2009年8月31日月曜日

ブログを世直しに

 選挙の結果が出ました。戦前の予想通りに民主党の大勝です。
 民主党が素晴らしいから、民主党の所属議員が素晴らしい人達だから勝利したわけではありません。
 ただただ閉塞した社会を改善してほしい、変えて欲しいという国民の期待だけで政権を国民から委譲されただけですから、民主党はs国民の期待を裏切らないで死に物狂いで政局に臨んで頂きたいです。
 そして望ましくは60歳まで真面目に勤めあげて年金を納めて来た者には、年老いてから医療費の心配をしなくてもいいように。そして最低限度の生活はして行けれる国造りをして欲しいと念じています。富める人は放って置いても大丈夫ですが、貧しい人は放っておけば死んでしまいます。富める人達は貧しい人達の力の上に存在出来ているのですから、政治は底辺の人に標準を合わせたものにするのが筋の通ったものではないでしょうか。
 二言目には財源がといいますが、年老いてから心配のない国にするのだという確かなビジョンを持って政治を行う。そういう決意で国造りをして行き、政治家は率先して議員の数を大幅に減らしていき、行革を徹底して行く姿 勢を見せれば、国民は税金が上がってもお金は出します。将来に対して何の不安も心配もない社会を構築すれば、お金なんて貯める必要がないのです。
 国民を納得させる政治を行えば国民は負担を拒みませんから財源なんかどうにでもなるのです。現状維持で高福祉を行おうと考えれば不可能なのは当たり前です。
 年老いても心配のない国造りをする。そういう確かなビジョンをもって徹底して行革を行えば国民はついていきます。様々な人がいて中にはお金を貯めるのが趣味という人もいますが、そういう人は奇人で稀です。多くの人は先で生活の心配がなければ、国民は1400兆もの金融資産を有しているのですから使います。
 内需なんていいますが、心配のない社会を構築しない限り内需が拡大することがありません。
何でそんなことが分からないのか、ブログをやっている人は皆で一斉に吠えれば、サイトの影響力は今や無視することが出来ない位に大きな勢力になって来ていますので、「世の中が変わるかも知れないのにね」と行きつけの 喫茶店のママに言いました。
するとそのママはサイトで遊んでいるようなゆとりのある人に、そんな深刻な話をしても無理無理と怒っていました。確かにブログで政治向きのことや固苦しい事を記しますと途端にアクセス数が減ります。私も最近はそうかなぁーと少し思えるようになりました。このように書くとまたきっとアクセス数は減るでしょうね。
 でもね。私達一般人には新聞の投稿欄ぐらいで、私見を述べる場は今まではありませんでした。ところが有り難いことに無料で思い思いのことを述べれるようになり、それが今や全国に発信されます。こんな有り難い手段を楽しみや遊びの具としてのみ使うのは勿体ないです。
 個人攻撃や中傷誹謗に使うのは絶対にいけませんが、世の中を良くする手段としてもっと活用すべきではないかと私は思っています。いまやサイトの力は無視できないのですから、次代の子供達のためにもっと世直しに利用すべきではないでしょうか。

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2009年8月28日金曜日

絵模様に付いて


平安時代の重ね色目に見られるように絵模様の持つ意味合いは当初は季節感でした。
 季節感といっても季節をめでるというだけでなく、偉大な自然の力にあやかるという信仰心の方が勝っていました。
 吉祥、有職模様は自然の息吹を絵模様の題材にしたもので、あやかるという美意識は東洋人特有のものです。
 江戸時代までの絵模様は吉祥と季節感によるのものでしたが、江戸時代の中期以降になりますと次のような絵模様が加わってきます。
(1)伝説、伝承、故事、諺などによる絵模様
(2)年中行事に関連した絵模様
(3)物語、詩歌などに取材したもの
(4)歌枕、名所の風景を現したもの   近江八景、須磨明石、日本三景(天の橋立、松島、厳島)   淀、住吉、宇治、吉原などです。
(5)俗信   蛤の年を経たものが海中で気を吐くと蜃気楼があらわれる   といったようなこと。
(6)判じ物的なもの   上図の下中の芝翫縞(しかんじま)は四つの縞と鐶(かん)つなぎを合わせたもので「しかん」と洒落ています。   歌舞伎役者の三代目中村歌右衛門が作った縞です
 吉祥模様や有職模様のいわれを探っていますと、古代から人はどう生きるべきかの思考が垣間見られて楽しいですよ。

2009年8月27日木曜日

2009年8月26日水曜日

振袖の変遷


明治維新を迎え礼盛装は洋服一辺倒になりましたので、きものは江戸時代の後期のものが現在のきものの原点となり、模様や帯結びだけが多少変化してきているとうい状況です。
 江戸時代の一般庶民の礼盛装は江戸褄に代表されるように裾模様が主です。その傾向は昭和の初期まで続き昭和に入って上図右下の振袖のように総模様が着用されるようになってきます。
 また模様においては明治時代に科学染料が普及し、型友禅なども普及したことによって大正時代の後半になりますと、上図左下の振袖のように花卉を大きく大胆に洋画風に描写する絵柄も出てきます。
  着物は時代の流行に合わせて袖たけを長くするとか、帯結びに変化を設ける以外にバリエーションのもたせ方がありませんので、昭和の50年代くらいから様々な変わり結びが結ばれるようになりました。
 それは美容界の指導者や、きもの学院が普及してきて、人と違ったものを作り出して講習材料としなければネタがないというところから発生したものです。
 皇室の皆様は振袖をお召しになる時は古式に従ってふくら雀しか結ばれません。一般の人でもご結納の時に振袖をお召しになられる場合は、古式通にふくら雀に結んで下さいと言われる人もおられます。

2009年8月25日火曜日

変わり結びについて

 きものの場合大きく変化を見せれるところといえば帯結びしかありません。
 きもの学院や美容界の着付の指導に当たっている人は、変わったことが出来ることをアピールするには、花嫁の打掛けが着せれるとか、振袖の帯結びを数多く知っているということぐらいしかありませんので、競って次々と新しい帯結びを創作します。
 別にそれがいけないことではないのですが、上図を見て下さい。私なども毎年幾通りかの帯結びを創作しておりましたが、ピアノを引いているふくら雀の女性は素晴らしではないですか。
 こんなに色々な帯結びができます。こういう様々な帯結びを出来るようにするには勉強が必要でコストがかかりますので、変わり結びはこれだけの料金を頂戴していますと、着付る方のつごうによって出来上がっているのであって、何を結んでも着る本人にはあまり関係はありません。
 きものを着ていて素敵に着こなしているなぁー。素敵な人だなぁーと感じるのは、前姿だけを見て感じることであって後ろ姿で決まるわけではありません。
 襟合せとか、帯の巻きつけとか、おはし折りの整え方、帯の位置とか、全体のシルエットの出し方とそのための補正、そして最も大切なのは来ている人の姿勢、歩き方、立ち姿や内面から出ている覇気や輝きによって決まってしまいます。そう考えれば帯結びなどは全く関係ありませんので、帯結びなどにあまりこだわらないで着付けをして頂くといいと思います。

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2009年8月24日月曜日

袖の変遷


着物のことを昔は小袖と言っていました。これは衣の大袖に対して上図の左上のように小さい搾袖(つつそで)だったのでそのような名称がつけられました。
 その小袖は次第に表に現れる部分が多くなり、白色だったものに色や絵模様がほどこされて、安土・桃山時代には小袖中心の時代にとなります。
 公服は公家社会、武家社会に確立されているのですが、安土・桃山時代になると貴賤を問わず小袖を着て過ごすようになります。
 表衣化しますと身幅、身丈も変化をするのですが、特に大きく変化をするのは袖です。安土。桃山時代には筒袖から少し袂が膨らんで薙刀袖(なぎなた)になります。元禄時代になりますと更に袂が大きくなって元禄袖と言われるようになります。そして宝歴(1704~1711年)年間になりますと現在の角袖と言われる形になります。
 角袖は四文銭で丸みを付けましたので銭丸袖とも言います。袖は振りの無いのが本来のお袖の形ですが、袖丈が長くなり、帯幅が広くなったことで上図右下のように明和(1764~1772年)年間になると振りが付けられることが一般化します。
 但し、武家の女房は庶民の真似をしないで留袖で通しました。昔は結婚をすれば留袖仕立てにするのが習わしでしたから、留袖はミセスを表す言葉として使われています。
 

2009年8月22日土曜日

人権はあるのか



ユニバーサルジャパン パレード

 知人のお母さんが認知症で入院をしているので、付き合って見舞いにいきました。

 リハビリの一環として皆さんで童謡や簡単な民謡を歌っているところでした。しばらく見ていましたが歌声は看護師さんの声だけで、患者の皆さんはわれ関せずで思い思いの方向を見つめて座っているだけです。

歌とは何か、何を今自分達がしているのか、させられているのか全く分かっていないというありさまでした。

 知人のお母さんは知人が顔をすりつけてお母さん来たよと言っても全く表情一つ変えない、目すら動かさないのです。こんな悲しいことがありますか。でもそれが現実です・ 不謹慎な言い方であるとはおもうのですが、動物園の動物以下の認知喪失状態です。

 人権とは自由で何の制限も受けない権利というそうですが、認識がないのですから自由もないし制限や制約を受けっぱなしです。

 皆さんも一度、これも大変失礼な言い方ですが見学に行かれたらよいとおもいます。

 誰もがこんな姿で生きていたくないと必ず思います。中にはどんな形でも生きていてくれた方がいいという人がいますが、そういう人は在宅介護をすればいいのです。 病院に送り出されている人は、大抵経済的な面やその他の家庭事情を抱えています。・ それでも基本的には在宅介護の方向に国は持って行こうとしています。働かなければ食べていけない人がいるのに最後まで見てもらえないのです。 現在選挙中ですが、何処が政権を握ろうとも、今後の大きな政治の課題であることは確かです。また真先に取り組まなければいけないでしょう。

 私なら認知症と診断されたならば、認知する意識が無くなれば薬殺してほしいです。 何にも自分で出来ない分らないのに生きている価値が何処にありますか。そんな状態で生きていれば人に迷惑掛けるだけです。 人権とか人命という言葉は人間らしく生きている人に当てはまる言葉であると思います。タブー視しないで生きているという事はどういうことか、もっともっと意見交換をして、自分の命は自分で決めれるように法律を改正してほしいです。

末期癌でもそうです。治る望みも全くなく、ただただ本人と家族の人がもがき苦しむ状態で何故逝かせてあげないのか。人権とは何か。人権のためという一括りの法律で、そんなに苦しめていいものなのか。自分の命は自分で、自分で判断の出来ないものは家族の意志で命を断てる人権を認めて頂きたいです。そちらの人権の方を重んじて頂きたいです。

2009年8月20日木曜日

どうなる日本変われ日本

      ユニバーサルスタジオパレード
 いよいよ選挙戦突入です。
日頃威張っている先生方もこの時は平身低頭で気持ち悪いです。そんなに変わるなと言いたいです。政治家は日頃から慈悲に満ちた態度で接して欲しいですね。
 今回の選挙は我々国民からすれば我々が確かな意識をもって臨めば、変化をもたらせることのできる選挙です。
 これまでのように「どうせ変らへんやろう」という選挙ではありません。本当はいつの選挙もそうですが、今回は国民の意識がこのままではいけない。何時までも自民党に任せておけないという意識が高まった、変化をもたらせることのできるまたとない機会の選挙です。
  政治家は特に自己実現意欲の強い人種ですから、政治家になれば皆さん大臣になりたいと思っています。大臣になるためには政権を握らなければ実現しません。政権を握るには国民に支持さえるように改革を唱えて戦いを挑んできます。
 こちらが駄目ならこちらへと、我々国民の意識で変化をもたらせて行けば、水は淀むことなく流れて絶対に奇麗な流れになって行きます。 与党の人間も野党の人間も能力的には差異はないでしょう。人脈というけれども、人脈は力を握れば自ずと備わってきます。力がないのにあがいてもどうにもならないのが現実です。
 そう考えれば自民党でなければいけな理由は何一つありません。  鳩山さんは政治家指導の政治をしなければいけないと、盛んに言っていますが、政治家は官僚に負けない勉強をしていますか。 今まで官僚に左右されて来たのは官僚の方がよく勉強をして分かっているからです。政治家の皆様は高額な報酬をもらっているのですから、勉強をすることが仕事なのですから、官僚に振り回されないように確りと勉強をして頂きたいです。

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2009年8月19日水曜日

下着に付いて

       鳥居清長の浮世絵 清長文化12年(1815年)に歿・
   左上 社頭の見合い ・左下 上野の花 ・右下 浜町河岸の夕涼

 上図の清長の絵を見れば女性たちは幾枚も重ね着をしていることが、襟元や裾を見ればよくわかります。
 小袖中心の時代になるのは安土・桃山時代からです。当時の小袖の正式な着装は平安時代の衣(きぬ)の重ね着を取り入れて、当時はまだ襦袢がありませんので一番下には肌着用として白の小袖を着て、その上に重袿(かさねうちき)に真似て色物の小袖を着て、表着(うわぎ)には柄物の小袖を着るというように三枚重ねが通常の着装法でした。
  清長の絵は市井の女達を描いていますが、身分に関係なく裕福な人達は普段着や晴れ着に関係なく下着を重ねて来ています。
 和装の場合は襦袢と表着の間に重ねて着る小袖を下着と言って肌着とは区別しています。
 襦袢が元禄時代くらいから着用されるようになります。襦袢が着用されるようになりますと、肌着としての小袖が襦袢に取って代わるのかといえば、そうではなく一番下の小袖の下に襦袢を重ねるようになりますので、上図のように襟元は4枚重なって描かれています。 普段や礼盛装を問わず重ね着をするのが通常のきものの着方だったのですが、戦後洋服中心の時代になりますと和装は簡略化されて留袖以外は重ね着をしなくなりました。
 中振袖や訪問着を着る時に襟だけを重ねる、重ね襟と言うものをつけます。あれは下着の名残で、下着の襟だけを昔のように重ねるということです。
 昔は普段着・晴れ着関係なく付けましたので、重ね襟はどんな着物に重ねても間違いという事はありません。 但し下着は季節によって重ねたり重ねなかったりと調整をしましたので、春袷、秋袷の時期は重ね襟はしない方がいいですね。

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2009年8月18日火曜日

奇妙な風俗

綿帽子や揚帽子(角かくし)なる奇妙な風俗がどうして発生したのか、皆様方は疑問に思ったことはありませんか。
 その起源は公家の女房が着用した被衣(かつぎ)に由来しています。
子供の頃、映画でアラブの女性が薄い布で顔を覆い、妖艶に腰をくねらす場面に子供ながら興奮したのを覚えていますが、顔を覆うという風俗は世界的に見られます。
 日本でも公家の高貴な人は話をするのに御簾(みす)越しに話をしました。外出の際には被衣をかぶって外出をしました。 そういう公家の文化が武家にも伝わり、更に富裕な庶民にもならわしとして根付いていくのは常で、武家も外出に際しては被衣をかぶっていました。
 江戸の初期に被衣をかぶって女装をした者が、将軍の参詣時に襲うという事件が起きてから武家では被衣は禁止になりました。
 そういうことで江戸ではあまり見られなかった風俗ですが、京阪・伊勢などでは晴れ着には必ず上図のように綿帽子をつけました。
 そういう習慣が黒の振袖の花嫁衣裳に引き継がれるのは自然な流れですが、打ち掛けは武家の礼装で、武家は綿帽子を付ける習慣がなかったのに、武家政権が崩壊したことによって、一般庶民の風習が同じ晴れ着であるという事で付けられるようになったものと思われます。
 ところで綿帽子なる奇妙な形はどうして発生したかということですが、上図に被衣を被っている写真があります。その横に綿帽子を被っています。公家の女房は被衣を着用する時は被衣が滑り落ちますのでそれを防止するために滑り止めに綿帽子を付けて着用しました。それが後に被衣が省略されて綿帽子だけが残ったのです。揚帽子はその綿帽子をさらに簡略化した形です。
 被衣を着用する時には顔に密着しないように笄(こうがい)を上に向けて差しました。それが角のように見えるところから角かくしと言われるようになったと言われています。

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2009年8月17日月曜日

檜扇(緋扇=緋扇)について

扇には檜の薄板で作った檜扇(ひおうぎ=緋扇)と、蝙蝠(かわほり)と言って竹・木・鉄などを骨にした扇があります。
 扇を手に持つのは奈良時代から正装時の構成の一つに数えられていて、奈良時代・平安時代前期には上記の絵にあるように團扇(だんせん)と言ってうちわ状のものを持っていました。
 平安時代中期以降は唐衣裳(十二単)が実質的には正装になります。正装の時は容儀を整えるために檜扇をもつのが定めになりました。
 扇には正装の時に持つ檜扇と衵扇(あこめおうぎ)とがあります。衣冠や直衣の時は橋数の少ない衵扇をもちます。 また普段の時は絵にある五本骨の扇を持ちます。後に中浮(ぼんぼり)または中啓(ちゅうけい)というものに変わります。
 檜扇は男子は衵扇共に無地ですが、女子の扇は檜扇・衵扇共に極彩色に描かれています。
 女子の檜扇は男児の橋数よりも多く三十九橋で、霞・雲形・桐・鳳凰・梅・竹・松・尾長鳥などが色鮮やかに描かれていますので、女性の檜扇は緋扇と呼ばれるようになったものと思われます。
 正装の時には容儀を整えるために扇を持つのは習わしです。現在も留袖の時には左胸の位置で帯に扇を差し込んでおきますが、あれはそのままに差しておくだけでなく、御挨拶の時には扇を必ず持って御挨拶をするためにありますので、そのことを忘れないで下さい。

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2009年8月16日日曜日

帯幅の変遷

 名護屋帯というロープ状の帯が江戸の初期に流行するですが、直ぐに廃ってしまって、帯は一枚の布を二つ折にして中に芯の入れた丸帯が主流となります。
 江戸の初期には上図の写真に見られるように、1.5寸~2寸程度の紐のように細いものを、おもいおもいにすきな位置でし締めていました。
 平和で安定した時代が続けば衣服は優美になって行くのは歴史の常道で、元禄時代になりますと今の半幅帯位の帯幅になっていきます。  帯幅が広くなったことで、それまではまちまちの位置で結んでいたものが、後ろで結ぶことが普通になります。
 その後帯幅は次第に広くなっていきます。文化年間には帯幅は1尺近くの広さになります。 当時の流行の源泉は歌舞伎で女歌舞伎が禁止になり、男歌舞伎一辺倒になりましたので、女形をする時に女らしく見せるために帯幅を広く結んだことが一般にも伝播していったようです。
 当時は写楽や清長の浮世絵に見られるように帯は二つに折らないで広いままで結んでいました。 女性のお袖は結婚をすれは留袖仕立てにするのが習わしでしたが、帯幅が広くなったことで、ミセスのお袖にも振りが設けられるのが一般的になります。
 浮世絵を見ますと帯揚げ帯締めを使わず結んでいます。帯締めや枕や帯揚げを使用するのはお太鼓結びが普及してからのことです。
 
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2009年8月15日土曜日

何からでも学ぼう


  先日テレビをつけるとたけしさんが黒澤明監督に付いて語っておられました。
 黒澤作品は一口で言うと一生懸命に生きようとしている人を描いていると、監督の娘さんが言っておられました。
 誰もが充実した人生を送りたいと希望しています。だから自分では一生懸命に生きていると皆さん思っておられます。
 自分の人生だから自分や家族のために一生懸命になるのは特別ではなく当たり前です。 一生懸命はイコール一所懸命で鎌倉時代に与えられた自分の領地を、命を賭けて守るというところから出来たと言われています。
 領地には多くの人が生活を共にしていますので、一所懸命という言葉には社会性が含まれています。自分のため家族のためだけでなく、世のため人のために一生懸命になるということです。
 昔と比べて経済的には豊かになりました。衣食足りて礼節を知るの諺の如く、豊かになった分比例して心も豊かにならなければいけないのですが、反対に殺伐としてきています。
 そういう世相を捉えて、これからの時代は哲学が最も大切だと、生前はよく言っていたと娘さんが言っておらえました。
 おくがましいですが私も同感です。一度限りの人生だから誰もが自分の人生を充実させたいと熱望しながらも、人は何を究極の目的として生きているのかという人生哲学を理解されていない人が多数おられます。
 それが分かっておられないから、お金や愛という目先の楽しみばかりを求めて一喜一憂されています。
  黒澤作品はアウトローの世界で生きる人を主人公にしている作品が少なくありません。 世間的に評価をすれば悪だけども人のために自分の命を投げ打って困っている人を助けるというヒューマンな作品が多いです、黒澤作品は全てヒューマニズムにとんでいるから世界の人に受け入れられ賞賛されています。
 自分が幸せになりたければ人に対して優しく思いやる心を忘れてはいけないのですが、その幸せの図式が理解出来ない人が増えています。最近は富にそういう現象に対して残念に思います。

2009年8月10日月曜日

潔く死にたい

            静寂の 心に映る 夏仁王

 テレビを点けると千利休が「秀吉に屈すれば茶の道は腐る」とやっていました。
 それを見て若い時に読んだ千利休という単行本を思い出しました。利休について私ごときが記するのはおくがましいですが、私も長年お稽古事に携わって来ている一人として感ずるところがございます。
  千利休の高弟に山上宗二という人がいます。この人は秀吉の政治に対して暴言を吐いて流刑になります。
千利休のとりなしで救免となるのですが、またもや暴言を吐いて耳と鼻を削がれて処刑されます。
 利休はこの宗二を大変目にかけていたと言われています。宗二の秀吉に対する心情は、利休の心を象徴しているように思われてなりません。
 「秀吉に迎合すれば茶の道は腐る」というのはどういうことでしょうか。秀吉は権力によってのみ世の中は平和になる。権力による統治と政治が全てのように考えている人です。
 ところが利休は禅宗で修行をし、晩年は名物類を廃して質素にわび茶を作り上げていくというように精神性を最も重んじています。
 人間の生きていく究極の目的は静安に生きることである。誰もが権力者に成れるものではない。権力者にならなければ充実した人生を歩めぬのであれば大半の人は幸せになれません。
 神仏は世の中をそんな不公平には作っていません。心の豊かさを大切に生きている者には一様に幸せになれるようにしています。
 幸不幸はお金や権力で決まるものではない。心で決まるものだということを宗教家である利休はよく分かっていて、茶を通してそのことを教えているわけですから、そこは絶対に譲れない。信念と信条を覆して秀吉に迎合するぐらいなら甘んじて死を受け入れる。それが利休の最後の心境ではなかったかと私は思っています。
 坊主でも武将でも権力維持のためには強者に迎合する者が多い中で、利休は立派だと感銘したことを思い出しました。
 自分にも遠からず最後がきます。その前に自分で何もできなくなれば自分の命を自身で絶つぐらい潔く覚悟のある生き方をしなければと思います。


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2009年8月7日金曜日

人生の理解は難しい


                    憂いなく ゆらゆら泳ぐ 金魚よ  
 
先日偶然に飲み屋で女性のお客さんと一時間ばかりマジな話が出来る機会にめぐまれました。
 お歳は55歳で離婚をされて、懸命に働いて子供を育てたと言っておられました。今は子供も大きくなったので自分のことが考えられるようになった。今は旅行に行くのが最高の楽しみだということでした。  人間には息抜きや癒しが必要です。その手段の中では旅行が最高に楽しいと言われる気持はよくわかります。 それはよく分るのですが、それはその人にとっては最高に至福の一時かもしれませんが、それが誰にでも立て嵌りません。しかしその人は誰にもあてはまる。旅行ほど楽しいものは無いだろうと主張されていました。
 人生の理解というものは各自が体験した範囲内でしか理解できものであるといことを、その人の主張は如実に物語っています。  旅行に行く計画を立てて実行に移す。帰ってから暫くは楽しかった余韻に浸ることができますが長続きはしません。思い出は何時までも残りますが、あの嬉しかったときめきは直ぐに消え去って行きます。
 すぐにまた次の計画が実行に移せればいいですが、次までには経済的、時間的な理由で暫くは我慢しなければいけないのが一般的です。
 その我慢している間は喜楽から得れるときめきは途絶えているわけです。お金で得る喜楽はそのように途絶えてしまいます。そのように途切れ途切れに途絶えてしまう喜楽と、途切れることなく永続して得れる喜楽とを比較すれば、どちらが大きく心に弾みをつけてものかは簡単な算数です。
 旅行の楽しさはわかるけれども、旅行が最高という事はないのですよ。旅行よりもときめきが途絶えることのない喜楽はあるのですよ。そのように話してもその人には通じません。 そのように自分の狭い範囲でしか楽しみを理解出来ていない人がおおいのです。 マズロー博士は第三段階まではほとんどの人が達成するけれども、その上の欲求を達成できる人はうんと少なくなると言っています。この話は全くそれを実証しています。
 人生に正否など有りません、人に迷惑をかけなければ好きに生きていけばいいのです。人生とはそんなものですが、一度しかない人生です、私達凡人はどんなに勉強しても聖人にはなれません。成れないのであれば様々な喜楽を一杯経験して人生を終えて行きたいと思いませんか。そういう考えの同志を増やしたいと思って私は書いています。

2009年8月3日月曜日

踊る阿呆に見る阿呆


盆踊り 踊る人の輪 途切れがち  盆踊りは霊魂や神を迎える、また送る様式として行われ、新盆の家を歴訪して回るという郡行様式が当初はほとんどであったということです。
 有名な阿波踊りなどもその一つですが、次第にお寺や神社のお庭や門前で行われるようになり、輪踊りが一般化していきます。 現在の盆踊りは宗教的意味合いはなくなり専ら地域住人のコミュニケーションの場として行われています。
  ところで阿波踊りのお囃子に「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」というのがあります。
 大変蘊蓄のある言葉だと以前から感じていましたが、皆様方はお考えになったことがおありですか。 おつに澄まして見ている人も、馬鹿のように踊り狂っている人も、人間の中身はそんなに変わりませんよ。同じ阿呆ならという言葉はそういうことでしょう。
  人生は心豊かに如何に楽しく生きるかが個々の生きていく究極の目的です。過ぎ去った時間は二度と戻ってくることはありません。 そうであるから一時の時間も無駄にしないで、心の潤いのために前向きに踊りの輪に加わって楽しまなければ損じゃないですか。見ているよりも踊りの輪に加わっている方が楽しいに決まっていますから。 最近の盆踊りは結構人は集まって賑やかですが、屋台が目当てで、みんなだべっているだけで、民謡会の人達だけが頑張って踊っておられるだけで、何処の盆踊りもさびしいものです。 こういう現象は豊かになって、最も大切な人間関係の重要性が希薄になってきている象徴だと私は思っています。 夏休みというのに子供達の遊び声が全く響いてきません。それも同じ現象のように思います。

*動画の着付見て頂けます ユーチューブ着付名人タイム着付