2011年5月31日火曜日






北大路欣也さんが着装している衣服は直垂(したたれ)です。
武家が政権を取った当時は武家社会の服制が整備されていませんでしたので武家の権力者は写真にある狩衣を正装として着装していました。
そして武家の上級者は写真にある直垂を通常の正装として着装していました。
室町時代になりまして武家社会の服制が整備されました。
政権を取った当時は公家の服制である狩衣を最上の服として着装していましたが、室町期以降は逆転して3位以上の上級者は直垂を最上の服として着装するようになりました。
その礼服の直垂が家康役の北大路欣也さんが着装している直垂です。
武家が政権を取った当初の主の服装は直垂です。その直垂には写真で見るように布の普段用の直垂と、室町期以降には絹(清好=せいご)の礼服の直垂とが存在し、使い分けをして着装していました。
「江」の時代にとなりますと服装の簡略化が進み、通常は直垂はあまり見られなくなり、直垂に代わって肩衣袴が通常礼服として用いられるようになります。
礼服の直垂はテレビを見ていてもあまり目にすることはできません。珍しいので紹介させて頂きました。

2011年5月30日月曜日

(人生の思い出NO6の附則その一)


私の頭の中には親父が働きに行ったという記憶がありません。
昔は背丈6尺と言えば大男です。親父は6尺近くある背が高くて肩幅も広くガチッとした体格のいい男です。
母はそこに惚れたのかもしれませ。
よく「男らしい」と言います。私も若い時は少しやんちゃしたこともありますので、気風がいいとか度胸があって喧嘩が強いとか、酒が強いとかそんなことを男らしいと思った時期もあります。結婚をして子供が出来てからよく分かるようになりました。
健康でよく働いてよく稼いで、家族の者には優しい男、それが最も男らしい男です。酒なんか強くなくていい。喧嘩なんか強くなくていいのです。家族や自身の身に災難が降り注いで来た時は、身を張って対処する根性さえあればいいのです。
子供は幼くして既に親に恩返しをしていると言います。
親は生まれてきた可愛い子供の姿を見れば「よしまた頑張るぞ」という気力が湧いてきます。
それだけで十分に親に恩返しをしているということです。
私も自分は貧しい家庭に育って学歴もありません。サラリーマンは先の収入はある程度計算できます。、このままサラリーマンを続けていれば、子供を大学にも行かせてやれない。そこで脱サラをして商売を始めました。
私は離婚をしてからよくカラオケに行きましたが、素敵な歌を聞きますと「その歌新しい歌なの」とよく尋ねました。「いいやこの歌はもう20年も前の歌やで」と説明をしてくれます。
そうです私は商売を始めたからスナックやクラブというようなところには一度も行ったことがありません。30歳~55歳くらいまでの歌は全く知らないのです。今は競馬をしますがギャンブルもしたことがないくらいに仕事に打ち込んでいました。
男と生まれて自分の人生を何とか格好のつくようにしたい。可愛い子供たちには苦労させないように育てたいという一心でした。
親になればそう思うのが普通だと思うのですが親父は全く働かなかったのです。自分のことしか考えない薄情な人間なのでしょうね。
そんなことはない。「どんな親でも子供のことは心配しているよ」と人はよく言うのですが、五体満足で妻や子供たちに苦労を掛けているのに、それをどうにかしなければと懸命にもがこうとしない人は愛情がないと言われても仕方がないでしょうね。稼ぎの額は大きく生活に影響することはたしかですが、額よりもなんとかしなければともがく様が重要です。

2011年5月29日日曜日

(人生の思い出No6)


兄が悪いことをしでかしたらしく母が警察に事情聴取で連行されてしまいました。
警察から四日目に母は帰ってきました。
帰って来てすぐに私たちは家を引き払って夜逃げをするように尼崎に来ました。
尼崎には親父の妹が住んでいましたので伯母さんの家に居候しました。
それはわずかの間です。母は商売をしていて頑張っていましたので小金を持っていたのでしょう、すぐに伯母
の近くで家を買いました。
二階建ての家で阪神出屋敷の駅に近いところでした。
その時に私は5年生に上がる春休みで、4月からは5年生になれるはずなのが一年留年させられました。
今に思えば直ぐに市役所に住民登録をすると居所がばれるからではなかったかと思います。
尼崎に引っ越してから母は商売のお得意さんもなくなり働けません。
親父も事情が事情ですから直ぐには働けませんので屋台を作って大福餅を鉄板で焼いて売ろうという事に
なりました。
リヤカーにお好み焼きの台を載せて、練炭で鉄板を温めて餅を焼くという簡単なものでした。
親父の後ろからリヤカーを押して人通りの多いところに止めて売るのです。
リヤカーを止めて売るのですが「いらっしゃいませ。おいしい焼き大福はいかがですか」と呼び込みをしなければ売れません。
段取りが出来てさぁーこれからという時には親父はいません。
母は行商をしていて飛び込みで各家に入って営業をしていましたので、人と接する事は慣れていますが、親父は私の知るかぎり仕事をしたことがないのですから、恥ずかしくてそういうことができないのでしょう。「いらっしゃい美味しいですよ、いかがですか」と呼び込むことやら餅を焼くことまで全て私がすることになりました。しかしそういう商売も一年と続きませんでした。

2011年5月28日土曜日

「江」を見て思う


お市の方役の鈴木保奈美さんの着物姿は大人の女性のしっとりとした感じが出ていて素敵でした。それに劣らず宮沢りえさんの着物姿も素敵です。
宮沢りえさんの伊右エ門のお茶のコマーシャルの着物姿は、以前から何とも言えない品の良い色香が漂っていて素晴らしいと思っていたのですが、「江」のドラマの着物姿もやはり素敵です。
彼女は着物にはもってこいの体形をされているのです。
着物を着た時は襟足から肩先に流れる肩山のラインが大切で、宮沢りえさんの肩山の流れは大変優しい流れになっていて色香を増幅させています。
対丈の小袖は男性の着付と同じように、帯の位置は前は下腹部にあてがい、後ろに行くほど少し脇上がりに巻きつけて後ろでは腰の位置で結びます。
茶々も同じように下腹部に帯を当てがい腰で結んでいるのですが、腰骨の位置が高いのでしょうね、他の役者よりも高い位置に帯が巻きつけられているように見えます。
彼女達はスタイルが良くでウエストも細いでしょうから、あのような着装をするには恐らくバスタオル一枚では足らないくらいに補正をしています。
対丈の小袖はウエストに補正を入れていないとあのような素敵なシルエットはでません。
ウエストが窪んだままですと帯はウエストの細い部分に上がってしまって、無様な着装になってしまいます。対丈で帯も細いので着装は簡単なようにおもいますが、そこが天正小袖の着装の難しさです。
腰元達まできれいに補正をして皆さん素敵に着こなしています。見ていて気持ちがいいです。

2011年5月27日金曜日

日章旗掲揚と国歌斉唱


大阪府の橋下知事が日章旗掲揚と国歌斉唱を条例化する為に府会に諮っていることが報じられています。
この年になりますと、そういう話を耳にしますと尤もであると心地よく聞こえてきます。
国とは国土と国民全体を象徴している言葉ではないでしょうか。
私達は日本という国土の中で人という字が示す如く、多くの国民に支えられて生きています。
自分一人の力で生きている人は一人もいません。
人は多くの国民の力に支えられて生きているのですが、一人一人にお礼のご挨拶をする事は不可能ですから国土や国を象徴する日の丸に対して、記念日には礼をして感謝の意を捧げる。そういう行為は国を栄えさせ国民生活、特に国民の精神面を豊かに導くという意味では大切ではないでしょうか。
個々の判断で自由にさせればいいという意見もありますが、自分たちが日本という国土の中で、多くの国民の支えによって生かされているという真理を理解出来ていなくて、好き勝手に振る舞う人が増えてきている今日です。教育は国の重要な事業の一つである限りは、条例化も一つの重要な選択だと思います。

2011年5月26日木曜日

「江」のドラマの衣裳に思う



当時は小袖が中心の時代ですから男女共に普段は小袖姿で過ごすようになっています。
その女性の小袖は現在のようにおはし折を設けて着装するのではなく男性と同じ対丈で、衣紋も垂髪ですから男性と同じように抜きません。
時代考証的に言えば当時の小袖は身幅がうんと広いのです。
大人のきものは長着と言います。長着一枚分を一反といいます。一反の長さは3丈が基本です。
寛永年間の幕府通達には一反は曲尺の3丈2尺(9m70cm)の長さで、幅は1尺4寸(42cm)に定めると文献にあります。
現在の一反は鯨尺で基本的には3丈(約12m)あり幅は9寸5分(36cm)です。
 反物の幅が現在のような幅になるのは元禄期以降です。
それまでは反物の幅が広かったので元禄期以降と以前では、仕立てる時の裁ち方が図のように全く違います。
元禄期以前の小袖は裄は極端に短く、身幅が物凄く広く、襟先の位置は低いのが天正小袖の特徴です。
そういう極端に身幅の広い小袖を着装しますと、能装束の小袖姿に見られるように上前は後ろの方に回り、褄先は跳ね上がり、襟合わせは首に巻きつけたような打ち合わせの深い襟合わせになってしまいます。
 私が映画の仕事をしていた頃は天正小袖の特徴を表現するために、普通の身幅のきものですが上前は少し後ろに回して上前の褄先を上にはねて能衣装の小袖姿のような着付けをしました。
時代考証に忠実に着装すればそうしなければいけないのですが、それでは美しい着装に見えません。
ドラマであり商業演劇ですから、時代考証に忠実よりもヒロイン達を美しく見えるようにすることの方が大切だと思います。
小袖の着装方だけは時代考証的には少し違うのですが、そういう事よりも「江」を見ていると小袖の美しさと時代考証的によく考えて製作されていることに酔ってしまいます。前回にも記しましたがさすがはNHKです。

2011年5月24日火曜日

仏教から来た言葉「足を洗う」


           紅一点

 悪事ときっぱりと縁を切ること。
悪い仕事をやめて堅気の仕事につくこと。
 釈迦の時代には僧侶たちは裸足で生活していました。
托鉢や説教に出かける時も裸足のままで外を歩き、寺院に帰ると汚れた足をきれいに洗ってきよめてから寺の中に入りました。この足を洗う習慣を世間で言われる汚れた世間から心身ともにきれいになることにたとえて使うようになりました。

2011年5月23日月曜日

(人生の思い出No5の附則その一)


私には腹違いの兄弟が4人います。4人とも私の家には来たことがありません。
次女の姉は高石の隣の羽衣に住んでいましたので私はよく遊びに行きました。
姉の隣には長男が住んでいましたが、兄貴の嫁さんには馴染めなかったので、姉の所に遊びに行っても隣の兄貴の家に上がったことはありませんでした。
 尼崎に引っ越してからのことです。隣の兄貴のことで姉が尼崎まで親父を訪ねてきたことがあります。
また何かやらかしたのかもしれません。その時に偶然出屋敷の駅前で姉夫婦を見かけました。姉夫婦は家に来てご飯を食べることがないように腹ごしらえを先にしていたのです。
その時に家に来て食べればいいのにと淋しく感じたことがあります。
大きくなって分かったことですが、義兄弟というものは、母親が同じであればまた違っていたのかもしれませんが、腹違いという関係はあまり親しみを感じることはないようです。
それが証拠に私も大きくなってから全く行かなくなり、今は生きているのか否かも分かりませんし、気にかけたことはありまあせん。
 兄や姉たちは家に寄り付かなかったのは、母は実子の私達には優しかったけど腹違いの姉や兄たちには厳しかったのではないかと、大人になった今ではおもいます。
姉たちも可哀想な立場だったのです。
 私達子供の頃と比べると現在は離婚率が高まっています。
子供たちにとっては新しい親が出来ても感単には馴染めないでしょう。
私も離婚をしていますが、子供の気持ちを考えると離婚は罪が深いですね。

2011年5月22日日曜日

「江」を見ていての衣裳に付いて




公家の女房達は普段は袴を穿いて上に衣を羽織った袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。
公家の勢力が衰退し益々武家の力が台頭してきますと、公家社会の服制は簡略化されていきます。
室町時代になりますと袴を穿かないで小袖の上に衣だけを羽織る「はつき」という形が公服として認められるようになります。
権力者の武家の女房達はその「はつき」を最上の服として当初は用いていたのですが、桃山時代になりますと衣の代わりに小袖の上にもう一枚小袖を羽織って着る「打掛姿」または「かいどり」という姿を自分達の礼服として用いるようになります。
 写真は「ねね」が織物の打掛を着ている姿と、「ねね」「はつ」「ごう」の着ている染に刺繍をあしらった打掛を掲載しています。

 日本の染織の歴史を見ますと織物よりも、友禅が考案されて繊細な絵柄を写し出すようになる以前は織物の方が進んでいました。それは染方が草木染が主であるというところに原因であったろうと思います。
従って織物の打掛もあったことはあったのですが、小袖は本来は肌着、下着であったものから発達してきた衣服ですから、肌になじんで柔らかい材質のものご好まれました。
 天正時代に堺では明から伝わった綸子、縮緬が織られるようになり、羽二重、綸子、縮緬が小袖の材質の主となります。打掛は小袖と同じく、柔らかくて肌になじみやすい綸子や縮緬に彩色をして用いることが主でした。
 民放の大奥ものを見ていますと全員が金ぴかの織物の打掛を着ています。
あれは綸子地に染と刺繍を施した打掛を製作しますと別染めですから大変高額なものになりますので、安価に出来る化繊の織物を用いて形だけを同じにしているのです。

2011年5月21日土曜日

(人生の思い出No5)


子供の頃の遊びといいますとビー玉やベッタンはお金が要りますので、かくれんぼ、おにごっこ、チャンバラごっこなどの体を使って遊ぶ遊びが主でした。
缶蹴りなどもやりましたが缶を手に入れるのが困難なためにあまりしませんでした。
毎日夕食の声がかかるまで外で動き回って遊んでいました。
そんな日常でしたが私が5年生に上がる年に尼崎に引っ越しました。
私はその場は見ていないのですが、兄が友人の盗品を持ってきて親父に預けたようです。
その兄が警察に捕まったと聞いて親父は私たちを残して逃げてしまいました。
警察が家に来て家探しをしました。そうすると天井から盗品が出てきました。
母は一切関わってはいませんが、親父が預かったのですから当然母も同罪として事情聴取で警察に連れていかれました。
その時に私の下の妹はまだ乳児でしたから母が一緒に連れて行きました。
大きくなってから妹に「お前は3日間留置所に入ったんだよ、そのことは知らんやろ」とからかったことがあります。
私は四年生ですぐ下の妹が一年生で、それまでに竈の火を起こすことは何回も手伝ったことがありますが、ご飯を炊いたことがありません。私には腹違いの姉が二人います。
下の姉の方がその間家に来て食事の支度をしてくれました。その姉はそれまでに一度も家に来たことがありません。高石の隣の羽衣という所に住んでいますので、一駅ですから私はよく歩いて遊びに行ったことがありますが、姉が家に来てくれたのは初めてです。
初めて家に来てくれたことが物凄く大きな喜びで、そのことを大きくなるまで忘れたことはありません。

2011年5月20日金曜日

西国三十三か所4番札所 施福寺

ここをクリックしてください

今回は4番札所の施福寺に行ってきました。

神の糸 辿って上る 施福時の
      厳しい坂に 有り難さます

ここは厳しい坂が長く続くところです。三十三か所は年配者の一つの楽しみになっていますが、足を鍛えて元気でいなければお寺詣りもできません。
足腰は元なりですね。

2011年5月19日木曜日

仏教から来た言葉「親子は一世夫婦は二世」


 過去、現在、未来を仏教では三世と言います。
親と子の関係は現世だけで終わる一世のもの、夫婦関係は現世と来世の二度に渡るつながりの強いものであるという意味です。
「二世を契る」「二世を誓う」は夫婦になること、それを誓う言葉として用います。
 この言葉からは親子関係は冷たい感じがしますが、親子は互いに選ぶことの出来ない関係であり、一般的には苦労や努力を重ねて作り上げた関係ではありません。
夫婦は本来他人同士が自分たちの意思で作り上げていくものですから様々な葛藤があります。葛藤があるだけにその分絆も深いという事です。
 夫婦は最後の最後まで傍にいて面倒を見合います。親子の関係にはそれがないのが一般的です。
それを見れば如何に夫婦関係は絆が深いか分かります。
でも最近はその夫婦関係の大切さを忘れている人が多いように思われます。

2011年5月18日水曜日

奈良県葛城山のツツジ

ここをクリックしてください

毎年この時期になりますと葛城山のツツジを見に行っています。
今年は寒かったので開花は少し遅れていましたが、ご覧のようにすべて色付いていました。素晴らしかったです
妻もYouTubeでアップしていますのでお楽しみください。

http://www.youtube.com/user/duranta100

2011年5月17日火曜日

「江」に見る小袖



安土桃山時代になりますと武家社会の女子の服装は小袖が主となります。
小袖は上級者の間では襦袢などがありませんので、汗取り防寒用の肌着とし当初は用いられていました。
 インナーであったものが時代の推移と共に衣服の簡略化が進み次第に表に現れてきて、ついに表着(うわぎ)として用いられるようになります。肌着として使われていた時代には白であったものが、露出度が高くなってくると次第に彩色が施されるようになります。
 模様付けは﨟纈染(ろうけつ=蝋けつ染)、夾纈染(けうけつそめ=板締め染)、纐纈染(こうけつそめ=絞り染)という染め方が奈良時代からあり、室町時代には簡単な型染も行われるようになっています。
 模様に様々な彩色を施して仕上げるというのは友禅染が考案されてからのことで、それは江戸の元禄頃です。それまでの細やかな模様の彩色は刺繍で施されていました。

 夾纈染は板に彫刻をして板で裂(きれ=絹の布をいいます)を挟んで染めます。そうしますと彫刻された模様の部分が防染されて白く残ります。
纐纈染は糸や紐等で布を縛ってその部分を防染して染めます。その部分が白く残ります。
その白く模様どりされた部分に刺繍で彩色して模様を仕上げます。
そういう手の込んだ染は礼装、盛装用として用います。
普段下級者は簡単な型染の模様小袖を着ています。

 写真の小袖は肩裾模様と熨斗模様の小袖です。
肩裾は胴の部分は板染で白く残し刺繍で模様を彩色しています。
熨斗目は肩裾とは逆に胴の部分にだけ模様を配したものです。
「江」を見ていますとさすがにNHKだという気がいたします。
全て別染めですし時代考証に則って小袖が作られているのには感心します。
 最近民放の時代劇を見ていますと形だけは時代考証にのっとっていますが、小袖の染色は化繊の安価な市販品をそのまま使っているのがほとんどです。予算がないからでしょうね。

2011年5月16日月曜日

仏教から来た言葉「衣鉢を継ぐ」


    山法師

 衣鉢(いはつ)は僧の衣と托鉢などの時に持つ食器のことです。
 弟子が師匠から、その道の奥義や教えを受け継ぎ、後継者として認められることを言います。
また事業や業績を継ぐ時にも使われます。
 衣鉢とは、仏教では「三衣一鉢」(さんねいつばつ)のことで、日常作業用、礼拝、聴講用、托鉢などの外出用の三種の衣と、托鉢に使う一つの鉢を意味しています。
釈迦の時代の修行僧にとって、所有を許されるものはこの三衣一鉢だけです。
これが全財産であり、世俗を離れた僧の象徴でもありました。
そこで衣鉢を弟子に譲ることが、その人を自分の教えを伝える者として認めるという意味になりました。
それが仏教以外でも使われるようになったものです。

2011年5月14日土曜日

素敵な喫茶店の巡り合い


 美味しいコーヒーを頂きながら一息入れる。
そこが気に入った店ならなおさらに癒される。
しかしそんなに条件の揃った喫茶店は少ない。そんな中でフト心休まる喫茶店に巡り合った。
コーヒーは生豆を自分の店で焙煎して手で豆を挽く、そしてペーパーで入れてくれる。
コーヒーはペーパーで入れるのが一番です。
伊丹の昆陽池の西側の道を宝塚の方向に走った伊丹市鴻池5-2-3にある。
店は「カフェ アンド ビーンズ ショップ」です

2011年5月12日木曜日

阿弥陀かぶり


 阿弥陀如来の像の背景には仏の体から発するという後光を表す光背(こうはい)が付けられています。
編笠をかぶったとき、後頭部に極端に傾けると笠の内側の中心から放射線状に走る骨組みが正面に見えます。
それを阿弥陀如来の背に見える後光にみたててこのような呼び名がつきました。
編笠から帽子の時代になって、後光は想像されにくくなりましたが、後頭部に傾けたかぶり方をしていると今でも阿弥陀被りをしていると言われます。

2011年5月11日水曜日

(人生の思い出No4の附則その二)


 私達家族は事情があって私が小学校5年に上がる年に阪神の尼崎に引っ越して来ました。
それから結婚をするまで尼崎で育ちましたので、幼い時によく遊んで育った高石には懐かしさはありますが、後ろ髪を惹かれるほどの未練はありません。
 親父も同じだと思っていたのですが親父は自分が青春時代を過ごして妻をめとって生活を始めたのが南海沿線ですから、南海沿線は望郷の念が強いらしく、尼崎で亡くなったのですが、墓は高石に設けていました。墓は高石の26号線沿いにあり、その墓からまっすぐに東に大きな道があります。羽衣に進駐軍がいた関係でその道には戦車もよく通りました。
ジープやトラックや戦車が通りますと私達子供にも日本は負けたという気持ちがありましたので、怖いものを見るように物陰に隠れて通り過ぎるのを待っていました。
 よく遊んだその道は戦車が通るくらいに広い道だったと記憶していたのですが、大人になって墓参りに行ったついでに,よく遊んだその辺りを見に行ったのですが、大きなトラックだとすれ違いが出来ないのではと思うくらい狭い道でした。子供の頃には大きく見えた道や家が大人になって見ればそんなに大きいものではなかったという経験は皆さんされていると思います。

2011年5月10日火曜日

舞鶴海上自衛隊基地

舞鶴海上自衛隊基地に行きました。事故を起こしたイージス艦「あたご」も艇留していました。
現状で防衛力が十分であるのか否かは全く分かりませんが、この年になりますと
こういう光景を目の当たりにしますと頼もしく感じてしまいます。

2011年5月7日土曜日


丹後宮津成相寺の左甚五郎の真向の龍
生きています気持ち悪いです。凄いの一言です。

2011年5月5日木曜日


冠位十二階の制で冠の色によって位階が表現されるようになり、紫は徳冠の位階の色として制定されます。
紫微(しび)というのは北斗の北に位置する星の名で、中国の天文学ではここを天帝の居所とされています。
そんなことから天皇の宮殿の意味として用いられ、それに因んで天皇の住まいを紫宮(しきゅう)といいます。
紫はそのように大変高貴な色ですから、紫は五行を統べるということで一番格調の高い徳冠の色として用いられていました。
 奈良時代になって色にも順位が付けられ位階相当の色というものが定められます。
位階の低いものは自分の位階以上の色は用いれれなくなるのです。
天皇と皇太子の色は白色と黄丹(おうに)で臣下の最高位は紫です。
そんなことで紫は高貴な人が用いる色として、例えば高僧の衣の色も紫が用いられています。
紫は主に紫草の根(紫根)で染められていました。

2011年5月4日水曜日

(人生の思い出No4の附則その一)


私達家族は事情があって私が小学校5年に上がる年に阪神の尼崎に引っ越して来ました。
それから結婚をするまで尼崎で育ちましたので、幼い時によく遊んで育った高石には懐かしさはありますが、後ろ髪を惹かれるほどの未練はありません。
 親父も同じだと思っていたのですが親父は自分が青春時代を過ごして妻をめとって生活を始めたのが南海沿線ですから、南海沿線は望郷の念が強いらしく、尼崎で亡くなったのですが、墓は高石に設けていました。墓は高石の26号線沿いにあり、その墓からまっすぐに東に大きな道があります。羽衣に進駐軍がいた関係でその道には戦車もよく通りました。
ジープやトラックや戦車が通りますと私達子供にも日本は負けたという気持ちがありましたので、怖いものを見るように物陰に隠れて通り過ぎるのを待っていました。
 よく遊んだその道は戦車が通るくらいに広い道だったと記憶していたのですが、大人になって墓参りに行ったついでに,よく遊んだその辺りを見に行ったのですが、大きなトラックだとすれ違いが出来ないのではと思うくらい狭い道でした。子供の頃には大きく見えた道や家が大人になって見ればそんなに大きいものではなかったという経験は皆さんされていると思います。

2011年5月3日火曜日

何故十二単と呼称されるのか


何故十二単という俗称が付けられたのか
十二単の単は衣(きぬ)の意味で、衣は上に着装している大袖のきもののことですから、衣を重ねて着たことから付けられたものであることは間違いのないことだと思います。
それでは十二領(りょう=枚)重ねているのでしょうか。
着ている服を下から順に数えます。
・白の小袖 
 ・長袴 
 ・単衣(ひとえ) =単仕立ての身丈も裄も最も長い衣
 ・重袿五領(かさねうちき)五枚重ねる (室町期から5枚と定められる)
・打衣(うちぎぬ) =砧で布を打ちつけて光沢を出してある無地の衣
 ・表着(うわぎ) =一番上に着る衣で五色の糸で彩色した織物で出来ている
 ・唐衣(からぎぬ) 
 ・裳(も)=腰で後ろに付けている
以上十二点着装していますので、ここから来ているのだと思います。
重袿は三枚を一組として五組七組、即ち15枚、21枚と重ねて着ていたのですが、
室町時代の末期に五衣(いつつぎ)と言って5枚に定められました。
5枚に定着してから12点になったのですから、十二単という俗称は室町時代以降に付けられた俗称ではないでしょうか。

2011年5月2日月曜日

(人生の思い出No4)


   ネコヤナギ

 私の記憶が明確に繋がるのは大阪府泉南郡高石町という町の長屋に住まいを始めた頃からです。
 今は高石も海は埋め立てられて工場地帯になり、大阪のベットタウンとして栄えていますが、私が子供の頃は国道26号線(今は府道402号線)を越えて西に1kmも行かないところが海で、その海は透き通ってきれいで、海水浴場ではありませんが近くの人はよく泳ぎに来ていました。
 直ぐ北側には有名な羽衣の松林があるところです。
明治時代に整備され日本で初めての公園として指定されたところです。景色の素晴らしいところですから戦後はそこに進駐軍がキャンプ場を設け、海続きになっている海岸もそこの海には立ち入り禁止になっていました。
 私には上に腹違いの兄姉が4人いて次女がそのキャンプ場にお手伝いとして働きに行っていましたので、時々チョコレートを貰ってきて私も頂いたことがあります。チョコレートなんてものは見たこともないし勿論食べたこともないのでその旨さに驚いたのを覚えています。
 浪打際の直ぐ近くにトタン屋根でつくった掘立小屋があって、漁をしてきたイワシを茹でてイリジャコにする所です。船からセイロに入れたイワシが陸揚げされている光景にときどき出食わせました。
そんな時に陸揚げを手伝いますと、「おいイワシ持って帰れ」と言って肌着のシャツの首の部分を結んでそこに山盛り入れて持たせてくれました。
 近くに南海本線が南北に走っており南海電車の東側は見渡す限りの田んぼでした。
阿部保名(あべやすな)と「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」と障子に書いて去った白狐の葛の葉の伝説で有名な葛葉稲荷のある信太山です。その信太山が何の遮る建物もなく直ぐ近くに見えているという田園風景が広がったきれいな所でした。

2011年5月1日日曜日

新緑の欅


新緑の5月というが欅は4月の半ばには萌黄色の葉が芽生えてくる。
ゴールデンウイークの前には新緑が風になびくようになる。
太陽の明かりを透かすように瑞々しく輝いている。
擧は上げるという意味で樹枝はみんな上に稜線を描いている。
樹枝は黒く新緑を間じ切るように様々な緑の幾何学を描いている。
葉様は涼やかで風を招いて戯れている。
幹は太く固く黒くて逞しい。欅は逞しい男の化身か。