2010年5月31日月曜日

大人の責任


草食系は豊かさから来る甘えと時代の産物です。
いずれの時代も見渡せばつけいる隙が無いくらいに詰まっていて、自分達の出る幕は無いと憂いながら若者達は生きて来ています。今の若者だけではありません。
いずれの時代も若者から見ればそう見えるのですが果たしてそうでしょうか。
そんな事はありません。
人生は順送りで人は必ず老いて行きそのうちに引退をして行きます。我慢をしておれば必ず自分の出番が回ってきます。
その時が来た時に自分に声が掛かるように備えが必要です。
また現今は実力主義で努力をすれば道が開けやすいという環境も出来ています。
やる気さえあれば道は必ず開けるのはいずれの時代も変わりはありません。

 私は昭和の30年代後半に芸能界で仕事をするようになりました。
芸能界と言っても裏方で衣裳の仕事です。
 私の活躍していた時期は大阪のお笑いのタレントでいえば、西川きよしさんや横山やすしなどはまだ師匠のお付きをしながら劇場にも出始めた頃です。
芸能界は先輩、後輩の上下関係は物凄く厳しく、「阿呆、馬鹿野郎」なんて罵倒は日常茶飯事です。
今の若者だったら「阿呆んだら、死んでまえ」などと罵倒されたら一日として続かないでしょう。
 厳しい上に食べていけないのです。様々なアルバイトをしてなんとか食いつなぎながら辛抱して続けていました
その我慢辛抱は大変なものです。今は師匠と呼ばれて活躍している人は全てそういう苦難を乗り越えて来た人達です。

 人は自分は自分はと自分の力に過信し勝ちですが、どんな仕事に就いても当分は一人前の戦力として使えません。一人前として活躍するには修業期間という経験が必要です。
 修業期間は先輩に仕えて尽くすのは人として当たり前です。一人前に仕事が出来て自分が指導できる立場になって始めて一人前に会社を支える一員になれます。それまでは我慢や辛抱はつきものなのですがそれが出来ない若者が増えている事は確かです。

 我々の若い時は全般に貧しかったので今の若者達の様に親頼みなんかできません。逆に早く一人前になって親を助けてやらなければいけなかったのです。そういう意味では同じ若者でも時代によって性根が異なります。
どちらがいいのでしょうか。こういう場合に若者にとってどちらがいいかというよりも、社会にとってどちらがいいかを考えなければいけません。
 草食系が多くなっては世の中はどうにもならなくなるのは歴然です。
なぜこういう現象が生じて来たか。それは私達親に原因があります。自分の子供にだけは苦労させたくないという親馬鹿がこのようにしてしまったのです。
 今更こういう事を言ってもどうしようのないのは分かっています。でも誰かが言い続けなければ益々子供たちが可哀相な状況に陥って行きます。

おすすめリンク

2010年5月29日土曜日

幸せに付いて


幸せということに付いて記しますと幸せの形は様々ある。100人いれば100の幸せがあると直ぐに突っ込みが入ります。
ならば幸せのいろいろな形というのは。100の幸せの形というのはどういうものなのでしょうか。
 例えば、好きな人が出来た愛している愛されている、その人と結婚も出来た。毎日が楽しく嬉しいというのも幸せの一つと言えるでしょう。
 念願の行きたいと思っていた海外旅行ができた「よかった、素晴らしかった、また行きたい」、そういう感じ方も幸せの一つに数えられると思います。
そういうものは挙げればきりがないくらいあります。そういう一つ一つの喜楽を幸せと称して、幸せには色々な形が有る、100の幸せがあると言っておられるのだと思います。
確かにそういうものを体得出来た時は、嬉しく、楽しく、幸せに感じることの一つであることはわかります。

 好きな人が出来ました。結婚しました。毎日が楽しくてウキウキしています。それが続けばそれほど幸せなことはありません。しかし人間は自我が強く、その上に「飽きる」「慣れる」「忘れる」という本能があるから続きません。
 若い人は自分の両親を見てください。かいもく会話がない、顔を突き合わせれば喧嘩ばかりしているという夫婦も少なくありません。
 続かないから女性は子供の育児の方に情熱を注いでいくのですが、子供も大きくなれば親よりも友達や恋人の方が良くなり親元から巣立っていきます。
 有る時期は楽しく幸せだった。だけどそういう時間は続かず、幸せに感じる時間よりも悶々としている時間の方がはるかに多い。それが一般的です。
 旅行に行けた。また行きたいけど時間とお金の事を考えると暫くは我慢をして過ごさなければ仕方がない。これも一般的です。
どういう生き方をしていてもその人の人生には楽しい幸せだと感じる時は必ずあります。しかし刹那的に部分的に幸せだと感じたとしても、後は妥協と惰性と忍耐の生活を強いられる生活では、その人の人生は幸せであると言えるでしょうか。

 私はそういうささやかな楽しみがあり、家族が元気で仲良く生活して行ければ、それで十分に幸せだという人がいます。それも一つの考え方ですが、そう言いながらも仕事は生活の為に辛くても我慢して勤めなければ仕方がない。そう考えているとすればそれは幸せではないでしょう。
それで仕事も毎日遣り甲斐があって楽しいというのであれは、それは素敵な人生で有ると言えますが、そういう人生を送っている人は幾人いるでしょうか。

 幸せを論じる場合は、人生という長いスパンで考えて論じるべきだと私は思っています。
大人になって自立してから死ぬまでの間、毎日毎日が充実しているという生き方が望ましく、そういう生き方が出来て幸せな人生と言えるのではないでしょうか。
 人間ですから嫌なとことや腹立たしいことは、毎日の生活の中で当然あります。そういう嫌なことがあっても、毎日の生活を嫌だと思うことなく前向きに生活して行けることが充実した生活と言えるのではないでしょうか。

 幸せということを考える時は人生という長いスパンでどうであるかを考え、人間は欲望の塊ですから欲を追求して行きながら毎日を充実して生きて行く。充実した毎日を送っている人が幸せな人生を生きている人だと私は思います。
 幸せの根源は喜楽です。幸せには喜楽の内容に対する理解というものが非常に大切だと私は思っています。
これは生きて行く根幹に関わっていますのでひつこく記します。

おすすめリンク

2010年5月28日金曜日

楽しみの理解


珍しい色のハリエンジュー

 吉田松陰は人生は春夏秋冬の繰り返しで12歳の子供でも既に経験をしているから何時死んでもいいと言っています。
人生はまさに喜怒哀楽の繰り返しです。
怒哀ばかりの人生もないし喜楽ばかりの人生もありません。巡り巡りの繰り返しですが、人は欲の強い動物ですから出来れば喜楽の多い人生であって欲しいと念じています。
 その喜楽につながるものは無数にありますが、一般的には男女愛や家族愛、また買い物や旅行というお金を出せば簡単に得られる喜楽を求めています。
 そういう喜楽は楽しくないとは言いません。楽しいのですが長続きしません。
 仏教などでは刹那的に消え去ると言っています。
喜楽には刹那的に消え去るものと、本人の心がけ次第では永続する喜楽があります。
 大きな喜楽を得るにはこの事の理解が必要なのですが、永続性のある喜楽は経験がなければ理解できなくて、一般的には愛とお金で得られる喜楽しか知らないというのが現実です。
趣味や娯楽以外に喜楽につながる何があるのか、それが分からないという人が多いのです。
 お金で得られる喜楽はお金が潤沢にあれば喜楽も大きいものになりますが、一般的にはお金はその人の値打ちに比例するものですから潤沢にお金を手に入れようとしますとそれだけ社会的地位の向上に努めなければいけません。
 そのためにはそれ相応の努力と働きが必要になります。それが自分の意のままに進みませんし、想像を絶する大きな努力が必要ですから、自分の身の丈に合った財政の範囲内で得れる喜楽で我慢しています。
 それが一般的ですが、それも苦痛でしんどい疲れる。もっとマイペースで行きたいという人の一部が草食系と言われているのでしょうか。

 人生は各自のもので他者がとやかくいえません。言えませんが人間は欲の強い動物でその欲を無くす事が出来ないのも人間です。
 ならば逃げないで本能の赴くままに喜楽を追求していくのが人間らしい生き方ではないでしょうか。
 追いかけるのが辛くて出来ないというのも草食系なのでしょうか。。
 欲を追い過ぎて、ままにならないことに気を揉んでストレスをためてしまっては病気になってしまいますので、そういう人は仕方がありませんが、元気に欲と追い駈けっこするのが最も人間らしい生き方だと思います。簡単に走る事を諦める人生はつまらないでしょう。
追いかけて成功した時に永続性の喜楽が理解出来、永続性の喜楽が得られます。

おすすめリンク

2010年5月26日水曜日

草食系より大人


               春紅葉陽を透かして燃えている

NHKの「これからの日本」というトーク番組の中で、草食系男子または女子と言われる若者たちの意見を聞いていますと、「車は欲しいとは思わない」、「出世もしたいとは思わない」「酒は不経済だから飲まない」、無理をしないで自由気儘に生活したいなどと言っていました。
 そういう生き方に対して突っ込んだ議論になりますと、自分はそれでいいと思っているのだから何が悪いのかという結末になってしまっています。
 あくまでも一般論ですが若者達の常套句は「自分がそれでいいと思っているのだから」、「人に直接迷惑を掛けているわけではないから人からとやかく言われる筋合いは無い」などと理屈を言います。人に迷惑を掛けなければ何をやっても正論という考えなのかもしれませんが、それは必ずしも正論ではありません。

 会社では通常は製品を製作している人達と事務屋と営業職とがあります。どの分野も重要で互いに支え合っているから自分もお給料がもらえるわけです。自分も支えられてお給料が貰えているのですから、等分にというよりも積極的に分担して支え合い、欠員がいたらその分の穴を埋める働きをしなければいけないでしょう。

 社会も同じで健常者もいれば障害者もおり、また子供もいればお年寄りもいます。人はそういう社会という器の中で共に支え合って生きているのですから、健常者で働き盛りの人は頑張って人の分も支えなければいけないでしょう。

 家に帰れば喉が乾けば蛇口を捻れば美味しい水が飲めます。スイッチを押せば電気が灯って音楽も聞けてテレビも見れます。誰のお陰でそれができるのですか。自分一人でそんなことが間違ってもできません。

 人はどんなに頑張っても返せないくらいに自然や社会の恩恵を受けて生きています。それなのに自分だけ苦労するのは嫌だからのんびり暮らしたいという考えは正論ではないでしょう。

 同じ健常者でも各々に体力、知力に差異がありますので、これだけ頑張らなければいけないという決まりは有りませんが、各々の能力に応じて前向きに生きて行く責任と義務があります。

 こういう理屈は当然の理ですが、教育者も役人も政治家も見ていれば、自分達が良ければいいというのが目につきますので、若者ばかりを批判できないね。
これではどうにもならないね。どうにもならないことが分かっているから自己防衛でみんな貯蓄に走るのです。ひとは裏切ってもお金は裏切らないからね。

おすすめリンク

2010年5月25日火曜日

親と子供


  ヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)

 先日肩が凝ったので少し気分が悪いと言いますと、妻が揉んでやるといって揉んでくれました。
グット摘まんで揉み指で指圧をする。その力は私なんかよりも強く、力が衰えることなく続きます。
あまり長くなると悪いので「もういい」と遮りました。「男以上の力やね」と言いますと、小さい時から高校生ぐらいまでよく父の肩を揉まされたからだと言いました。
 今の親なら「お父さん肩を叩くから100円頂戴ね」「よっしゃ」てな様子ですが、彼女の父は厳しくて子供が親の肩を揉むのは当たり前、親父が「もういい」というまで何時間でも揉まされたということです。
 いい気持になって寝ているようだからそっと止めようとしますと「阿呆揉まんかい」と怒られたそうです。だから指が鍛えられていて、少々肩を揉んでも指がだるくなるという事はないと言っていました。


 田舎ですから山仕事に行きます。親父は何を怒っているのか訳が分からないのに、山の上の方から走って降りて来て飛び蹴りをされたと言っていました。そんなことは始終有ったそうです。
 学校から帰ってくると必ず仕事を手伝わされた。夏休みなどは朝から晩まで仕事をさせられていたので学校に行っている方が楽だったと言っていました。


 彼女は11歳を頭に4人の子供がいる時に離婚をしていますが、親父に怒られて鍛えられていたから色々と苦しかったけれども、厳しい家庭で育てられて鍛えられていたから頑張りきれたと言っています。

 子供の頃は家が嫌で早く学校を卒業して都会に出たいと思っていたと、親のことや田舎の事をよく話をするのですが、その時の話は怒られた話ばかりですが、本当に嬉しそうに懐かしそうに話をします。


 ある学校の先生の話ですが、優しい先生と大変厳しい先生がいた。優しかった先生が亡くなった時の葬儀はさびしかった。厳しかった先生の葬儀の時には物凄い参列者の数で、先生の現役時代の武勇伝を参列者間で囁かれていたという話があります。私も今は怒られた先生の想い出しか残っていません。


 優しい親も怖かった親も子供を愛しむ愛情に差異はありません。ただ子供時代はそういう事は理解できないので優しさを好みますが、怒られて叩かれて厳しく育てられた方が、子供にとっては心の財産として残るものが多いと思います。

 私たちの年代の親は厳しかった、怖かったものです。何時も親父の顔色をうかがっていました。食事の時は親父は必ず一品おかずが多かった。お袋は優しいが親父は怖かった威厳があった。そのバランスが絶妙でお袋の切り札は「お父さんに言いつけますよ」で子供を制御できた。
 怖い親父にたまに褒められたりすると嬉しさはかくべつだった。たまに何処かに連れて行ってもらえると天にも昇る喜びであった。子供の育成にはそういうメリハリのある環境の方がよい成果が出てくると思います。

 今の子は家ではやりたい放題に甘やかされていますが、社会に出れば未だに上下関係は厳密で厳しい。そういうギャップの大きさを考えても子供はもっと厳しく育てるべきではないかと私は思います。

 人間が生きて行く目的はどんなに世の中が変わっても変わりません。そしてその為にはどうしてどうなればいいかも変わらない。それに対応できる子供に育てるには,愛の鞭の言葉の如く厳しい方が子供の為には絶対にプラスになると思いますが如何でしょうか。

 昨今草食系などと言う言葉が生まれていますが、そういう子供に育てたのは大人達の優しすぎる愛情の結果です。草食系が親達もそれでいいその方が幸せだというのならそれでもいいですが、そんな親はいないでしょう。ならば親はもっと厳しく子供を育てあげなければ。

おすすめリンク

2010年5月24日月曜日

感動の思い出


ご覧頂いているのは紅葉の花です。
皆さんは紅葉に花が咲くのを知っていましたか。
どんな樹木も花を咲かせ実を付けるとは話には聞いていましたが、紅葉は紅葉を楽しむだけのものという認識しか持っていませんでした。
 ところが四十代になってふと新緑の紅葉をみていると極小さい赤い斑点のようなものがついていました。
よく見るとそれは紅葉の花です。驚きました。
「紅葉にも花が咲くのだ」とまじまじとみつめました。
よく観察しなければ見落としてしまうほどの細かい花です。
俺は今まで樹木をじゅっくりと見て思いを巡らせるほど心のゆとりが無かったのです。
紅葉にも花がさいて、紅葉の季節だけでなく新緑の候も大変みずみずしくて私達の心を癒してくれる。
自分にもそういう見方が出来るようになったのだ、少しはゆとりの持てる人間になれたのではとその時は感動しました。
大変嬉しかった事を紅葉の新緑を見ると思いだされます。

おすすめリンク

2010年5月22日土曜日

ものにならない人


書道の先生に「生徒募集」と書くと、来て下さいとこちらからお願いをしていることになる。「お願をしておいて厳しく接する事はできないでしょ」と諭すように言われたことがあります。
 どんなものでもお金を頂いて行っている事は全て営利事業です。お茶やお花のお稽古事の世界が営利事業であることを分かっていいない人がいるのが不思議です。威厳と尊厳を高めるために神格化したがっていますが、営利事業であることに変わりはありません。
 営利事業で有る限りは宣伝行為云々よりも、お金を頂いているからこそ責任と使命感を強く持って指導に当たるべきではないかというのが私の考えです。

 お稽古に来られる人の中には、貴重なお金と時間を費やしながら遊びの延長で来ている人も少なく有りません。そういう人達の方が多いというのが現実です。最近どのお稽古事も衰退してきているのは、不景気になって遊びで来る人が少なくなったからです。
 一生懸命に取り組め無い人をどう導くかを考えますと、形は全て心の現れですから、前向きに取り組むように意識改革をして行くことが一番大切です。意識改革の為には黙って見て悟れは通用しませんので、嫌がられてもうとまれても戦ってこちらを向かせなければいけません。
向かせる手段は何が道理かを説いて同意を求めて行く以外にありません。

 筋道を立てて同意を求められると面と向って逆らえません。
 誰が聞いてもごもっともという事に対しては、そのことに逆らうとあの人は駄目な人というラベルを貼られることになりますので、猫を被って良き理解者を装います。そう仕向けて行く事が指導者の一番の仕事です。
 そういう能書きがどうしても嫌で耐えられない人は、少しでも早くに辞めようと話を聞いた段階から逃げる機会を窺っています。

 鳩山総理は全く分かっていません。何をやっても100%支持される事はないし、100%皆を納得させることも出来ません。如何に%を高めるかが課題なのですから、指導者は断固として意志を貫く決意が必要です。
 それはお稽古事でも一緒です、意に添わなければ辞めたらいいねんという割り切りも必要なのです。そういう決意のもとに様々に能書きをたれてきました。
 よく折角お稽古に来たのだから「きちっと出来るようにしなければ」と言いました。そうすると中には「私は別に指導者になろうと思っていないから」「別にプロになりたいと思っていないから」と一生懸命に取り組めないことを自己弁護します。
 そんな人達でもどの程度出来るようになりたいのかと聞きますと「上手に」と答えます。
上手というのは現実にはどのようなものか。
 技能には下手・普通・上手とあります。
上手の見本は先生です。先生と同じように出来て始めて上手に出来るようになったと言えます。
 技量だけでなく上手に出来るようになって始めて、そのものから大きな楽しみや喜びが得られるようになります。
 お稽古事というのはプロになるとか指導者を目指すということに関係なく、始めた限りは上手を目指さなければいけないのです。それを自分はプロになるつもりはないなどと言う人は井の中の蛙大海を知らずです。
 何のためのお稽古をするのか。心の潤いを得るためです。より大きな心の潤いを得るにはどう取り組むべきかを考えるのが正当な思考です。そのためには上手に出来るようになることが必須です。
そういう理屈は苦労して頑張ってこそ体得できます。頑張りもしない人間には理解できません。理解できていないのに自分は偉いと自負心を持って、マイペースを貫く人が多いのが世の中です。

おすすめリンク

2010年5月18日火曜日

霊山寺のバラ(奈良県中町)

霊山寺には毎年行きます。今年は少し早かったようです。

バラを見ながらローズティーを頂く至福の一時ですね

おすすめリンク

2010年5月15日土曜日

生き甲斐


               萌黄たつ 生の息吹に 浮き立ちて

 人間には「忘れる」「慣れる」「飽きる」という本能が備わっています。
その本能は恋や愛にだけは作用しないでほしいのですが、分け隔てなく作用してきます。
そのためにどんなに大恋愛で結ばれても、別に嫌いになるというわけでは有りませんが、一緒にいてもそれだけで楽しいという「ときめき」はなくなっていきます。
五十路を過ぎて連れ合いと一緒にいることが楽しい生き甲斐だという夫婦を、私は未だ嘗てみたことがありません。

 人間は生きて行くには食べなければいけません。食べるためにはお金が必要です。お金は絶対に必要ですが、充実した生き方をするにはお金だけではどうすることもできません。
 お金が潤沢にあれば様々な事を手掛けられます。あらゆるものを手掛けた結果として生きがいにつながるものを見つけやすいという、条件面でお金は力を発揮しますが、逆にお金が無くても的を絞って取り組めば、そのものを生き甲斐につなげる事は可能です。生き甲斐を見つけるにはお金が潤沢でなければいけないという事はありません。
 何でもお金が物を言うという考えの人も少なくありませんが、物事の考え方と取り組み次第でお金が潤沢に無くても生き甲斐を見つけることは可能です。そのことをよく知っておくことが大切です。

人間が生きて行くには生き甲斐というものが絶対に必要です。
愛し合って一緒になった当時は、一緒に生活することが生き甲斐であったものが本能によってそのうちに生き甲斐でなくなってきます。
無くなってくればそれに代わるものが必要です。それに代わるものは教養しかないのですが、それが分からないものですから、身近で一番愛している子供に目を向けて、子供を育成していく中で自分の生き甲斐を見つけようとします。そうなれば亭主はそっちのけで子供に愛情を注ぎ一生懸命になります。
 立派な子供に育てるという事は社会に貢献できる子供に育てるということが一つの大きな目標であります。
そういう子供に育てるには愛情を注いでお金を掛ければ育つというものではありません。
 仮に親が経営者でお金持ちだとします。そういう力のある人は女房以外に外で女を作っているケースが非常に多いです。そうすると家庭内では険悪な空気が漂っています。そういう雰囲気を察知した子供は落ち着いて勉強なんか出来ません。
そういう風に子供の育成には様々な要因が絡まって結果が表出します。愛情とお金を注げば必ず良い答えが出てくるというものではありません。
逆に愛情を注ぎすぎて子供を軟弱にしてしまうケースの方が多いようにおもいます。

 子供は可愛い存在ですから愛情を注いだらよいと思いますが、子供に期待をし親の生き甲斐にすれば子供に負担を掛けてしまって良い結果は生まれないでしょう。
子供の教育には、このように育てれば必ずこういう結果が出るというマニアルはありません。
 子供を溺愛するよりも子供に自主性を持たせるために、親自身が良い人生を歩む努力をすることの方が大切です。
 親は子供の事は何でも分かっていますが、逆に子供も親の生き様をよく知っています。親が他力で生きているのに子供にだけ確りせいと言っても無理ですね。

おすすめリンク

2010年5月13日木曜日

本能の自覚


              日を透かし 萌黄る紅葉 水に映え


人間には「慣れる」「飽きる」「忘れる」という本能が備わっています。
この本能が無ければ私達は生きていけないでしょうね。
若い時には何回か真剣に好きになり何回か振られました。
振られた時は明日から何を楽しみに、何を生きがいにすればよいのかと気が滅入って本当に悲しく辛い日が続きます。
振られたことを苦にして自殺する人も稀にいますが、その気持ちはよく分かります。
そんな滅入った気持ちがずーと続けば確実に鬱病になってしまいます。
しかしそれも時が過ぎれば次第に薄れて来て、そのうちには普通に戻ります。本能が浄化してくれるのですね。

 この人と一緒になりたい。一緒になれなければ死んだ方がましだと惚れて惚れ抜いて結婚した相手でも三年経てば慣れて七年経てば飽きると言われているように、七年も経てば一緒にいても恋心なんか無くなりときめかなくなります。愛にだけは本能が作用しないでほしいのですがそうはいかなくて、先の話とは逆に本能がいたずらをするのですね。
 よく「貴方は薄情な人だ」などと言い合いをしますが、恋心が有る間はそんな喧嘩はしません。それは恋心が無くなってからおきることで、それは薄情云々というよりも本能がそうさせてしまうのですから仕方がないのです。

 人はときめきがあれば充実した時を過ごせますので何時もときめきを求めています。そのときめきが家庭内で無くなってしまうから、巡り合いの機会の多い男性は浮気をしてしまうのですね。
 同じ殺人を犯しても事情によっては情状酌量で刑が随分異なるのと同じで、浮気をした男性は悪いけれども、早くに飽きさせてしまうような振る舞いをする女性にも多少の罪はありますね。

 私達阪神間に住む者は淡路阪神大震災で悲しく辛い思いを強いられました。肉親を亡くした人も沢山おられます。
肉親を亡くすなんてことはどんなに悲しくて辛いことでしょうか。その悲しみと苦しみは計り知れない凄い出来事ですが、そんなに大きな悲しみであっても時と言う薬によって普通に生活が出来るように回復させてくれます。

 様々な出来事があって人生は喜怒哀楽を繰り返します。怒哀ばかりが続く人生は無いし、喜楽ばかりの人生もありません。
必ず交互に押し寄せてきますので、怒哀の振幅と伸長は出来るだけ小さく短く、喜楽の振幅と伸長は大きくと人は希望します。しかし希望する通りには行かないのが人生ではありますが、一つ確かに言えることがあります。
前向きに生きていれば必ず喜楽は訪る。そしてどんなに悲しく辛いことが生じても時間と言う薬が癒してくれるということです。

おすすめリンク

2010年5月11日火曜日

ねやのさと福祉会主催コンサート



ねやのさと福祉会主催の渡辺公子さんの感謝コンサートでゲスト出演をされた中国の琵琶の奏者のエンキさんの演奏が素晴らしいので、ご存じで無い方もいらっしゃるのではと思いアップしました。ピアノは上田祐司さんです。
曲は懐かしい「黒い瞳」です。

2010年5月9日日曜日

パソコンと友人


            みんな仲良く寄り添って亀に倣えと神は言う

パソコンを通じて嫁を貰うことになり、多くのお知り合い、お友達ができました。
私がパソコンを始めようと思ったのは35年間勤めてきた我がきもの学院を退いてからです。
 退きたくはなかったのですが、私を長年に渡って支えてくれた副学院長から学院を割ると宣告されたからです。そういう事態を招いたのは私の不徳のいたすところであり、割れば学院は潰れてしまいます。

 家元制度というものは公の資格で講師と言われているわけではありません。
社中があってこそ存在が認められるというものですから、潰れれば長年に渡って学院を支えてくれた多くの人に迷惑をかけますので、全ての権利を譲渡して私は退きました。

 退いてから自分には着付け以外に何の取り柄もありませんので、とりあえずはパソコンを始めようと考えたわけです。
 ちょうど行きつけの喫茶店に西宮流の武庫殿が来られていたので教えて頂けませんかと声をかけました。武庫殿はボランティアで「おたすけたい」という名称で公民館で教えておられていますので、そこに来ませんかと誘って頂いたのが始まりです。
 3回ほど行ったところで引っ越しなどがあり中断をしてしまいました。また始めようと思った時に脳腫瘍を患い入院して始める事が出来ませんでした。
 本格的に始めたのは退院してきてからです。
脳に異常をきたして入院をした大半の人は足、手、言語障害等の後遺症で社会復帰を断念しておられる方が多数おられます。そんな中で奇跡的に何の後遺症も無く生還することができました。
 真面目にもう少し頑張れという天の声だと思いとりあえずはパソコンをと真面目に始めました。
それが一昨年の秋の事ですからまだパソコン歴は一年半ぐらいです。

 パソコンは難しいです。67歳から始めたものですから難しくて未だに用語などはさっぱりわかりません。
そんな私ですが武庫殿のお陰でHPを開くことができました。
どんなに武庫殿にはご足労をかけたことか。朝昼夜関係なく電話で始終尋ねる。電話ではらちが明かない時は家にまで来て頂いて懇切丁寧に教えてくれました。
 私と武庫殿は同じ年で私の師匠ですが友達感覚で気楽に教えて下さり、友達付き合いをしてくださっています。
 武庫殿だけでなく武庫殿の関連でkokoroちゃんや師匠格のかっしゃん(柏原様)などとも友達付き合いをして頂いています。
 6月2日には披露宴を行うのですがパソコンで知り合った方々だけでも10人近く来てくださいます。

 私は35年間経営して来たきもの学院を無くしましたが、無くした代償にかけがえのないお友達ができました。会社絡みの友達は退いてしまえば続きませんが、こうい形で出来た人間関係は自分の心がけ次第で永遠不滅のものになる宝物ですから大切にしていきます。武庫殿を筆頭に皆さん本当にありがとうございます。
年寄りのくせに懲りない男ですがこれからもよろしくね。

おすすめリンク

2010年5月6日木曜日

草食系


5月6日夜、NHKで「日本のこれから」というタイトルでトーク番組が放映されていました。
草食系の若者が増えていて、そういう若者の意見を聞いていますと、何とか食べれればよい、車は欲しくない、酒は不経済だから飲まない。出世なんかはしなくてもいいなどと、積極的に社会と関わって行こうとしないで、自分が自由気ままに楽しんでいけたら、それが一番幸せな生き方であるなどとも言っていました。
 何のために努力をしなければいけないのか。努力をしないでも生きていければそれでいいではないかとも言っていました。
 結構理屈ぽくて、若者は若者なりに信条を持って意見を述べていましたが、一つ肝心なところが抜けているように感じました。
 酒なんか呑まなくてもいいです。車も買わなくてもいいです。出世もしなくてもいいです。何が楽しくて何が幸せな事なのかは、価値観の相違によってまちまちであってもいいと思います。どういう生活をして行こうと自由ですが、そんな若者達ばかりになっていまえば国はどうなってしまうのでしょうか。
 若者達は自分達の考えが正論であると考えて立派に理屈だけは述べていますが、そのように立派に意見を述べれている自分がそこにいる。それは両親が懸命に働いて育ててくれたからです。
両親の力だけではありません、その両親が頑張れる環境を社会全体で作り上げ、発展と維持に努めて来た結果として若者達はその場で論じることが出来ています。
 贅沢をしなくても何とか食べて行けて自分の好きな事が出来ればいい。それで世の中が何の支障も無く成り立って行くのであればそれでもいいでしょう。
 世の中はグローバル化してきて激しい世界競争が始まっています。維持は実質には後退ですから皆が前向きに頑張って少しは成長していかなければ生活が維持して行けなくなります。
そんな事は私がしなくても、俺がしなくても頑張ってやる人がいるから自分だけは自由にしたいというのでしょうか。それは自由ではないでしょう、自由には責任が伴います。責任を放棄して自由はないのです。
 自由に生きればいいです、我々年寄りはそれに付いて、今の若者達は等とは言いません。
言いませんが、自分は社会のお陰で生き来れているのですから、社会が成り立つように各自が応分の責任と負担を背負っていかなければいけないでしょう。
それが分からずに自由だけを唱えている若者を見ていますと悲しくなります。

おすすめリンク

2010年5月5日水曜日

ゴールデンウィークに思う


            長谷寺は 牡丹回廊 観世音



 ゴールデンウイーク、子供が幼い時は何処に連れ行ってやろうか。妻よりも子供の喜ぶ顔が見たさに様々な所に出掛けたものですが、この年になるとゴールデンウイークも盆も正月も気持ちが高まる事は無くなってしまいました。

 長期の休みが続きますと田舎の有る人は里帰りをする人も少なくないでしょう。
家では年寄りたちが首を長くして待っています。そういう人達にとっては心躍る楽しいひと時です。
しかし休みが明けて皆が帰ってしまうと、賑わっていた空間がまた静寂な空気の動かないものになり虚しさと寂しさがドット押し寄せてきます。
 何もなければ平凡に静かに暮らせていたものが、嵐が去った静けさの如くに森閑として、耐えがたい寂しさに少しの間苦脳します。

 私は20年間独り住まいでしたのでその寂しさはよく分かります。まだ都会の場合は外の喧騒さが感知されますので紛れるということもありますが、田舎ではその寂しさが増幅されるのではないでしょうか。
 私などは日々夜の寂しさを紛らわせるために酒を飲んでいました。
酒は嫌いではないのですが酒が無ければ我慢ができないというほど好きではありません。弱いので飲めば直ぐに眠たくなってしまうので、酒を眠り薬代わりに飲んでいたのです。そんな生活は楽しい筈がありません。

 年輪を重ねると夫婦は会話もしなくなって、夫婦とは何だという疑問を持ってしまうほどにしらけた関係になるのが一般的ですが、連れ合いが無くなると本当に寂しくなりますよ。
 特に男は生きている間に女房を大切にして、時には手を繋いで映画にでも一緒に行くように心がけてください。
 男は女房が先立つと後を追うように逝ってしまいますが、女の人は気が楽になって長生きすると言われています。
それは男が優しくなかったからです。男が優しかったら男も女も関係なく後に残されてこれからどうして独りで生きて行こうかと悩んで憔悴すると思います。

 葬式の時は何の未練も悲しさも感じなくても妻は一様は涙を見せて泣いてくれます。
しかし落ち着けば「ああこれでのんびりできる」と妻に背伸びをされてします。そんな男ってどんなに生前は威張っていても何の値打もないでしょう。

 おすすめリンク

2010年5月3日月曜日

上海万博と俺の万博


             鳳凰を 透かして見たし 藤すだれ

上海万博が始まりました。
大阪万博では私はお祭り広場で様々なイベントの衣裳担当として派遣されていました。
半年前からプロジェクトチームに入り準備を始めましたので、丸一年間は千里に通ったわけです。
 万博最後の日は東レが振袖を提供して、参加国の各パビリオンのコンパニオン全員が振袖を着ました。
 総数で300名以上だったと記憶しています。阪急東宝系が下請けで入っていましたので、宝塚歌劇の衣裳担当の人に応援に来てもらい、それだけでは足りませんでしたのできもの学院の人にも何人かに来てもらいました。
 女性というのは実に頑なところがあって、着せ方が違う、帯の結び方が違うと宝塚組ときもの学院組がいがみ合っていました。時間までに全員を着せなければいけないのに「何をやってるねん」「着付けなんか速くて、綺麗で着崩れがしないで、着ていて楽であればどんなやり方でもいいねん」、宝塚組には同じ幕内で知っている人もいましたので、「きもの学院側が何を言っても放っておけ、それよりも時間に間に合わせてくれ」と注意をしたのを覚えています。

 私も着付けに勿論加わりましたが着替えの場に男がいるものですからコンパニオン達から出て行けと抗議をされました。
 私はプロだからそんな事を言っていては仕事が消化出来ないので我慢してくれと通訳してもらいますと、コンパニオン達は納得してくれました。納得してくれるとコンパニオンたちは実に手際よく恥ずかしがらずに脱いで準備をしてくれました。

 一つ困ったことがあります。足袋を履いてもらわなければいけません。そのためにはパンストを脱いでもらわなければいけません。日本人はパンストを履く時はショーツの上から履きますが彼女達はパンストはショーツと靴下が一体化したものですからパンストしか履いていません。彼女達にとってはショーツを履く方がおかしいのです。しかし脱いでもらわなければ足袋は履けませんので肌着を付けたからパンストを脱いでもらうことにしました。下はスッポンポンです。その時に外人と日本人の文化の違いを見せつけられました。

 最後のパレードではコンパニオン達もあこがれの着物を着せてもらって嬉しかったのでしょう。私の傍に来た人は皆さん温かくキスをしてくれました。何でお前だけやと皆に羨ましがられたのが一番印象に残っています。

 そんな事はどうでもいいんです。今回の上海万博では日本館には反日感情に配慮して日の丸を掲揚していないと聞きました。
 戦争は勝った方が善で負けた方は悪で、悪者扱いを受けた敗戦国はそれだけの我慢や辛抱を強いられて戦後処理は終わっているのではないですか。何時まで尾を引いてるねん。
 我々は日本人として自分の国に誇りを持って生きています。反日感情に配慮してと言っているようですが、我々日本人の誇りや自負心はどうでもいいのか。そんな骨なしだったら最初から参加するな。
 むかつく、政治家は何をしてるねん。外交というものはそんな程度のものなのか。
 人と国の付き合いも一緒や「やるんやったら何時でも相手になるで」という姿勢で臨まなければ舐められます。
舐められたら対等の付き合いは出来ませんで。もっと根性を持てよ。情けない。本当に情けない。こういう俺は馬鹿か皆の意見を聞きたいです。
 
おすすめリンク

2010年5月2日日曜日

形は心の現れ


                  マンサク

お顔は心の玄関で、形は心の現れと言われているように人の心はいくら隠して繕っていても必ず表出します。
学院運営をしてきまして付き合いが長くなってきますと、家に連絡をしなければいけないことが必ず生じます。
電話をした時に家の人が出ます。特に子供さんと言いましたも中学生以上の人のことですが、お母さんが学院に対して不平不満を抱いていたとしますと、子供さんにもお母さんの気持ちが伝わっていますので、応答がぶっきらぼうだったり暗かったりしますので、学院に対するお母さんの気持ちが好意的で有るか否かが直ぐに察しが付きます。
好意的であればお子さんの声も明るいし弾んだ声で応対してくれます。

 学院では皆さん方の技量を少しでも早く上達させるために発表会を行っていました。
お稽古事は着付けに限らず出来なくても生活に何の支障もありません。そんなものですから皆さんの意志に任せていたら遅々として上達しません。そのうちに難しいので止めて行きます。多くの人はそういうパターンで辞めて行きます。それを承知していて放置していたのでは責任が果たせませんので行事の有る時は強引に引っ張って出るように勧めます。嫌々であっても出ると決めれば恥を掻きたくないので必死で頑張るからです。

 それでもその日は約束があるからなどと様々に理由を付けて断る人がいます。何カ月も先のことなのですからその気になればどうにでもなる筈です。
 人は選択を迫られた時は、自分が大事と思っている、自分がそちらの方が楽しい、そちらの方が気が楽だと思っている方を必ず選択します。断る人は拒否することを正当化して言い訳をしてきますがどちらを大切に思っているのか、心が正直にそういう言い訳の形となって現れます。
 約束がある、法事だからなどと嘘と分かっていても二回は「ああそうですかそれは残念です」と言って見逃しますが、三回目には同じように断って来たらこちらから辞めさせました。
 何のためにお稽古をするのか。自分が今よりも何かを身につけて向上したいからです。
その根本からすれば向上させることを何よりも優先させなければいかません。
友達との約束よりもデートよりも折角貴重なお金と時間を費やしているのですから、自分自身の向上を優先させるべきです。
 人は自分の意志でドンドン前進できる強い意志を有していればマイペースで進めばいいのです。
しかしそんな人は稀ですから、何かあればそれに乗っかって自分を苛める事が自身の向上にとって大切です。
 それを嫌がって避けようとする人は絶対に向上はしません。駄目と分かっているから辞めて他の道を探したらと言ってやります。

 何をやってもその人の人間性がものを言うから、そんな人は他の道を探しても同じことの繰り返しですね。

おすすめリンク