2011年6月30日木曜日

懐かしの浜寺公園



昔は大阪湾は茅渟の海(茅渟の海)と呼ばれていました。
泉南郡、泉北郡から淡路までの地名が茅渟と言われたていたことに由来します。
茅渟の海の沿岸には高師の浜と言われる松原が広がり万葉の時代から親しまれていたと言われています。
南北朝時代に後醍醐天皇の勅命により三光国師(さんこうこくし)がこの地に大雄寺(たいゆうじ)を建立しました。「山の寺」と呼ばれていた吉野の日雄寺対して、大雄寺を浜の寺と称したところから浜寺という地名になったと言われています。
高師の浜と言われ美しい松林が広域に続いていて名所として親しまれて来ましたが、幾度かその松林の存続が危機にさらされたことがあります。
その最も近い出来事が明治維新です。
明治5年に政府は生活に困った士族に松林を払下げて伐採が行われました。
明治6年にたまたま視察に来ていた有名な大久保利通がその光景を見て「音にきく 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」という歌を詠みました。「あだ波」は、たいした風もないのに立つ波、すなわち軽々しい行為のたとえです。
太古から存在し名所として親しまれているものを軽々しく損ねていると怒ったのです。
その歌を見て一緒に視察していた税所 篤子爵が堺県令に直ぐに伐採を中止するように告げて松原が守られました。明治6年に浜寺を堺県知事は公園としました。浜寺公園は日本で一番早くに公園に指定されたと言われています。
 昭和22年にアメリカが進駐軍の宿舎用地として使用しました。
私が幼い頃は既に進駐軍がいましたので全貌は見たことがありませんでした。
昔の26号線から松林を抜けると直ぐに海で、高石とは海続きになっていましたが、浜寺からは境界線が設けられていて浜寺の海では泳げませんでした。
初めて懐かしの浜寺公園を散策してきましたが、松林が羽衣駅~浜寺駅を過ぎても連なっている素晴らしい松原です。進駐軍が使用していた消火栓がところどころにそのまま残っています。
涼しくなれば公園に汽車も走っていますので孫を連れてってやりたいです。

2011年6月29日水曜日

墓参り


娘が二度目の妊娠をして、つわりがひどくて何も出来ない状態に陥っていると聞いて、妻が泊りで家事応援に行くことになり送っていきました。
 二歳半の孫がいるのですが、妻が仕事をしていますので訪問をすることが少ないので、久しぶりに行って顔を見せますと驚いて泣かれてしまいます。それでも直ぐに懐いてくれるのですが、次に訪問をすると忘れられていてまた泣かれます。
 主人の実家の近くに住まいしていて、ご両親やご兄弟に可愛がられているようですから、心配はないのですが、出産の折には少しは私達も手伝いをしなければいけません。そのためには孫に懐いてもらえるようになっておかなければいけませんので、暇があれば手伝いに行きたいと思います。
 行先は和泉大津で、私は小4までは高石育ちで両親の墓が高石にありますので送って行った帰りに久しぶりにお墓参りをしてきました。

 仏壇をお持ちの方は仏壇に始終手を合わしておられると思います。
 よく「行ってくるよ」「帰ってきたよ」と言って先祖にご報告をしているシーンなどをドラマなどでみかけるのですが、亡くなった人は仏壇にはいないそうですね。
仏壇に手を合わせるのは仏壇の奥に祀られている如来像があります。その仏様に「亡くなった人を見守ってください慰めてやってください」とお願いをするために拝むと聞いています。
家に帰ってくるのはお盆だけで、そのための迎え火、送り火を炊くそうです。
 普段は墓に眠っているので頻繁にお墓参りをしなければいけないのですが、それがなかなかできません。
出来ないなんて言うと何か行けない理由があるように聞こえますが、そんなことはないのです。
自分の心がけ、思い遣りが足りないだけです。
それでもこうしてたまに行って、花を活け替えて、香をたいて、墓に水をかけて手を合わせますと、何とも言えない落ち着いた気分になれます。
神仏に手を合わせている間は世俗から離れた別世界に身を投じているからですね。
これからは度々墓の前を走ることが生じると思いますので、両親から「どうしたん珍しいなぁー雨が降るで」と言われるように行って話してやろうと思います。
愚痴や悩みや泣き言は言いません。
言う言葉は一つだけです。「楽しくやってるか」「もうすぐ行くから下界が良く見えるいい場所確保しておいてや」です。

2011年6月28日火曜日

冥途の旅 奪衣婆(だつえば)


三途の川を渡りきると一本の木が立っています。この木は「衣領樹」(えりょうじゅ)と呼ばれています。
この木の下で爺さんと婆さんが死者が来るのを待っています。
爺さんは懸衣翁(けんえおう)と言い、婆さんは懸衣嫗(けんえおう)と言います。
この婆さんの役目は冥途の旅人の衣服をはぎ取ることです。
そのために「奪衣婆」(だつえば)とも言われています。
奪衣婆は、はぎ取った衣服を懸衣翁に渡します。懸衣翁はこれを衣領樹にかけます。
この衣領樹は旅人の生前の罪の重さをはかる木なのです。衣服をかけると罪の重さによって枝のしなりが異なる仕組みになっています。この木ではかられた罪の重さが第二法廷の証拠物件となります。
第二法廷の裁判官は初江王(しょこうおう)です。
ここでは死者の生前の殺生に付いて裁かれます。五戒の内でみだりに生き物を殺す殺生は最も重い罪に問われます。
そのあとも裁判は第三、第四、第五、第六、の裁判を経て四十九日目にいよいよ最後の裁判を受けます。
それで結審されるわけです。それが満中陰です。
最終判決がくだされますと裁判官は六道のうちのどれかを決めます。
第七の泰山王(たいせんおう)は死者に六の鳥居を示してどの鳥居に進むかを選ばせます。
どの鳥居はどの世界に通じているかはわかりません。あくまでも自分で来世を決めるのですが、この選択は前世の業による結果なので、自分んで選んだつもりでも選択肢は決まっているのです。因果応報の原理が存在しているからです。

2011年6月27日月曜日

ドラマ「江」千利休死す


秀吉の茶頭である千利休は多くの名将達から敬愛されていました。
言わば一介の茶坊主が多くの武将から尊敬されて政治的に影響を持ってくる。それは秀吉子飼いの石田三成などからすれば許されないことです。何としても利休を政治の場から追放したいと画策し、その結果として利休は自刃に追い込まれます。
秀吉とすれば利休が許しを請うて従順を誓えば許してやりたいという気持ちがあったようですが、利休は死罪を選択します。
ここが千利休の精神性の高さを感じる、たまらなく感銘を受けるところです。
利休は禅宗の勉強をして、生きて行くうえで最も大切なのは心の潤いであることが分かっています。
利休の言葉である有名な「一期一会」は、会った縁を大切に最大限にもてなすということです。
 茶事は手段であって最も大切なことは心を込めてもてなす。心の交流を第一義にしているのです。
 心の触れ合いによって、みんなが優しく心豊かに生きて行けるようにする。だから茶道なのです。
ところが秀吉は権力者でり、支配者で生い立ちからくる理念は力が一番という人です。
 利休とは根本的に理念が異なる人種ですから、力関係は秀吉の方が上ですから、利休は無碍には反抗できませんが、人間としてのあるべき姿の真理(仏教の教理)から外れている秀吉を心では蔑んでいたと言われています。
そんな秀吉に許しを請うという事は自身の理念信条を放棄してしまう事になる。
それだけは絶対に出来ない。そう考えて茶道の祖として命を賭して自身の理念と信条を守り抜いた。
私もお稽古事に携わる一人として、それが利休という人だと思っています。
権力にたしては媚びて迎合して行く人間が多い中で、武士や僧侶たちにも勝る潔さに感銘をしているのは私だけではないでしょう。
 吉田松陰は獄中で「私が世の中の為に何か出来るのであれば生きたい。そうでなければいつ死んでも構わない」と言っています。幕末には近代日本の礎を作るために自分の命を擲って多くの人が死んでいます。
 人間は遅かれ早かれ必ず死にます。ならば命よりも生きて何をすべきか。生きていたことの証を残すことが大切ではないでしょうか。
 政治家の先生方確りしてください。命を懸けて死んで名を残す人になってください。権力闘争に明け暮れる議員の姿を見ていて、先生方は自分では私は偉い賢いと思っておられるとおもうのですが、国民は馬鹿と違うか救いようがないわぁーと呆れていますよ。

2011年6月26日日曜日

我住まい近辺の風景





我住まいは右側に見える武庫川団地です
団地内は緑が多いし、周辺は武庫川あり甲子園浜ありで散歩が楽しくなります。散歩しながらデジカメをぶら下げて撮りました。
ここをクリックしていただければ動画が見れます

2011年6月25日土曜日

人生は登り坂(No19)


5年生からはクラブ活動が週一であります。
どのクラブに入るかを申告しなければいけません。私は田舎育ちで何にもわかりません。
隣の席の八田は珠算クラブに入るといいました。そいつは私が転校してきた時から優しくしてくれていましたので、自分も珠算クラブに入ろうと決めました。申告用紙に記入してからそのクラスメイトの用紙を見ますと、野球部と書いています。私はそれまでに一度も野球をやったことがないのですが、そいつと一緒のところに入りたいために慌てて野球部と書き直しました。
尼崎は今でも阪神フアンの多い土地です。私は田舎育ちで知りませんでしたが、その当時の男の子の遊びは野球が一番という土地柄でした。
土地柄とやや大げさに言いましたが、高石では野球なんかしている子供は一人もいませんでした。恐らく甲子園が近いことが大きく影響していたのだと思います。
尼崎では男の子の遊びは野球一辺倒と言っても過言ではありませんでしたので、野球部への入部希望者が多かったので入部テストがありました。
顧問の先生が5本ノックした球を捕球して、球を素早く返球する。もう一つは遠投です。
野球は全く初めてで、マイグローブを持っていませんでした。野球部にはキャッチャーミットとファーストミットは特殊ですから学校で備品として備えていましたので、そのグローブを借りてテストを受けました。
今でも忘れはしません。5本のノックの内3本はライナーでした。4~5歩動けば捕れるものでした。
1本はボテボテのゴロでした。1本はイージフライというやつでした。少しバックをすればなんなく捕れるものでした。
5本ともキャチできてスローイングもばっちりでした。
遠投は海に行って石ころをいかに遠くに投げるかを競ってよく遊んでいましたので、遠投も難なくこなせました。
初めて使用したグローブでしたが、手が大きくなるだけですから、これも旨く使いこなすことができました。
テストが終わってその場で入部合格が発表されました。私が合格してその友は不合格でした。
私は自分で望んで受けたテストでもないし、野球の面白さも知りませんのであまりうれしくはありませんでした。
それよりも野球部に入れば最低グローブとバットは必要です。そして運動靴もです。

2011年6月24日金曜日

家紋


 写真は私の家の家紋です。
柏に剣があしらっていますので剣柏と言います。
紋の起源は公家が牛車、また家具調度品、衣服に付けた文様に由来します。
飾りとして付けた文様がいつの間にかその家の所持品であることを表すようになり、その文様がその家の家名を象徴するように発展します。
 武家は戦場に用いる旗印です。紅白の色によって源平を区別したように、時代が進むと各大名が軍旗として定まった文様をつけるようになりそれが素襖、大紋にみられるように礼装の衣服に文様が付けられるようになります。
 小袖にも紋が付けられるようになるのは江戸時代の中期以降です。
宝暦(1751年~1764年)頃には一般の家でもだいたい紋があったと言われています。
 一般庶民が紋をもつように成るのは、礼服が武家が公服として用いていた紋付羽織袴を自分たちの礼装として取り入れたことが大きく起因しています。
 江戸時代には富裕な町民は紋付き羽織袴を礼装として着用しましたが、それは富裕層だけで貧しい階層の町人は礼服を所持していない者が大半でした。したがって紋も必要でなかったものが次第に文化が発展していき全般に広がっていきました。
 男性は各家に家紋というものがあってその家紋を用いますが、女性の場合はどうすべきかがよく問題視されます。
 現在は結婚をすれば女性は夫の姓になりますが、元来女性は実家の姓を名乗るもんでした。
婿入り婚の名残です。関西では紋も女性は実家の紋を付けるのが習わしで、現在も結婚式では実家の紋を付けるのが建前です。女性の紋は母系を継承するということです。
 結婚式は本来は男性を招く式であったからです。
但し結納で紋服料として仕度料を頂いた場合は相手方の紋服を用意するという事があります。
関東と関西の風習に少し異なりがあります。

2011年6月23日木曜日

まだいける紫陽花観賞 頼光寺ご紹介


兵庫県川西市東畦野2-17-2 
能勢電鉄畦野駅から徒歩10分です
拝観料 無料 駐車場有 無料

狭い境内ですが落ち着いた趣のあるお寺です。

・お寺紹介
頼光寺(らいこうじ)は源満仲公の夫人の法如尼が発願し、子の源賢僧都(幼名女丸)によって建てられたという清和源氏ゆかりのお寺です。
頼光寺が紫陽花寺と呼ばれるようになるのは、昭和49年に本堂を再建した時に、川西観光協会からアジサイを100株寄贈されたことにはじまり、今では500株の紫陽花が境内に所狭しと植えられ、季節には様々に多品種の紫陽花が咲いています。

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2011年6月22日水曜日

花の命はみじかくて


妻は花が大好きです。私も以前からよく花を見に行っていまして趣味が合いますので今年の春は沢山花の写真を撮りました。
写真の方は相も変わらず上達はしないのですが、沢山の花に接しました。
「花の命は短くて」という言葉がありますが、今年ほどその言葉をしみじみと感じたことはありません。
ハクモクレン、ホウノキ、オオヤマレンゲ、タイサンボク、シロユリ、クチナシ、カラー、カシハバアジサイの花、咲き初めは瑞々しく生の花にしか出ない聖なる白色で私達に微笑かけてくれます。しかしその微笑の期間はあまりにも短く、直ぐに色が汚く成り朽ち果てていきます。
春夏秋冬を生涯に例えて話されることが多いのですが、その輝いている期間はあまりにも短すぎます。
だからこそ多くの人に愛され惜しまれるのかもしれませんね。
人の命も朝露の如く消え去ると言われています。あっという間の短い人生ですから妙味があるのでしょうね。
必ず消え去っていくからこそ、ひと時でも輝いていたいともがくのですね。
私にはもうその輝きは発揮できることはないでしょうが、根っこが腐って完全に朽ち果てるまでは、来年もまたきれいな花を咲かせたい。そして皆さんを楽しませ輝きを持たなければという欲望だけは無くさないようにしたいものです。

2011年6月21日火曜日

羽織の起源の胴服(どうふく)


写真は「江」のドラマの一場面です。
上に着ているのは胴服と言います。
公家や武家の上級者が普段着として上に羽織っていた短い表着(うわぎ)です。
襟は半纏(はんてん)と同じ形をしていて袖は広袖に成っています。
広袖というのは袖口が袖幅いっぱいに空いている形です。
これが後の羽織に発展していき、武家の通常公服として着用されるように成ります。
江戸時代の中期以降になりますと富裕な町人たちも羽織を着装するようになります。
そして武家の羽織袴の通常公服を礼装として町人は用いるように用途が広がっていきます。
 江戸時代の中期以降は男子は町人も羽織を用いるようになりますが、奢侈に走るという事で女性は小袖の上に羽織を着装することは禁止されていました。
 女性が羽織を初めて着用したのは深川の芸者衆です。
幕府は市中の遊女の数を1000人と制限していました。
そこで深川の芸者は幇間(ほうかん)、即ち○○奴という男名を付けて御座敷にでました。
芸者に○○奴という名がつけられたのはその名残です。
幇間(男芸者)となって男性と同じように羽織を着てお座敷にでました。それが女性が羽織を着装したはじめだと言われています。一般女性に羽織が流布するのは明治になってからです。
 女性の間にも羽織着装が流布しますのと男性と同じように紋付きの羽織も表れます。
しかし女性の羽織姿はあくまでも略装であって、正式の場は帯付きというのが昔も今も変わりません。

2011年6月20日月曜日

三途の川


 冥途の旅に出て第一法廷の裁判が終わると次にたどりつくのは有名な三途の川です。
とうとうと流れる大河を向う岸に渡るのです。
川を渡るのに三通りあるところから三途の川と言われています。橋がかかっていますが渡れるのは善人だけです。悪人でも罪の浅い者は浅瀬を渡れますが、罪の深い人は急流の深いところを渡らなければいけません。
 室町時代になりまして渡し船が出来ました。六文渡せば死者は渡れるようになりました。昔は棺桶に六文入れたのですが現在は六文と印刷したものを入れます。
何故六文なのかという事ですが六道に因んでいるという事です。
 三途の川のほとりには賽の河原(さいのかわら)がありまして、川を渡れない死者がいます。
幼くして亡くなり冥途にやってきた子供達です。
「親に先立つ不孝」という言葉があります。逆縁の不幸とも言います。
仏教では親より先に冥途の旅に出て親に深い悲しみを負わせることは大きな罪であるとされています。
川を渡れない子供たちは供養の為に石を積んで塔を作ります。
 京都の嵯峨野のあだし野の念仏寺に行きますと西院の河原に参拝者が石を積んで塔を作ってある光景を見かけます。これは賽の河原の子供たちを供養するためです。
 賽の河原の子供たちは石を積んで塔を作るのですが、鬼がやってきて「こんな下手くそな塔では供養にならない」と壊してしまいます。際限なく塔づくりをさせられるのですが、その苦難を救ってくれるのがお地蔵さんであると言われています。

2011年6月19日日曜日

紫陽花


梅雨のどんよりとした空色に微笑みかける紫陽花
満面に咲き誇っているが豪華というよりも清楚で控えめに映る
花色は華やかというよりも粋な色目が多いので爽やかだが寂しさも感じる
緑の葉は瑞々しく花色を引き立てる
外気は汗ばむほどに暑くなってきているが眺めていると清涼感を覚えて落ち着く
花言葉は辛抱強い愛情ですがまさにその言葉にぴったりの力強さと清潔感がみなぎっている

色がついているのは「萼(がく)」で花はその中の小さな点のような部分。 しかし萼(がく)が目立つ花です。

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紫陽花

2011年6月18日土曜日

エンゲージ・リング


人類学者エドワード・ウエスタマークは「人間結婚史」で、腰の周りに巻いた布を男女がお互いの愛情の誓約として交換した。これが衣服の源であると説いています。
これがやがて指に結ぶリボンとなり、更に形を変えてエンゲージ・リングとなったと言っています。
 古代ギリシャでも愛情の表現はお互いにリボンを指に結びつけることで表しました。
それが髪に結ぶようになり、頭に戴いて月桂冠や花輪になり、それが現在のティアラにと発展していきました。
 愛情の心は結び付くという心境から結ぶという行為がなされそれが発展して行ったと思われます。
 結婚式では和装の場合は角隠しや髪飾りをつけます。
洋装の時はティアラを冠ります。
和装の場合でも現在はエンゲージリングの交換はありますが、それがなければ男性は何も付けませんね。

2011年6月17日金曜日

黄色い財布


よく世間一般には黄色い財布を持てば金運に恵まれると言われています。
何故黄色なのか。
これは大昔からの五行説から来ています。
五行説は中国の戦国時代に漢の時代に生まれたものです。
宇宙の現象や人間の運勢など全てを木、火、土、金、水の循環、消長により決定され支配されるという考え方です。
全てのものを五行説に当てはめ、あらゆるものを五つ一組にして考えます。
 大日経では五行の五色から黒を除いた青、黄、赤、白を顕色四色(けんしょくしじき)と言い、尊い色とされています。
 四色の順序の第一は白、第二は赤、第三は黄色、第四は青と定めています。
大日経は四種の修法があり色と方向が定められています。
それによりますと、

第一の白は、方向は北です。北は災いを息める、息災の祈祷には北を向きます。
第二は繁栄を祈祷する増益を祈る黄色で方角は東です。
第三は相愛を祈るもので敬愛の色は赤で方向は西です
第四は怒敵退散を祈る調伏には青で南

これを見れば黄色は繁栄と増益の色であることが分かります。
黄色は財を招く色というのはここから来ていると思います。

2011年6月16日木曜日

昔の手打ちパチンコ(人生の思い出No7の附則その一)


当時の阪神出屋敷の駅前は阪神工業地帯で工員さんや職人さんが多くて、繁栄していました。
駅前には駅を降りて直ぐにパチンコ屋がありました。
当時のパチンコ屋はパチンコ台の裏側には出玉を継ぎ足す為に女性が中に入っていました。
「おねーちゃん玉が出へん」とおがっているおっさんも多数いました。
パチンコの釘は先に行くほど末広がりに少し広がっています。台の上の方が少し手前に傾いてガラス寄りに玉が落ちる方が玉が釘に引っかからないで入りやすいのです。
昔の台は出玉を上の方に積んでいました。出玉を沢山積むと重たくなって、台の上の方が裏側に傾いて客からすれば不利な傾斜に成ります。
そこで「ねーちゃん上の玉を下ろせ」などという客もいました。それが頻繁になると裏に入っている姉さん方が忙しくなるので、姉さん方も負けてなくて「うるさいねー今下したやないの」などとやりあっていました。
その当時は玉一個づつを手で入れて打つ手打ちです。
掌に沢山の玉を乗せて親指で一個づつはじくようにして玉を入れて打つ人もいましたが、そういう玉の入れ方が出来ない人もいました。いずれも手打ちですから、玉を落とすことも多いのです。店内には結構玉が落ちています。その玉を拾って集めます。いくつか集めますと景品に換えれます。
タバコですと親から換えて来いと言われたと言えば言い訳が立ちますので、景品は必ず煙草に換えました。それを持って帰って親父に上げますと親父はニコニコして嬉しそうでした。
親父が喜んでくれるものですからよくパチンコ屋にいきました。
これも自分が親になってから思ったことですが、親というものは子供の教育のことを考えれば武士は食わねど爪楊枝、「そんなさもしいことはしてはいけない」と言わなければいけないのではないでしょうか。私の親父はパチンコ屋で玉を拾って換えてきたと分かっていても喜んでいました。こんな親だったこそ様々に社会勉強ができました。今となっては全て良い思い出です。

2011年6月14日火曜日

死出の旅を覗いてみましょう


日本人は亡くなれば大方の人は仏式で葬られると思います。
そこで今日は満中陰に付いて考えて見ます。
 仏教では死ねば六道(ろくどう)の世界に転生(てんしょう)すると言われています。
六道のどの世界に転生するかは前世の行いによって決まります。
 私達は死ぬと現世と来世の間にあるという中陰(ちゅういん=冥途ともいいます)を旅をしながら生前の行いに付いて裁きをうけます。
 旅の初めは死出の山を歩きます。死出の旅立ちをするなどと言われますがここからきています。
死出の山は大きな山です。写真のように岩がゴツゴツと突き出た山で、すそのを星の明かりだけで歩きつ続けて7日目に第一の法廷で裁判を受けます。
裁くのは秦広王(しんこうおう)です。
ここでは仏教の五戒をきちんと守ったかについて調べを受けます。
五戒とは
(1)殺生をするな
(2)盗みをするな
(3)邪?(じゃいん)に溺れるな
(4)嘘をつくな
(5)酒を飲むな
です。
 私などは2以外は全部戒律を犯していますので恐らく裁きは厳しいと覚悟をしています。
冥途の旅は7日ごとに裁判を受けて7回目(49日)で結審します。
6つの鳥居を指し示してこれを死者が選びことによって裁判は閉廷終了しますこれが満中陰です。
中陰の旅が満了するから満中陰なのです。知っておられましたか。

2011年6月13日月曜日

和服の襟合わせ左上前は何時から


写真は古代の男女の服装です。
男子は衣褌(きぬはかま)様式
女子は衣裳(きぬも)様式です。
女性の写真を見て頂ければわかりますが古代の襟合わせは左衽(さじん)です。
よく右前とか左前とか言います。前とは体に接する方という意味です。
衽(じん)も前と同じ意味で体に接する方のことです。
右前と言いますと右側が体に接する方で、左側が上に来る方です。きものは現在は左上前。即ち左側が上に来る打ち合わせです。
中国の万里の長城よりも北側に住む人を、胡人と言い、胡人が来ている服を胡服といいます。
胡人とはえびす人、即ち未開文化の人達で中国では野蛮人として扱っていました。
その胡人の衣服の打ち合わせは左前でした。
中国では野蛮な胡人が来ている衣服が左前でしたので、胡人と一緒であることを忌み嫌って衣服の打ち合わせを右前にせよと布告します。
その中国に倣って日本でも元正天皇養老3年(719年)に天下の百姓~国民に襟を右衽にせよという布告を出します。
それ以来和服の襟合わせは男女共に右前に打ち合わせるようになりました。

2011年6月12日日曜日

永沢寺の菖蒲園



娘が三田に住んでいます。2月に出産してまだ3か月ですが、毎日散歩に出かけているそうですから外に連れ出しても大丈夫だろうと考え、娘と孫を誘って一緒に行きました。
写真は私が孫を乗せてバギーを押している姿です。
可愛いですよ女の子です。あまり可愛いので前から写そうかと思ったのですが、孫は有料でしか見せれませんので情景だけをお見せします。
永沢寺は高地にありますので気温が低く、通常は6月に入れば菖蒲は咲くのですが寒いので中旬から下旬にかけてしか咲かないそうで、ちらほらとしか開花していませんでした。YouTubeで紹介していますようにおそばが食べれます。雲水そばというのですが、これは美味しかったです。
 永沢寺にお詣りをして帰路に着きましたが、途中で茶畑が沢山あります。
途中でお茶の製造販売しているところがありました。ちょうど緑茶を買いたかったので立ち寄って緑茶をかいました。製造者 母子茶加工組合で180gで550円でした。帰って早速呑みましたが最初に口に入れた時は苦みを感じますが、口の中に入れますと甘みがあってなかなか行けます。緑茶が180gで500円代は安いと思います。
料金を払いますと「今お茶を作っていますので見学していってください」と声を掛けてくださいました。
お言葉に甘えて見学させて頂きました。全行程機械で行っています。
 茶葉を先ず洗いますー次に蒸しますー乾燥させますー次に茶葉を揉みます。これも二種類の揉み機で揉んでいましたーそしたもう一度乾燥させてー最後に長さを揃えて粉を取り除きます、これで出来上がりです。
何でも同じですが作り上げられていく工程を見るのは新鮮な感じがしていいものです。
 花は少し残念でしたが楽しい一日でした。孫がみるみる大きくなっていきます。早く大きくなって動物園にでも一緒に行きたいですね。
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2011年6月10日金曜日

男の料理  山椒ちりめん



山椒は小粒でピリリット辛い。
山椒の辛さは大人の味ですね。
肉丼に山椒の粉を振り掛ければ風味が増します。
写真の山椒にはところどころに細かい小枝が付いたままですが、山椒は買ってきてそれをきれいに取り除くのが大変です。根気のいる作業で疲れましたが、美味しくそして安く上げるためには仕方がありませんので頑張りました。
 綺麗に実だけにしてからですが、先ずはきれいに洗ってから煮ます。
私はみりん、酒、濃口醤油をいれて水を入れ過ぎないようにして、実が柔らかくなるまで煮ます。
煮て密閉された容器に入れて保存しておけば永く日持ちがします。
 京都の清水寺に行きますと山椒ちりめんが有名です。山椒ちりめんは美味しいので見かければ買っていましたが、高いので自分で作ることにしました。
 ちりめんをフライパンに入れて弱火で少し炒って臭みを飛ばします。
次にみりん1.酒1、濃口醤油1の割合で混合した調味料と煮た山椒を入れます。生姜汁を少し入れると臭みが取れると思います。
沸騰したら弱火で調味料がなくなるまで煮ます。少し砂糖も入れますが砂糖を入れ過ぎるとちりめんがくっつきますのでみりんか蜂蜜で甘みを出した方がいいです。
冷ませばちりめん山椒の出来上がりです。
 このちりめん山椒を作っておけばそのまま食べても美味しいですし、これを古漬けの高菜を刻んでちりめん山椒と合わせて焼き飯を作れば最高です。

2011年6月9日木曜日

襟合わせ


小袖が衣服の中心になった桃山時代には正式には白の小袖、色の小袖、柄物の小袖と三枚重ねていました。
その着装方は写真に見られるように一枚づつ前合わせをして着装していました。
平和な時代が続きますと優美に成ってくるのは世の習いで、元禄頃になりますと丈が長くなって屋内では裾を引いて着装するようになります。
寛延年間(1748年~)になりますと更に丈が長くなったと文献にあります。
丈が長くなって裾を引くようになりますと着物を保護することと、裾さばきがしやすいように裾にふき綿がいれられるようになります。
裾が長く成って引きずって着装するようになりますと、一枚づつ別々に打ち合わせをして着装しますと足にからまって裾さばきがしにくくなりますので、写真に見られるように下着と表着を合わせて一緒に打ち合わせをするように着装方に変わってきます。
安永(1722年~)天明(1781年~)には二つ襟、三つ襟と重ねてきるようになったとあります。
裾を引いて着装するようになりますと反物の長さが長くなり、切ってしまっては勿体ないので長く仕立てるようになり、おはし折をして着装するように変わってきます。
反物の幅も裾引きの時代になりますと現在とほぼ同じような幅になり、身幅も狭く仕立てられるようになります。
身幅が狭くなると立膝で座りますと前がはだけて見苦しくなりますので座礼は正座が一般的になります。

2011年6月8日水曜日

経済か生命か


大阪府の橋下徹知事が原発の新規建設や稼働期間の延長をやめる方針を表明したことを受け、
高速増殖炉「もんじゅ」など原発3基が立地する福井県敦賀市の河瀬一治市長は2日の記者会見で、 「発言は、非常に残念。真意を問いたい」と述べ、橋下知事に会談を申し入れたことを明らかにした。
 河瀬市長は「(福井県の原発が)電気を送り、大阪の発展に貢献しているのは明らか」と反発している。
また「発言の当日(4月27日)に会談を要請したが、返事が来ていない」と述べ、連休明けにも再度、 会談を申し入れる方針。
 河瀬市長は4月の市長選で、「原発との共生」を掲げ、5選を果している。

河瀬市長や敦賀市民の思いは命の源泉である経済を重視されての発言であろうと思います。
この度の震災で妻や子供を失った人が沢山います。自分だけでない。多くの人が同じような被害に遭っているので、悲しみに打ちひしがれながらも、皆さん悲しみを必死でこらえて耐えています。
「家族さえいればいくらでもやり直せる」その家族がいないから生きて行く意欲が湧いてこないと嘆いておられます。
家族さえ元気でいてくれれば、生活なんか頑張ればどうにでもなるということです。
一番大切なのは生命です。
その国民の生命を守るのは政治家の一番の仕事です。命があって次に経済です。
その原理原則に則って考えてみれば、事故が生じれば大変な事態に陥る。そして事故は絶対に起きないという保障はない。その現実から鑑みれば原発の再考を提唱するのは政治家として当然のことであると私は思います。
 現実を顧みず単純思考で無責任に反対を唱える「お前は阿呆か」と言われそうですが、経済優先でなく生命優先の社会の仕組みを考えれば、先では原発依存を無くす方向に向かえばいいなと念じています。

2011年6月7日火曜日

大阪府議員削減嬉しいです


大阪府議員定数109から88に削減する削減案が「大阪維新の会」の多数で可決されました。
国会議員の数も多すぎる削減しろというのが国民大多数の意向です。
国も地方も議員の数が多すぎます。私達素人には政治のことは分かりませんが、同じ議員の中で削減すべきだという声が上がっているという事は、削減しても何の支障も生じないということを証明しています。
予算がない,予算をどうして捻出するかが重要な課題になっているのであれば、先ずは無駄なものを省くのが当たり前の事です。当たり前のことを実行しないから不信感を持たれるのです。
議員は口では様々に言いますが、自分たちが火の粉をかぶらなければいけないことは、なにやかやと理屈をつけて反対して引き延ばします。
その反対理由が例えば削減されれば、定数2以上の「複数区」に絞った候補者擁立で議席確保を続けてきた公明にとっては、定数2の選挙区のうち15選挙区が「1人区」となり、大幅な選挙戦略の見直しは避けられない。
そんな理由に府民や国民のことを思いやった心なんかかけらもありません。自分たちの勝手な都合だけなのです。
 大阪維新の会が少々乱暴なやり方でも押しきった。押しきることが府民や国民の為になるのですから、それに反対をすることは民意に反する行為でしょう。
民主党は議員削減すると公約をしながら手づかずに終わっています。
大阪維新の会の実行力が国全体の改革促進によい刺激となることを私は祈念しています。

2011年6月6日月曜日

下着重ね


礼装は男女共に下着を重ねて着装します。
重ね着のルーツは十二単に起因します。小袖が衣服の中心になるのは安土桃山時代です。
当時の正式な着装は十二単の着装に倣って、一番下には肌着用の白の小袖を着て、中には十二単の五衣に倣って色物の小袖を着て、一番上には十二単の表着(うわぎ)のように柄物の小袖を着装しました。
写真は打掛を着装しています。打掛は盛装ですから小袖も正式に白、色、柄物と三枚重ねて着ているのが分かると思います。
当時はまだ襦袢がありませんので白の小袖を肌着として着装していたのです。
襦袢が用いられるようになったのは元禄期頃からで、襦袢が着用されるようになってからも、肌着として用いてきた白小袖は省かれることなく、その白の小袖の下に襦袢を着用するようになりました。したがって江戸時代には高貴な人は下着を二領三領(りょう)重ねて着ていました。
 それが時代の推移と共に簡略化が進み、昔は普段着でも富裕な人は重ね着をしていたのですが、現在は留袖に見られるように礼装の時だけ下着を重ねて着るようになりました。
 衣更えは昔は更衣(こうい)と言い、公家社会では4月には夏物に、10月には夏物から冬物に衣服だけでなく家具調度品全てを更衣していました。公家社会の習慣がルーツとなって衣更えの習慣が広がっていったのですが、公家社会の更衣に見られるように礼服は薄物(うすもの)と袷しかありません。
そこで今で言う単の時期は袷を着て、下に着る下着を着ないようにして調整をして着装していました。
 中振袖には下着がついていません。そのために着装するときには重ね襟を付けて着装します。
あれは襟元を華美に装飾するためのものでなく、下着の襟だけをさも下着を着ているように見せるために重ねているのです。
下着は昔は季節によって重ねたり重ねなかったりしたものですから、。4月になれば本当は重ね襟はしない方がいいのですが、そういうことをご存じでない方は、華やかになりますからどうしても重ね襟を付けてほしいという人も少なくありません。
 留袖も6月9月に着る場合は下着は重ねない方がいいのですが、最近は殆ど比翼仕立になって、表着にくっ付けられていますのでそういう調節ができません。
きものの決まりに付いてご存じでない人が増えてきている現象ですね。

2011年6月4日土曜日

「江」の時代の肩衣袴と江戸時代後期の裃



武家の通常公服は直垂(したたれ)であったものが、素襖の袖が邪魔で肩で結んでいる写真に見られるよう
に、「江」の時代になりますと直垂系統の袖が取り除かれて肩衣袴が誕生します。肩衣袴は別名「手無し」などと呼ばれました。
江戸時代になり平和な時代が続きますと、衣服は形式化して華美になり、写真のように肩には鯨のひげを芯にして大きく横に張らしたものになります。まるで「鳥の羽を広げたたる如し」という肩衣になります。
前身頃は襞を深く取ってうんと狭くなります。袴はスカートのように末広がりになり、前時代のズボン状の形から一変します。
 肩衣袴の袴紐は当初は別布ですが、江戸時代の裃の時代には共紐になり、腰の部分には腰板が付けられるようになります。
 紋は当初から大紋、素襖と同じく胸と背と腰の部分とに付けられました。前時代には素襖のなごりで袴の横の投げの部分にも紋が付けられていたものもありましたが、江戸時代の裃の時代になりますと袴は後ろの腰板の部分にだけ付けられるようになります。
 江戸時代の裃の時代になりますと柄は細かい単色の小紋になります。
小紋には将軍家の「松葉」、島津家の「大小霰」、鍋島家の「胡麻」、武田家の「武田菱」、加賀前田家の「菊菱」など、他の者が用いてはいけない留柄というものも出来ます。
その裃の文様が後に江戸小紋としてきものの柄に用いられるようになります。
江戸小紋という名称は昭和29年に文化保護委員会が江戸時代の技術をそのままを受け継いでいる小紋型染を、無形文化財に指定するときに多彩な小紋と区別するために「江戸小紋」と名付けました。

2011年6月3日金曜日

結婚記念日



 昨日は結婚して初めての結婚記念日でした。
一昨年の8月に始めてデートをして昨年の6月に式を挙げました。
6月2日は彼女の誕生日ですから忘れことなくお祝いが出来るように、彼女の誕生日を結婚式の日に決めたわけです。
昨日は彼女と最初にデートをしたコースを辿って来ました。
最初のデートは梅田で映画を見に行きましたの、同じTOHOシネマに「パイレース・オブ・カビリアン生命の泉」を見に行きました。3Dは初めてでしたが迫力があってよかったです。
最初のデートは夏だったので曽根崎通りのミューヘンにビールを飲みに行きました。食事も同じミューヘンに行きビールを飲んで最初のデートの様子を語り合いました。
私達は出会い系サイトで知り合いました。お互いに第一印象が良かったのでとんとん拍子に前に進み、直ぐに結婚という事になりました。
私は67歳なのに60歳と年齢を詐称していました。そのことは物凄く怒られましたが、それも無事許して頂いて今に至っています。
終わりよければ全て良しといいます。人生の最後になってこんなに素晴らしい贈り物を戴いたことを二人して神に感謝しています。
出会いの仕掛けはあったとしても、こんなにトントン拍子に進むのは神の御導きとしか思えません。
お金は大切ですが、年を取ると仲の良い配偶者が存在することに勝るものはありません。
 若い時に結婚をして無難に結婚生活を送れて来ている人は、配偶者に対する感謝の気持ちを忘れている人が多いように思います。あなたは如何ですか。

2011年6月2日木曜日

「江」の時代の肩衣袴に付いて



写真は「江」に出てくる男性の服装です。
武家の服装は室町期に整備され、江戸時代になりますと身分によって明確に服制が整備されます。
大礼時には将軍はAの公家の衣冠束帯を着装する時もあります。
二条城には大政奉還の模様が人形で展示されており,将軍は衣冠束帯を着装しています。
将軍は公家の衣冠束帯を着装することはありますが、武家社会の大礼においては3位以上はBの直垂(したたれ)を着用します。4位は狩衣(かりぎぬ)です。5位(諸太夫しょたゆう)は大紋(だいもん)でお目見以上は布衣(ほい)お目見え以下は素襖(すおう)です・
写真Bの背の所に絹の白い紐が付いています。それは袖の裏に各一か所づつ、胸に各一か所付けられています。
それを「きくとじ」といいます。そして胸元には胸紐が付いています。直垂系統の服には「きくとじ」と胸紐が付けられているのが特徴です。
素襖の写真があります。「きくとじ」の付けられている背、胸、袖裏、袴の投げの部分、袴の腰の部分に紋が付けられています。大紋は素襖と全く同じ形で紋が付いていることも同じです。
異なるのは「きくとじ」が大紋は絹の紐ですが、素襖は革が付けられています。
 袴の紐は大紋は白の別布が付けられていますが素襖は共布であるところが異なります。
大紋、素襖には紋が付いています。江戸時代になりますと小袖にも紋が付けられるようになるのですが、その紋付のルーツは大紋です。
 直垂系の直垂、大紋、素襖の袖は一幅半の大袖です。写真Dでは素襖の袖が邪魔に成って肩で括っています。
お袖が大きくて邪魔になりますのでそのお袖を取っ払って出来たのが肩衣袴だと言われています。
「江」の時代になりますと直垂は大礼服として用いられるようになり、通常公服は肩衣袴が着用されるようになります。

2011年6月1日水曜日

仏教から来た言葉「乞食」


仏教語では「こつじき」と読みます。
食物を乞い求めて歩くこと、またその人のことを言います。
元来僧は物を生産する仕事の一切を禁じられていました。そこで人々の家を訪れ、鉢を捧げて施しを受けました。
これは出家した僧たちの生活手段であると同時に一つの修行でもありました。
また仏教を広めるという大切な目的にも適ったものでした。
これを「こじき」と読んだ場合は働こうとしない怠け者という意味になってしまいます。
人にすがって物をもらって生活をするという点では同じですが、その行動の基本にあるものは全く違います。
宮本武蔵の著者である吉川英治さんは本の中で僧と乞食の違いは、物乞いをするという事ではなんら変わらないが、根本的に異なることは理想を生きたか否かの違いだと書いておられます。
人の生きて行く根本目的は如何に心豊かに静安に生きて行くかということです。それを現実のものにするには欲望を消し去ることです。欲望を消滅させるには出家をする以外に術はありません。
僧の目的は人間として理想を生きるということですから吉川英治さんはそのように記されています。
本来出家する目的は理想を生きるということですが、僧も組織化され広大な寺院を維持していくには欲望を消し去るという事は難しいようで、俗化している僧も少なくないというのが現実です。