2009年10月26日月曜日

子供の教育 叱り方



象使いは手鉤で容赦なく叩きます。飼い主は怖いと象に思い込ませておかないと舐めて言うことを聞かないからです。
 人間も同じで親は怒れば怖いということを子供の心に焼き付けておかないと、舐めていうことを聞きません。
 人間も最初は野生のままですから、親が怒れば怖いという思わせる調教が必要です。
 その時期は、親にいくら怒られても、やはり親が一番好きで怒られても怒られても親にじゃれてくる時期があります。
 怒られても怒られても親になついてくる時期というのは可愛い時期ですから、親は怒るゼッシャーだけで、真に厳しく怒れない親がおおいのですが、その時期に親が怒れば子供が恐怖心を抱い暫くは震えが止まらないぐらいに、怒るときは蹴飛ばさなければいけません。
 蹴飛ばさなければいけないといっても、可愛い子供に行う愛の鞭ですから子供が怪我をしないように手加減することは可能でしょう。可能ですが手加減をしていることを悟られないように厳しくおこらなければいけません。
 その印象は子供が大きくなっても子供の心に焼き付いていますので、親の威厳は保てます。
 子供も小学校の4~5年生にもなりますと、善悪、成否の判別がつくようになってきて自立心が芽生えてきたから暴力を振るうと反発して反抗心ばかりが起こりますから、幼い時に親は怖いと印象付けをしておいて、そのくらいの年からは聞き役や相談役に回って暴力は振るわない方がいいと思います。
 何時までもこうしなさ「それは駄目」などと小言を言っている親も少なくありませんが、いくら小言を言っても子供は親の念仏を聞いているごとくで心に届いていません。
 大きくなれば自立心を養育する以外にありません。自立心というものは親が言い聞かせて育つというものではありません。
 黙って見守って親自身が自分の人生を充実される活躍をすることがたいせつです。夫婦もそうですが親子の関係でも、子供から見て尊敬できる親になることが子供の自立に大切な要因の一つであるとおもいます。
 幾つになっても親が傍で構って口うるさく言う親がいますが、それが高じて子供が親の顔を見るのも嫌ということになれば、成績どこころか、悪くすればぐれてしまいます。
 ぐれてしまっている子供は、親にその原因があることがほとんどで、特に母親とうまく行かない子供はぐれやすいので気をつけなければいけません。
ぐれている子供は母親に原因がある場合がおおいのです。

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kodomono

2009年10月20日火曜日

子供の教育 愛と躾



 親の子供に対する最大の愛情は、少しでも早くに自立した子供に養育して上げることです。
 自立にとって大切なのは、甘えさせて自我を主張することばかりの子供にしないことです。親の言いつけに従う躾が大切です。
 三つ子の魂百までと言いますように、躾は嬰児から幼児期までが一番大切です。
 嬰児は体の不調を泣いて知らせます。空腹を泣いて教えます。身辺の環境の変化を泣いて訴えます。そのように嬰児は泣くのが仕事ですから、泣けばそういう肝心なことだけを確認し対処しておけば、後はあまり構わない方が忍耐力や我慢が育ちます。
 泣けば可愛いからすぐに抱いてあやして構ってしまう。親に抱かれていれば安心して気持ちがいいので、構ってほしいから泣いて構ってくれることをねだります。嬰児でもそういう知恵は備わっているのです。そういうことを繰り返せば我慢や辛抱の出来ない子供に育って行きます。
 幼児期になるとお菓子屋やおもちゃ屋さんの店先で買ってほしいと泣いて駄々をこねている子供を見かけます。泣いて駄々を捏ねればこれまでは自分の欲求が叶えられて来たからです。
 レストランに行きますとジート座っておれなくて直ぐに周辺を走り回る子供がいます。他の客が不快ですから親を批判の目で見つめます。その目線に耐えかねて親は子供に「ジート座っていなさい」と怒ります。しかし、親が怒ってもこの程度と知っている子供は聞き入れません。
 子供は何故悪いのか理屈が分からないのですから、親の威嚇で制する以外にないのですが、親が舐められているから聞かないのです。そんな躾で良い子に育ちますか。
 甘やかされて育った子供は自己主張することばかりを覚えます。客観的にその場の雰囲気を感じ取って判断をするということが出来ない子供になります。
そういう子供に育ててしまう親は、私もそうでしたが優しく接することが愛だと勘違いしてしまっているのです。
 子供は自身でで善悪や正否を判別できるよういなる年頃までは、駄目なことをしたときは子供が恐怖心を抱いて震え上がるほどに、どついて蹴飛ばして怒らなければいけません。
 野生のままでは自己中になってしまうだけですから、親の威嚇と愛の鞭で調教をしていかなければいけないのです。
 色々と構って子供に接するよりも、あまり構わずにジート見守る方が親としてはつらいのです。辛くても子供のために辛くて難しい方を選択するのが本当の愛情ではないでしょうか。

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2009年10月16日金曜日

子供の教育親の錯覚



 子供に謝ったと前回書きました。
親の私が成育出来ていなかったのに、その段階では自信たっぷりに親役を務めていました。ある年齢に達したから子供に対する愛情はこれは違うということがわかったからです。
 自分では満足に親役を務めていましたが、子供の目線で見た場合に、これで本当に子供にとってベストの接し方なのか、愛情の注ぎ方なのかという点について間違っていたことがわかったのです。

 子供にとって一番大切なことは、自分のことは自分で出来る、自分の確かな足で自立して歩めるように、少しでも早く親が手助けをしてあげる。
それが最大に子供に対する愛情の注ぎ方だということに気付いたのです。

子供は社会からの預かりものという言葉があります。
私たちは社会という人の群れの中で共存して、不特定多数の人達に支えられて生かされています。
 生かされているという真理を理解できていない人も少なくないのですが、それは間違いのない真理です。
 その真理が分かれば子供は少しでも早くに自立をして、そして社会に送り出してやる。それが親の一番の役目なのです。
 子供自身は少しでも早くに自立して先ずは自分のことは自分で出来る子供になる。そして力のある人は大いにその力を発揮させて活躍して社会に貢献をする。
 そうすることが社会に奉仕しなさいという奉仕を強いるのではなく、自分の人生をより大きく充実させることになるからです。
社会は大きく貢献をした者には、大きな充実感という褒美をくれる。社会というのはそういう図式になっています。その方程式を少しでも早くに教えて上げることが親の役割です。
 そういうことをもっと早くにわかっていれば、もっとよい躾が出来たろうにと子供たちに申し訳なく思っています。

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2009年10月15日木曜日

木綿




  木綿の原産地はインドで紀元前2500年頃から栽培され棉織物が織られていたと文献にあります。
シルクロードを通って運ばれたインド木綿の軽やかさに古代ローマの人達はすっかり魅了され
「織られた空気」「流れる水」「夕べの雪」などと呼称して珍重したそうです。
 日本で木綿が織られるようになるのは天文・弘治(てんぶん・こうじ1532~1577年)の頃で桃山時代の末期には
河内・丹波・を中心に山城・摂津・和泉・播磨などで盛んに織られました。
 一般の衣料として普及するのは江戸時代の中期以降です。
それまでは麻が主流でしたが、江戸時代の後期になりますと麻に代わって木綿が広く用いられるようになります。
 それまでの麻は木綿よりも高級な夏の衣料として使用されるようになるという変遷をしていきます。
木綿が一般に広がるまでは、布団なんかなかったわけです。京都の藁ぶき屋根の集落に見学に行きますと
農家の寝室が残されています。
 5寸くらいの囲いが出来るように板の間を低くしてあり、そこにご座や藁をいっぱいに引き占めてその藁にもぐって寝たと言われています。
おそらく町家の人達も真綿で作ったかい巻きなどはなく、農家の人達と同じではなかったかと思います。
 そういう生活ですし、食料事情も良くなかったので、すぐに風邪を引き、風邪を引けば肺炎を併発して亡くなる人が多かったのです。
それが木綿が普及したことによって死亡率がうんと減ったと言われていあます。

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2009年10月13日火曜日

子供の教育




  エチカの鏡という番組を偶然見ました。
通称かよこ先生、久保田カヨ子先生と鹿児島で保育園の理事長をされている横峯先生が、子供の教育に付いて話をされている番組で、横峯先生のおっしゃっていることが全く同感だと感銘を受けましたので、おもわず見入ってしまいました。
 
 子供の教育で一番問題となるのは親の成育度なのです。
子供は社会の預かりものという言葉が昔にありましたが、その言葉の意味をどの程度親が実感として理解されているかという点が先ず問題なのです。

私も恥ずかしながら子供の成育にとって一番大切な時に、大人として親として成育出来ていなくて。ただただ子供が可愛い、愛おしいという愛情だけで育てましたので、学校の成績はあまり芳しくはありませんでした。
上の子供が中一で下の子供が小5の時に、個人懇談がありましたので私が先生に面会に行って話をしました。
 帰って子供に報告をするときに、子供の成績に付いて私は子供達に謝りました。
 将来の子供たちの夢に対して成績は大きな影響力を持っている。その成績が中の上当たりでいるのはお前たちの責任ではない。子供に対して真の愛情とはどうあるべきかをもっと早い時期にお父さんが理解できていれば、もっと良い成績の取れる子供に育てて上げることができた。それが出来なかったのは「お前たちの責任ではない、全てお父さんの責任だから気にしなくてよい」。今さら急に厳しくしても親子の関係に溝が入るだけだから。お前たちは自分の進む道を自分で自由につくれ、お前たちが決めたことには全面的に応援をすると言ってやりました。

 親としては何処の親でも人様に羨ましがられるような成績の良い子であって欲しいと願うのは当たり前ですが、親の私が拙かったのですから仕方がありません。
 横峯先生がおっしゃられることは今はよくわかります。全くその通りですが、ゲストに出ておてれた若いタレントさんなんかは、私には私のやり方があると考えておられて、結局は私のように可愛さに負けて甘やかせてしまうのだと思います。
もっと書きたいのですが文字数に限りがありますので次にします。

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2009年10月11日日曜日

生きるサイクル



人間の生きているサイクルは何も難しいものではなく・仕事すること
・遊ぶこと ・寝ることのサイクルでなりたっています。
 そのサイクルが正常に循環していれば健康で充実した人生を過ごせます。
それぞれに生きていくには大切ではありますが、その三つのなかで最も大切なのは仕事です。
 その理由の一つは、我々は自分の力で生きているわけではありませんので、健常者はそれぞれに頑張って仕事をして社会に報いる義務を担っているからです。
 私は仕事が楽しい生き甲斐だという生き方が出来ている人が一番幸せな人生を送っておられる方だと思っています。
 それが証拠に、アスリートで活躍している人、役者などを含めた芸術分野で活躍なさっている人、特別なライセンスを有して活躍しておられる人、会社の役員や自営業者の人たちなど皆さん活き活きと人生を送っておられます。
 お金は高い所に流れると言われていますように、活き活きと活躍されておられる人のところにはお金も流れて豊かな生活ができるという構図になっています。
 誰もがそういう生き方が出来るわけではありません。中には生活のために仕方がないから仕事をするという人も少なくありません。
そいう人はどうしても遊びが生きていく主になってしまいます。そういう生き方はお金はいくらあっても足りない、お金も入ってくるのが少ないという人生になってしまいますので仕事の大切さを認識することが重要です。

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2009年10月9日金曜日

二人仲良く墓場まで



 ここ何回かNHKが男と女の違いで取り上げていました、夫婦は何故仲良くやっていけないのかに付いて私見を述べさせて頂いています。
 結婚をしてそのまま夫婦生活を続けて来られた人達は、お互いに大切な存在であることは認識されておられても、人生に於いて最も幸せなことは、何時までも連れ合いと仲睦まじく生きて行くことであるというとこまでは、恐らく理解されていない人が多いのではないかと思います。
 斯く言う私も全く理解の出来ていない一人でございまして、自分の拙さから平成元年に離婚をして今も独り住まいをしています。独り住まいは本当に淋しいですよ。経験のない人は分からないでしょうね。
 男ですから若い時は自身の立場の確立を目指して懸命に頑張ります。
そうすることが妻にとっても家族にとっても重要であるから、特に妻は自分に対して最大の理解者であり協力者であるべきだと決めつけています。自分に対して奉仕者であるべき点に不足があれば情け容赦なく糾弾をします。
 また、自分を基準にして妻を推し量り鈍臭いことをしたり拙い言動があれば指摘しそれを糾弾します。
 何時からか妻を褒め称えることも、優しく労わることもなく、家族の下部的存在のように労働を課して行きます
 そんなことをしていればどんなに惚れて一緒になっても、七年も経てば相手の中身がすっかり分かってしまい、嫌で嫌で仕方がない。今すぐにでも出来ることなら別れてしまいたいと思うまでに至らなくても、一緒にいても楽しくないということになってしまうのは当然の成り行きです。
 人間は育ちの環境によって個々に異なった人格や人間性が備わっています。その異なった他人同士が一緒になるのです。惚れている間は拙いところを見せないように。相手が喜んでくれるようにと気遣いをして、相手に合わせようとしますが、そんなことは長続きしません。直ぐに本性が露呈して、欠点の指摘と糾弾のバトルが始まります。
 完璧な人間なんていません。みんな欠点を持っており異なった性格同志なのですから、結婚は大人としてそういうことを十分承知して、お互いに拙いところは補い合うというのが結婚であらなければ行けない筈です。
 それが出来なかった馬鹿者の一人が私です。何故それが出来ないのか。人間は自負心が物凄く強くて、自分は正しい、素晴らしい、偉いと思っているから、自分を軸に回転しなければ気が済まないのです。それに逆らう者は気に入らない、気に入らないからその点を指摘し糾弾してしまいます。
 そういうことが是正されない限り、人生最大の悦楽である夫婦仲良く手を握り会ってという楽しみを得ることは無理でしょう。
 今さらそんな楽しみを求めなくても、お金さえあれば他に楽しいことはいくらでもあるというのが、多くの人達の生き方なのでしょうね。

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2009年10月7日水曜日

濡れ落ち葉



  私はURの18階に住んでいます。
一日に何回エレベーターに乗るでしょうか。
エレベーターに乗り合わせますと女性は必ず挨拶をしてくれます。
そして昇りでは先に降りるときは必ず「お先に」と言って降りられます。
 それに対して男性は顔を合わせても会釈もしませんし、ほとんど声を掛け合わせるということはありません。
 女性は優しいです。例え上辺だけであっても近隣の人には声を掛け合った方が気持ちは晴れます。
 女子の方がうわてですね。
 男性は濡れ落ち葉と言われています。家でゴロゴロしているとうっとおしいので、濡れ落ち葉のごとく始末に悪いということでしょう。
 近くの公民館にいきますと、どのサークルも女性ばかりです。女性の方は何にでも積極的に参画するけれども、男性にはそういう勇気がありません。
当然のことながら寂しい人生になってしまいます。寂しいから酒やギャンブルに走ってしまう人が多いのです。
 私もサラリーマンの経験があります。
会社の同僚との付き合いは会社に在籍している間だけです。引退すれば友人としてつながりません。だから連れ合いを大切にしておかなければいけないのですが、それが理解できていません。
それまでに地域の活動に参加して積極的に人間関係を構築する努力をしていなければ、引退したら本当に寂しいことになるのですが、それも出来ないひとがほとんどです。
 子供は寄り付かない。女房はお父さんと一緒にいるよりも友達と旅行にでも行っている方が楽しく面白いといわれる存在になる。それはだれのせいでもありません。自分が駄目なのです。
男は偉そうにしていないでもっと女性の生き方を見習うべきですね。

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2009年10月6日火曜日

考え方



 
    芋と栗 君と供する 十三夜

 現在は日本女性といえども自分で着物が着れなくても恥ずかしいという時代ではありません。
 着物にも普段着から礼装までありますので、いつでも着る機会はあるのですが、ほとんどの人は着ません。着ないから、馴染みがないから着れないのですが、時によっては着なければいけない時もあります。その時のためにわざわざ着付のお稽古に行くのは合理的ではありません。
 そんな時は私共では出張をして留袖を3000円で着付けていますので、それを利用する方が合理的です。
 こんな時代にわざわざお稽古する限りは、思いついた時に何時でもきもののお洒落を楽しめるようにお稽古をすべきです。
 きもののお洒落を主目的にお稽古をする限りは、自分の姿を鏡に写して惚れ惚れとするくらいに上手な着装ができるようにならなければお稽古に行く意義がありません。
 上手の目標は教えて頂いている先生です。先生と肩を並べるところまでに至って上手にできるようになったといえます。
 そこまでに至るには血の出るような努力が必要です。着付けも例外ではありません。
 人は何かに取り組んで目標を掲げても、大方のひとは目標の手前で挫折してしまいます。だからやると決めたら先生を追い越すくらいに目標を高くもって臨まなければいけません。
 成果という形は目標を高く掲げて実践をした結果として実現するもので、精神の高揚が最も大切です。
 精神性の大切さを理解できずに「着付けぐら」という精神性の低い考えの人が少なくありません。それでは掲げた目標に絶対に達しません。
 キチットした考えと心の整理が大切なのですが、そんなことを考えようともしないで何かに取り組み、「着付けぐらい」と侮ってしまう。
人とは不思議な動物です。

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2009年10月5日月曜日

心の整理


 

着付けを習いに来る人の中には「着付けぐらい」という気持ちを持っておられる人が少なくありません。
 そういう皆さんの心が見えていましたので「着付けぐらいでいいのですよ」「ぐらいと蔑んでいる着付けぐらい直ぐに出来るようにしなければね」「ぐらいと蔑んでいるものにてこずって、何時までも出来ないようでは貴方はぐらい以下の人間になってしまうからね」と、随分と皮肉って手厳しく言いました。
 手厳しく言わなければ思考を変えようとしないからです。
それは「ぐらい」と侮っている人は絶対にきちっと出来ないから、出来るようにするには思考を変えて頂く以外に手だてがないからです。
 どんな技芸や技能でも下手、普通、上手とあります。これは次に述べますがお稽古に来たならば上手という域に達するまでに至らなければ、それまでの貴重な時間とお金が無駄になってしまうことが多いからです。
 上手になるにはどんなものでも一時は血の出るような苦労や努力が必要です。
 一芸に秀でた人は万事に優れていると言います。一芸に秀でた人はそのものを通して、どんなものでも難しく懸命な努力が必要であるということをよく分かっているから、他の事に取り組んでも最初から心して当たるからです。
 ところがそういうものを所持していない人は、そういう道理が理解出来ていなくて「そんなものぐらい、その気になったら」と安易に考えてしまっているから、「着付けぐらい」と侮ってしまうのです。
 そんな人でも皆さん「自分は賢い」とプライド一杯に持っておられます。
恥ずかしいですね。

2009年10月1日木曜日

男は女性を労わらなければ


 以前にNHKで男と女の違いに付いてシリーズで放映していました。
一回目は好きで一緒になったのにどうして嫌いになってしまうのかがテーマでした。
 多くの方はそんなことに特別意識を向けなくても、何の支障もなく生活が出来ておられるので、特別に取り上げて精査するほどの事柄ではないのではないかと感じておられる人も多いのではないかと思いますが、私は大変重要なテーマではないかと思います。
 何故ならば明日から生活して行くのに経済的に心配が無ければ、今すぐにでも離婚をしたいと考えておられる女性が物凄く多いからです。
 何故仲良くやって行けないのかを専門的に研究しておられる博士は、その原因は男性の方にあると言っていますが私も同感です。
 男は経済を担っていて立場的には大変に強い。外にでているから見識も広い。食べるためだけに働くのは大変辛いので、仕事を生甲斐として頑張るという向上心も一般的には女性よりも高い。趣味や娯楽においても、競争心を煽るスポーツやギャンブルが大好き。
 それに対して女性は家庭や近所、子供や子供絡みの学校といったように身近なものに関心を持たざるを得ないようになり、会話はどうしてもそちらの方に偏って行ってしまいます。
 夫婦であっても全く接点がないのです。接点がなくても男と女の交わりが頻繁にある時は幸せ感に浸っておれるのですが、それも遠のいて行きますと精神的な交流が主流になります。その精神面で共通する話題がなくなりますと、当然会話も途絶えがちになります。
 会話が無くなるだけではありません。夫婦といえども異なった人間なのですから、言動は自ずとことなります。異なるのは当たり前ですから優しく見守ってあげればいいのですが、自分よりも鈍臭い言動があると、親しさ故にそのことを指摘し糾弾します。
 それでも昔は女性は耐えて男性を立てて合わせなさいと教育されて来ましたが、現在は大事に大事に育てられてきていますので我慢辛抱ができませので直ぐに切れてしまいます。そういうことを延々と繰り返すのですから、次第に嫌に成っていくのは当然です。
 総合すれば専従している女性よりも、男性の方が視野も広く見識も高いのが一般的ですから、仲好く過ごすには男が努力して女性を労わって喜ばせてあげることが大切です。男の方に原因があるというのは、男の方が合わせる努力をしなければいけないのですが、それをする男は少ないのが現実です。 だからお父さんと一緒に行っても面白くないし、しんどいだけだから、お友達の方がいいということになってしまいます。
 会話が頻繁になくても生活に何の支障もないと思いますが、そんな人生が本当に楽しく幸せな人生だといえるでしょうか。もっと真剣に夫婦の在り方を考えるべきではないでしょうか。
 年老いて伴侶と一緒にいるのが楽しいという夫婦を拝見したいものです。今迄に見たことがありません。