラブ活動が週一であります。
どのクラブに入るかを申告しなければいけません。私は田舎育ちで何にもわかりません。
隣の席の八田は珠算クラブに入るといいました。そいつは私が転校してきた時から優しくしてくれていましたので、自分も珠算クラブに入ろうと決めました。申告用紙に記入してからそのクラスメイトの用紙を見ますと、野球部と書いています。私はそれまでに一度も野球をやったことがないのですが、そいつと一緒のところに入りたいために慌てて野球部と書き直しました。
尼崎は今でも阪神フアンの多い土地です。私は田舎育ちで知りませんでしたが、その当時の男の子の遊びは野球が一番という土地柄でした。
土地柄とやや大げさに言いましたが、高石では野球なんかしている子供は一人もいませんでした。恐らく甲子園が近いことが大きく影響していたのだと思います。
尼崎では男の子の遊びは野球一辺倒と言っても過言ではありませんでしたので、野球部への入部希望者が多かったので入部テストがありました。
顧問の先生が5本ノックした球を捕球して、球を素早く返球する。もう一つは遠投です。
野球は全く初めてで、マイグローブを持っていませんでした。野球部にはキャッチャーミットとファーストミットは特殊ですから学校で備品として備えていましたので、そのグローブを借りてテストを受けました。
今でも忘れはしません。5本のノックの内3本はライナーでした。4~5歩動けば捕れるものでした。
1本はボテボテのゴロでした。1本はイージフライというやつでした。少しバックをすればなんなく捕れるものでした。
5本ともキャチできてスローイングもばっちりでした。
遠投は海に行って石ころをいかに遠くに投げるかを競ってよく遊んでいましたので、遠投も難なくこなせました。
初めて使用したグローブでしたが、手が大きくなるだけですから、これも旨く使いこなすことができました。
テストが終わってその場で入部合格が発表されました。私が合格してその友は不合格でした。
私は自分で望んで受けたテストでもないし、野球の面白さも知りませんのであまりうれしくはありませんでした。
それよりも野球部に入れば最低グローブとバットは必要です。そして運動靴もです。