2009年12月31日木曜日

ヤルヤル詐欺



光陰矢の如し、全く速い、一年は音速よりも早く過ぎ去っていく気分だ。

残された生命も少ない67才の貴重な一年もあっという間に終わろうとしています。今年の締め括りは民主党のヤルヤル詐欺でしょう。

 民主党は新しい政策の財源はあると言い切ってマニフェストをつくり国民に約束しました。仕分けという今迄にない行政を行い新しい風穴を空けてくれました。頑張っている姿は見られます。
 民主党びいきの人達はよくやっている、もう少し長い目で見てやろうと言う人もすくなくありません。でもそういう見方は甘いと私は思います。

 子供手当にしても財源は有ると言い切っていました。しかし無いので大幅な国債発行で実施します。
 地方にも負担を求めると言っています。無かったら借金をして行う。こんな政治なら誰でもやります。私だってやれますよ。皆様そう思いませんか。
 財源はある、何とかすると言い切って国民に約束をしました。しかし財源は無いので借金をし、暫定税率廃止を取り止め、高速道路の無料化も不可能です。

 結論としては思惑違いだった、勉強不足だったのです。それによって約束をほごにしなければいけなかったのです。これは真実でしょう。
 何故その事をきちっと国民に謝らないのですか。約束した事は出来なければあやまる。民主党は人気は4年もあるのですから、当初の思惑に外れたけれども任期満了までには必ずこういう国造りをしますからと弁明をすればいいのではないですか。
 努力していると主張するばかりで約束をほごにする姿は子供の教育上よろしくありません。そういう姿を見ていると自民党と何らかわりありません。
 結局政治家という職種の人間は誰がなってもそういうものだという事になり国民は全く希望が持てなくなってしまいます。
 民主党の政権はあらゆる点で最後の希望の星なのです。その事をよく認識して国民に希望のもてる政治というよりも人間性を発揮してほしいです。
 必ずや来年は希望の持てるものにしてほしい。
 何をやっても最後は人芸性が出て来ます。素晴らし人間性を発揮して下さい。

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2009年12月26日土曜日

無常



  水上勉先生は良寛という著書の中で般若心経に書かれている「色即是空」が仏教の基本だと書かれています。
 私の家は浄土真宗ですから般若心経は唱えません。他力と自力と相反するようにおもいますが、そんなことはありません。
 浄土真宗では
一期は夢ぞ 狂わんと 言えどもせんなき幻の 人の命は石火より
はやく消えゆく宿命なり われが先かや 人や先 朝の紅顔たちまちに
無常の風の吹きくれば ふたつの眼とく閉じて ただ白骨ぞ残りけぬ
ただ白骨ぞ残りけむ
と我々に無常を唱えて説教をいたします。
 大宇宙の摂理からすれば、私たちの命も含めて全てがあっという間に移り変わっていきます。色即是空の空とは、そういう無常のものに捉われるなという意味だそうです。
 瞬時に移り変わっていく無常のものに捉われるなということでは、自力も他力も仏教の基本は同じです。
 私たちは長生きしたい、賢くなりたい、金持ちになりたいと様々な色の世界に捉われます。捉われることによって様々に苦しみ悩みます。確かに捉われなければ心豊かに生きていけるのですが、欲深い我々凡人には無理なことです。
 無理なことですが色即是空の意味を知って己の心に問いかけていれば、少しは己の心を制御してくれます。
 私も昨年は脳腫瘍を患ってもうだめかと思いましたが、普段から最後というものを意識していましたので恐怖心は湧きませんでした。
 幸い何の後遺症もなく無事生還することができました。
もう少し頑張れという神のありがたい声だと思い、精一杯前向きに生きようと心を新たにしました。
 その一つの試みにパソコンが出来ませんでしたので、パソコンを勉強しました。パソコンを初めて一年と少しです。
 パソコンは奥が深くて我々年寄りには難しいです。まだまだ分からないことだらけですが、私のような者の意見でも発表できるありがたい機関ですから、遊びの具として用いるだけでなく少しでも人様の役に立てる用い方をしたいと頑張っています。

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2009年12月22日火曜日

死の直前


 臨死とは 現世と冥土 渡し船

 私はこれまでに3度死にかけたことがあります。
一度目は小学校6年生の時です。
 今は武庫川で泳ぐ人はいませんが、私たちの子供のころは武庫川は水泳場になっていて、多くの大人や子供が泳いでいました。
 武庫川は阪神の武庫川駅の北側~旧国道までの尼崎市側の川渕は深くなっています。その深間で妹が溺れていましたので助けに行って、私も妹に抱きつかれて身動きが出来なくなって一緒に溺れてしまいました。
 意識を回復した時は河川敷に寝かされていました。どこかのおじちゃんが助けてくれたと聞きました。
 溺れて死んで行く時は、皆さんはさぞ苦しいだろうとお思いになられると思うのですが、そんなことはありません。
 大きく一息水を飲み込みますと直ぐに意識はなくなり、分からなくなります。
 例えば、首つり自殺をする時でもさぞ苦しいだろうと思いますが、体重が首に掛った瞬間に、苦しいと感じる以前に意識はなくなります。
 高い所から飛び降りる時でも、どかんと地面に叩きつけられるまでに意識はなくなり、苦痛は感じないのではと思います。
 人は現世から直ぐに冥土に行くのではなく、現世~臨死状態~冥土~来世という順序になっており、臨死状態に陥れば苦痛は意識しなくなるのだとおもいます。
 そう考えれば末期癌などで亡くなる人は気の毒です。
現世の終盤に抗がん剤治療で苦しむだけ苦しんで、そして大抵のひとは助からずに臨死状態~冥土の旅につかなければいけません。
臨死状態になれば意識は朦朧として苦痛は感じなくなるのですが、それまでは家族の者でも、もう死なせてやって欲しいと思うほどに苦しみます。
 苦しんでも蘇って来ることが無ければ臨死状態になる前に、苦しまないで死ねる道を自分で選択できるようにして欲しいです。
 生きているという事は息をしているということではありません。
喜怒哀楽を感じることが出来なくなるという事は生きているという事ではありませんので死なせて欲しいのです。
 そんな状態で生きていても本人は勿論のこと。家族や社会に多大の迷惑をかけてしまいます。
 人は早かれ遅かれ死亡率は100%ですから、死に対する覚悟をしっかりと持って生きることが大切です。

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2009年12月19日土曜日

昨年のトップニュースは脳腫瘍


極楽を 彷彿させる 花やかた

 自身の昨年のトップニュースは脳腫瘍です。
高熱が出て三日間寝込みました。熱が下がって床から出ますと目が霞んでいます。
 知人は「白内障やろう」年を取れば誰もが成るからと言ってくれました。
自分もそうではないかと思い眼科に行きました。綿密に検査をして頂いて先生に呼ばれて診察室に入りました。
 「目はどうもない。これは脳腫瘍や間違いないと」と断言されました。
「えーまさかそんな」と思いましたがその段階では大きな動揺はありませんでした。
 今日は西宮協立病院は午後も診察をしている筈だから、紹介状を書くから今から行きなさいと言われました。
 病院に行くまでに「もしそうならどうしよう」と考えましたが大きなショックはありませんでした。
 CT撮影をしてその画像を見せられてがっかりです。10円玉くらいの丸い影が映っています。間違いなく癌ですといわれました。
 段取りとしてはMRI撮影をしてから具体的な手術の日取りを決めるということで帰宅しました。
 万悪くその月内に転居しなければいけない事情になっていましたので、家捜しをしなければいけません。引越しの準備をしなければいけません。入院の準備もしなければいけません。
 最近は個人情報漏洩防止で本人確認がうるさくなっているので、定期をそのままにしておけば引き出せなくなるかもしれませんので全て普通にしなければいけません。
 友達は協立はうまいから死ぬという事はないけれども、脳の場合は必ず手足や言語障害が出るから覚悟をしておけと教えられましたので、もし手足にまひが出て運転できなくなれば人の手を煩わせることになるので車を入院前に処分をしておかなければいけませ。
 何が幸か不幸かわかりません。入院までにやっておかなければいけないことが沢山ありましたので、病気に対する恐怖と言うもには忙しさで少しは軽減されました。
 それでも夜床に付けば、これからどうなるか。どうしてもそのことを考えてしまいます。
 一番怖かったのは死ぬことよりも、後遺症が出て人にその後の面倒を見てもらわなければいけなくなるのではということでした。
 それだったら殺してくれという気持ちでした。

 日本人は1200兆円もの個人資産を持っています。それを半分にするくらいに皆さん使えば景気は浮上するのですが、国民は絶対につかいません。
年老いて私のようなことになればどうしよう。そういうときの自己防衛に使わないで貯蓄に回しています。
 政治が貧困だかです。
 子供手当なんて言っていますが、そういうことをするよりも、若い人たちには働きやすい環境作りを確りしておいて、若い人たちよりも年老いてから何の心配もしなくてよい環境を作れば、貯蓄なんかしなくて皆さんお金を使います。
 何が恐怖かといえば、自分のことを自分で出来なくて、人に面倒を見てまらわなければいけないことです。
そういう恐怖を取り除くのが政治の課題の一つでしょう。

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2009年12月15日火曜日

生きる


吾もまた 紅葉のごとく 燃えて散れ

 自分は人に1000円のお金も借りたことが無い。自分の力で生きていると自負している人も少なくありません。
 親に産んでもらって育ててもらって、成人になれば自立するのは当たり前のことで、それだけで自慢できる様なものではありません。
 最近は幾つになっても親頼みで自立の出来ない子供が増えていますので、そういう人に比べればましという程度でしょう。
 歌舞伎の演目で親の獅子が子供を自立させるのに谷底に付き落とすという物語があります。
 親の最大の子供に対する役割は、少しでも早くしっかりと自立する子供に育てるということですが、子離れの出来ない親も最近では増えています。
 どんな動物も親から離れて自立することが自然の姿ですから、自立することは当たり前で、自立しているからといって、自分は人の世話になっていないと考えるのは拙いことです。

 家に帰ればスイッチを押せば明りが灯って快適な生活ができます。
蛇口を捻れば美味しい水が頂けます。
 そんな文化的な生活はどんなに力のある人でも独りの力ではできません。
人は社会という人の群れの中で支えられて自立出来ています。
 日本は経済大国ですから後進国に多額の援助をします。現状のように不景気で国内で困っている人が多いのに何故そこまでするのか疑問視する人も少なくありません。
 それでも援助をするのは、そういう貧しい国からも物をを買ってもらって支えられているから援助をします。
 国も国民も全ては支え合っているのです。完全自立なんかありません。それが真理ですから私たちは生きている限り感謝することを忘れてはいけないのです。感謝の気持ちの希薄な人は真の自立者ではありません。

 このままいけば近い将来は経済的には中国、インド、ブラジルなどに追い越されてアメリカや我が国は転落してしまうと言われています。
 それを食い止めるのは教育でしょう。根本的な精神教育が大切です。
もっと感謝する気持ちを教育によって育むことが大切です。
 強制的に義務的にやらされる勉強や仕事は苦痛しか生まれません。
感謝する気持ちを持って行う勉強や仕事は楽しくやれて、その分成果も上がります。何事も根本となるのは精神です。精神教育が最も大切です。
 豊かになって少し贅沢を覚えた今の日本人は感謝する心が希薄になってきています。これでは先は不幸になります。

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2009年12月12日土曜日

長寿


   なばなの里 ベゴニア館





 幸若舞の「敦盛」に「人間五十年下天の内にくらぶれば夢まぼろしのごとくなり一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」とあります。
 昔は医療も医薬も劣っていて、栄養条件も悪い。木綿が普及して布団が用いられるようになるのは江戸時代の中期以降ですから、それまでは一般庶民は何を着て寝ていたのでしょうか。
 百姓は藁の中に潜り込んで寝ていたと言われています。
一般庶民もおそらくは筵のようなものを被って寝ていたのでしょう。
現在と比較すれば生活環境が悪かったので、風邪をひくと肺炎を併発して亡くなる人が多く、50年も生きれば平均寿命を生き抜いたと言えたのでしょう。
 鶴は千年、亀は万年と言われ、長寿の象徴として崇められ吉祥として崇拝されて来ました。そのことに象徴されるように昔は如何に長生きするか。即ち長寿が人々の最高の願いであったわけです。
 今は寿命は80年の時代になり、昔の人達の夢が現実になりました。もうこれ以上の長寿は誰もが願っていないでしょう。
現在のように長寿になりますと、長く生きるということよりも、どういう内容で生きるかという生き方が問われるようになりました。
 長生きできる事はいいことだけど、生きる目的がなくなったり、人のお世話にならなければ生きて行けないようでは、早く死んだ方がよいと考える時代になりました。
 苦しまないで、人の手を煩わせることなく急死したいというのが現在人の最高の願いに変わってしまいました。
長寿が現実化すると長生きすることよりも、如何に楽に死ねるかという死が課題になりました。
 こんなことを言うと問題視されるかもしれませんが、末期のがん患者や認知症で全く判別の出来ない人などを拝見していますと、家族の人達でさえ、もうこれ以上本人も家族も苦しみたくないから逝かせてやって欲しいと願っている人も少なくありません。私もそう思います。
 生きていても苦しいだけの人は、本人か本人で判断の出来ない人は配偶者か家族の者の願出があれば逝かせて上げる法律はできないものでしょうか。
 私ももうこれでいいと思えば簡単に死を自分で選択して、一服飲めば逝ける薬が欲しいと願っている独りです。
寿命も自分で選択させてください。

2009年12月4日金曜日

西国33ヵ所巡り


西国23番札所 勝尾寺 千里中央~バスで30分 バス代480円

 夏に書写山に行ったのをきっかけに西国33ヵ所札所巡りを始めました。
昨年脳腫瘍を患い、後遺症によって運転が出来なくなるだろうと考え車を手放しました。バスと電車を利用しての巡礼ですから死ぬまでに回り切れるでしょうか。
 今回は2か所目になりますが、一回目はそれが目的で行ったわけではありませんので、厳密にはこれが初回の巡礼です。勝尾寺に行くことにしました。
 まだ紅葉が見れるかも知れないと思い、勝尾寺からは山中を歩いて箕面の滝まで回って来ました。
 箕面は思った通りに今が盛りと燃えていました。

 札所巡りを始めたのは信仰心によるものではありません。折角ですから御朱印張に御朱印を頂戴していますが、主は観光です。
 主の目的は観光ですが、お寺にお参りしますと気持ちが落ち着いて清々しい気分になり癒されます。これは何故でしょうか。
 お寺にお参りに行って悪いことをしてやろうと思う人はいないでしょう。
悪いことを企んでいるような人は最初からお寺になんかは行きません。
お寺にわざわざ出向いてお参りに行く人間は、特別に信仰心が無くても、神や祖先を敬い感謝する心を持っている人だから、その場に佇むとその人の有する善良な気持ちが心を支配して、清々しい気持ちになるのです。
 そういう現象は関係者に言わせれば神仏の霊力によるものだとおっしゃるとおもうのですが、そうではなく個々の心根の在り方によるものではないでしょうか。
 
 テレビなどではあの世に逝った人の霊と会話するというような、私に言わせれば実に馬鹿馬鹿しいことを、恥ずかしげもなく取り上げてやっています。
 あれは宗教や信仰ではなく好き勝手に占いをしているものでしょう。
当たるも八卦、当たらぬも八卦で当たると信じている人の気持ちがわかりません。世界では宗教戦争が各地で行われています。そういうものは人を惑わし不幸に導いても幸せにはなれないのです。
 
 私たちが生を受けて現実に今この世に存在しています。人生は怒哀ばかりではありません。必ず喜楽も味わっている筈です。喜怒哀楽を経験出来るのは生きているからです。それを思えば生きていることに感謝すべきです。何故なら人は自分の力だけでは絶対に生きて行けないからです。
 その感謝の気持ちを奉げる順序を考えてみれば、先ずは両親でしょう。
そして兄弟姉妹でしょう。そして祖先であり、私たちに生きる糧を与えてくれている偉大なる神々でしょう。そういうものに対して先ず感謝の祈りをすることが信仰の原点ではないでしょうか。
 この世は自分の力で生きているのではありません。それを分かればもっと宗教心を持たなければいけないのではないでしょうか。