2009年9月30日水曜日

年金


ススキゆれ さわやかなれど 淋しげに
 私の年金は当初より相当減額になりました。真面目に働いて国の定め通りに文句も言わずに年金を納めて、その結果生活保護者よりも少ないなんておかしいと皆さん思いませんか。
 定めの通りに納金した人には、基礎年金さえあれば生活保護者並に最低限の生活が出来なければ、なんのための年金なのでしょうか。
 年金で生活していけないのであれば、結局は自己責任で生活を維持していきなさいということですから、それならば全く自己責任にして、年金制度なんか廃止すればいいのです。
 年金を掛けていても、年金で生活できないのであれば、そんな年金なんか払いたくないという人が現れるのは当然のことです。 若い人達に年取って収入が無くなったらどうするのと聞けば、その時は憲法で最低限度の生活が保障されているのですから、生活保護を受けたらいいねんと平然として言います。
 これは施策の拙さが露呈している現象です。新政権は年金を最低7万円にすると言っています。少しでも上がることは歓迎ですが、そのために現在貰っているひとの年金を減額することは絶対にしないでください。現行で何とか食べているという人は物凄くいるからです。
 7万円では生活していけませんので年金は最低生活保護者並に支給すべきです。このことを皆で強く訴えて行こうではありませんか。
 お金の必要なことを言いますと「財源はどうするのですか」がうたい文句になっています。そういう議論を聞いていますと、言葉は汚いですが「馬鹿とちがうか」と言いたくなります。
 財源はどうするというのであれば、先ずは国会議員の数を減らす。そして議員は贅沢に国の金を使っていますが、一切の無駄を省く努力をする。例えば秘書が必要であれば自分の甲斐性で自腹で雇えばいいのです。
 昔は書生という人達がボランティアで手足となって動いたじゃないですか。 議員が先頭に立って一切の無駄を省き、それでも財源が必要であれば国民は喜んで税を負担します。それをしないで国民に負担をかけることばかりを行っているから、国民は馬鹿馬鹿しくなってそっぽを向いて、貯金という自己防衛に走ってしまうのです。そんな状態で内需拡大なんて言っても、誰がお金を使いますか。簡単な数式なのに政治家は分かっていないのです。
 恐らくそんな簡単な数式は分かっているでしょう。分かっていてもやらない、やれないというのは政治家の怠慢そのものでしょう。
 この度の選挙がいい例ではないですか。今迄やれなかったことを民主党がやると言ったからあれだけ大勝したのです。
 国民を舐めたらいかんよ。やると決めて実行してくれればそれに国民はちゃんと応えるのです。
 政治家は私利私欲を捨てて歴史に残るいい政治家になってください。 経済と医療面で安心のできる社会を構築してください。そうなればお金なんか貯めておく必要がないのですから、 増税大歓迎で応じます。

2009年9月28日月曜日

年金


 私の年金は当初より相当減額になりました。
真面目に働いて国の定め通りに文句も言わずに年金を納めて、その結果生活保護者よりも少ないなんておかしいと皆さん思いませんか。
 定めの通りに納金した人には、基礎年金さえあれば生活保護者並に最低限の生活が出来なければ、なんのための年金なのでしょうか。
 年金で生活していけないのであれば、結局は自己責任で生活を維持していきなさいということですから、それならば全く自己責任にして、年金制度なんか廃止すればいいのです。
 年金を掛けていても、年金で生活できないのであれば、そんな年金なんか払いたくないという人が現れるのは当然のことです。
 若い人達に年取って収入が無くなったらどうするのと聞けば、その時は憲法で最低限度の生活が保障されているのですから、生活保護を受けたらいいねんと平然として言います。
 これは施策の拙さが露呈している現象です。
 新政権は年金を最低7万円にすると言っています。少しでも上がることは歓迎ですが、そのために現在貰っているひとの年金を減額することは絶対にしないでください。
現行で何とか食べているという人は物凄くいるからです。
 7万円では生活していけませんので年金は最低生活保護者並に支給すべきです。このことを皆で強く訴えて行こうではありませんか。
 お金の必要なことを言いますと「財源はどうするのですか」がうたい文句になっています。そういう議論を聞いていますと、言葉は汚いですが「馬鹿とちがうか」と言いたくなります。
 財源はどうするというのであれば、先ずは国会議員の数を減らす。そして議員は贅沢に国の金を使っていますが、一切の無駄を省く努力をする。例えば秘書が必要であれば自分の甲斐性で自腹で雇えばいいのです。
 昔は書生という人達がボランティアで手足となって動いたじゃないですか。 議員が先頭に立って一切の無駄を省き、それでも財源が必要であれば国民は喜んで税を負担します。それをしないで国民に負担をかけることばかりを行っているから、国民は馬鹿馬鹿しくなってそっぽを向いて、貯金という自己防衛に走ってしまうのです。そんな状態で内需拡大なんて言っても、誰がお金を使いますか。簡単な数式なのに政治家は分かっていないのです。
 恐らくそんな簡単な数式は分かっているでしょう。分かっていてもやらない、やれないというのは政治家の怠慢そのものでしょう。
 この度の選挙がいい例ではないですか。今迄やれなかったことを民主党がやると言ったからあれだけ大勝したのです。
 国民を舐めたらいかんよ。やると決めて実行してくれればそれに国民はちゃんと応えるのです。
 政治家は私利私欲を捨てて歴史に残るいい政治家になってください。 経済と医療面で安心のできる社会を構築してください。そうなればお金なんか貯めておく必要がないのですから、 増税大歓迎で応じます。

2009年9月26日土曜日

夫婦


私は独り住まいですから朝は行きつけの喫茶店でモーニングを食べて朝食としています。
 朝の喫茶店にはこれからパートに出かける女性も多数おられます。
女性の会話で一番多いのはやはり夕食の内容に付いてです。「あんたとこ今日は何にするのん」とよく聞きます。「今日はうちは出張でいないし、子供も友達と外で食べてくると言っているから残りものですませるねん」「いいなぁーうちも一か月ぐらい出張で何処かに行ってくれたら楽なのになぁー。毎日決まった時間に帰って来るからしんどいわ」「亭主は元気で留守がいいと言うけどほんまやわぁー」「ほんまやなぁー、何もしないでドサット座っていられたらうっとおしいだけや」と返しています。
 私も長年女性ばかりを相手に仕事をしていましたので、多くの女性は旦那に不満を抱いていることは分かっていました。
 顔なじみで親しく会話が出来る関係ですから、「あんたらは旦那の悪口ばっかり言っているけど、そうなったのはどちらに原因があるのー」と聞きますと「そりゃ旦那にきまってるやん」と異口同音に答えが返ってきます。
 男なんて結婚をして暫くすると、感謝する気持ちや思い遣る気持ち、労わる気持ちはまったくなくなり、それだけでなく女性を馬鹿にしているところがあるからだと言います。
 男の仕事と比較したら家事なんか誰にでも出来る、そんな簡単なものはキチットやって当たり前と男は思っている。そして俺の働きがあるから生活が出来ている。だから女は男に対してもっと気遣うのが当たり前と思っている。 それを感じるから次第に一緒にいても面白くない。お金だけ持って帰ってくれたらいいねんということになるのだということです。
 男性側にも色々と言い分があるでしょうが、女性に対してそのように考えてている男が多いことは確かです。 女性達も旦那が頑張ってくれているから食べていけることは分かっています。 分かっていてもそれを恩着せがましく言われれば、私達女性の立場はどうなるのと主張したくなるのは当然です。 男は俺が働いているから生活できるのだと威張りますが、男に子供は産めません。 子供を産むという事は物凄いパワーがいると聞いています。それと旦那の仕事とを天秤に掛ければ女性の出産の方が重いかもしれません。
 大変な苦痛のもとに子供を産んでくれ、そしてその可愛い子供のために頑張れるのですから、男性はもっと女性に感謝し労わらなければいけないでしょう。 そういう感謝や労わりの気持ちが希薄だから、心が次第に離れて行き、明日から経済的に何の憂いも無ければ直ぐにでも別れたいと思っている女性が存在することになるのです。 そういう気持ちでいる女性が物凄いこといるという事実を男性たちは知っているのでしょうか。
 一度別れてしまえば、男は別れてもなお元気でいてくれたらいいなどと相手を気遣う面がありますが、女性は別れたとたんに死ねばいいと思っています。 それは男の方が優しいとか、女の方がきついというよりも女性が男性の横暴に如何に耐えてきたかという証です。 人生で一番幸せなことは幾つ何十になってもチャーミィーの洗剤のコマーシャルにあったように、手をつないで仲良よく人生を歩んで行くことです。
 それに勝る幸せはないことを理解されている人は少ないのです。

2009年9月25日金曜日

貴方はお金派それとも愛情派


 五十路も過ぎて連れ合いと一緒にいることが楽しい、幸せだというご夫婦を未だ見たことがありません。
 恋愛中や結婚当時は一緒にいるだけで楽しく幸せな気分であったのに何処に行ってしまったのでしょう。
 人は「慣れる」「忘れる」「飽きる」という性を有しています。これは本能です。この本能があるからどんなに苦しく辛い目にあっても、少しの間だけ耐えていれば必ず普通に生活が出来るようになります。生きて行くために不可欠のものですが、これが愛情にも関わってきて、慣れて、飽きて、当初の熱い気持ちを忘れて消滅させてしまいます。
 よく「あの人は情が深い」等と言いますが個々に罪はありません。人によって多少の長短はありますが恋愛感情は必ず消滅していきます。これは神様が人間をそのように作っていらっしゃるのですから仕方がありません。
 恋愛感情は必ず消滅しますが、そこからが夫婦の課題であり、個々の人間性が問われるところです。
 お風呂の湯も自然にまかせれば必ず冷めていきます。快適に入浴するには追い焚きをしなければいけません。それと同じで仲良く快適に生活をして行くには、相手に対して感謝する気持ち、労わる心、思い遣りという追い焚きをしなければいけないのです。それによって生涯楽しく暮らすことは可能なのですが、自己主張ばかりの応酬合戦になってしまうから、一緒にいても楽しくないということになってしまいます。
 そうなれば当然のことながらお金の方が大切ということになってしまいます。仕事も究極の目的はお金を稼ぐためで、趣味もお金さえあればどのようにでもなりますので、仕事も趣味も含めて健康の次に大切なのはお金という人も多くなります。
 私は独り住まいですから、毎晩お酒を睡眠薬代わりに飲んで何も考えないようにして眠ります。お金があればどんな高級なお酒でも飲めますが、そんな生活で幸せな筈がありません。私はお金は食べるに困らないだけあればよい。それよりも断然「愛」派です。

2009年9月24日木曜日

生きる


一度しかない命だから、充実した人生を歩みたいと願っている。
そのためにはお金は無視できない。しかし、お金は生家の実情という運命的なものや、個人の実力というものに大いに影響されるものだから、何ともし難いものがある。
 残されたものは仕事による自己実現と男女愛・家族愛しかない。俺は一度仕事でもそこそこ実績を残したのだが、俺の愚かさと拙さで今はそれを手放し、今は新しく立ち上げて頑張っているが商売はそんなにあまいものではないので、この年になってからでは難しいかもしれないが、俺は死ぬまでもがいてもがき続けるつもりだ。
 そのためには心の支えが必要だ。俺は一度離婚をしているから家族の支えは望めない。あとは男女愛だけだ。
 俺のような馬鹿者でもいいと言ってくれる人が現れた。俺はその人を生涯大切にする。
 俺のように何時も風波の荒い海で航海をする馬鹿もいるが、支えになってくれる人がいてくれる人がいるから前に進める。感謝で一杯だ。
 辛いこと、悲しいこと、嫌なこといっぱいある。でも今はその線上にあるのだから恨まないで前向きに頑張る。
 こんな爺でも頑張っているのだから若い人は負けないで頑張って欲しい。自分は何もしないで白馬にまたがった王子様が幸せを運んでくれることは絶対にない。

2009年9月19日土曜日

我が政治の理想


新しい政権が始動した。
 今はマニフェストを実行することに傾注している。これまでは様々な公約が実行されることなく、騙され続けてきた我々国民はこれで少しは変わるのではないかと期待感が持てる。
 しかし。マニフェストが実行されたとしても、必ずよくなるとは限らない。
 どういう世の中にするのがいいのか、我々が直接訴えていくしかない。政治の根本目的は平和で住みやすくそして豊かな国にして行く事だ。その根本に基づいて言えば、富める人は放っておいても死ぬことはないが、底辺の人は放っておけば死んでしまう。
 それを考えれば政治はもっと底辺の人達にまとを当てたものでなければいけない。真面目に勤めあげ年金を納めた人には、老後には最低限度生活保護者並の収入と医療を保障すべきだ。現状では食べていけないし不安が一杯だ。
 老後に生活の心配がなければ貯金をする必要がない。国民は1400兆金融資産を有しているのだから、心配がなければ使います。そうすれば内需が拡大します。
 底辺に厚く等と言いますと二言目には財源が言いますが、徹底して行革を行い、社会保障を充実させれば足りなければ国民は納得して増税になっても払います。 納得できないから増税などを口にすると反対をするのです。税負担を納得し、喜んで負担に応じられる国造りをして欲しい。このままだと俺達の孫達には何の希望も持てなくなってしまう。

2009年9月18日金曜日

吉祥文様


扇面
 扇面は末広とも言い、現在は末に広がるという事で吉兆の意味になぞらえ、縁起のよいものとされていますが、その源は檜扇です。
 扇は神の依代(よりしろ)のように、人間の性生命を聖なるものに化するシンボルでしたので、装飾品として持たれるようになりました。
 檜扇の流れをくむ扇は容儀を整える装飾品として、四季に関係なく持たれるようになりました。

2009年9月16日水曜日

達人イチロー


九年連続200本安打の達成おめでとうございます。
 以前はオリンピックの陸上競技に象徴されるように西欧人や黒人には身体能力において劣るとされ、野球においても全く歯が立たなかったものが、アメリカにおいて偉業を達成させたことは、日本人として本当に嬉しく、イチローには何故かしら感謝したい気持ちです。
 打撃においての物凄さは周知の通りですが、12日の試合で守備の物凄さに驚嘆いたしました。
 1回裏ノーアウト2塁の時に次打者が大きなライトフライを打ちました。イチローは追います。ところがフェンスの大分手前で追うのをやめて、2塁ランナーを見ました。その姿はいかにもフライを捕球出来ると言わんばかりの振り返り方です。
 球はイチローの頭上を大きく越えてフェンス直撃です。その球はワンバンドしてイチローのところに帰ってきました。
 最後まで追っていれば2塁ランナーは楽々の生還です。イチローに牽制されたために動けずランナーはそのままで1塁2塁です。
 それを見ていて大昔の剣豪を見ているようでした。冷静なよみと動きときれにはうなってしまいました。凄いです。
 政治家の先生方どうか見習って下さい。天才が努力すればあそこまでなれるのです。 イチローに少しでも近づく努力をしてください。今年のオフには国民栄誉賞を上げてください。

2009年9月15日火曜日

吉祥文様


菊水文様
 重陽の節会が始まったのは平城天皇の大同二年(807年)です。
しかも当日の宣命のなかに節会再興の思し召しが述べられていますので、これ以前から行われていたものと思われます。
菊花は神仙にいう長寿の瑞草隠逸{ずいそういんいつ(菊の異称)}の君子とされ、また日精と呼ばれ、太陽の精気含んだ花とされ、百草の王とも言われています。
菊花は人間の身体を軽くして精気を増し、更に人を健康にするという効果があると言われています。
菊を浸した水は生命の水、不老長生の水であり、菊に水を配して瑞祥の文様とするのは、全てこの話から生まれたものです。
織文としての菊は鎌倉時代以降で、後鳥羽天皇をはじめとする仙洞の御紋でした。菊の紋章は明治二年八月に十六弁八重菊を皇室の御紋章と定め、皇族は十四弁単裏菊をもって定め、皇室以外の使用は禁止されました。

2009年9月14日月曜日

優しさは人生を豊かにする

前から自転車が来た。このままだと当りそうだから慌てて右に進路を変更。すると相手も左に変更。あわてて左に変更。すると相手も右に変更して衝突寸前で止まった。
 私は軽く会釈をしたが相手は鬼面のような顔をして怒って去った。

 前から高校生が自転車で狭い歩道二列で話しながら幾重にも成って走ってくる。対面で歩いている私達はこのままでは通れない。目前に来れば避けて道を明けてくれるだろうと思っていたが、避ける様子がないので私達歩行者の大人達が逃げるようにして慌てて道を明ける。
 昔は年長者や目上の人を敬い、そういう場合は歳下の人が道を明けるというのが常識だったが、そういうモラルは消滅しようとしている。
 目上の人を敬い、弱気を助け強気を挫くという気概はない。人のやめに優しくするというのは親切だけの強要や押し売りをしているわけだはない。
 人に優しく気配りができるという事は人のためでなく、自分の人生の充実に欠くことのできない要素だからです。 そういう関連性が理解出来ない人が増えている。親や学校の先生はそこまで分かって教育やしつけをしているのだろうか。最近の子供をみとぃると疑ってしまう。

おすすめリンク着付名人http://kitukemeijin.jp/index.html

動画の着付け

2009年9月12日土曜日

きものと帯の調和・格式の統一


着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
 その内で・格式の統一・材質の統一は約束事ですから守らなければいけません。
 フォーマルは間違うことはないとおもいますが、問題は外出着と街着です。
 外出着というのは御挨拶やお礼に他家を訪れる時に儀礼の意味を込めて着る服です。街着は買い物や散策観劇の時に着るお洒落着です。
 外国ではオペラやクラシックの演奏会に行く時は礼装もしくは盛装です。それと同じで日本でも歌舞伎や社中の会では盛装が常識です。
 外出着は染めの着物です。染めの着物のときは、帯も様々な色糸や金糸、銀糸、箔糸などを使用して織った帯を組み合わせるのが約束事です。
 お洒落着の代表は紬ですが、紬は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を組み合わせるというのが約束事になっています。染めのきものをお洒落着として使用することは間違いではありません。逆に紬などは外出着として利用できません。御正月に男性は大島を晴れ着のように着る人がいますが、それはまちがいです。
 上図に染と織のきもの両方に染め帯を組み合わせてあります。江戸時代のならわしをそのまま踏襲して、染帯は染め織両方に締めてもいいことになっています。

2009年9月10日木曜日

年齢詐称


 彼女に年齢を詐称していることを言わなければ俺の愛は虚偽になってしまう。
 思い切って言いました。彼女は大変怒りました。
 そりゃそうです。 俺らの年齢になれば5歳の差異は物凄く影響します。
 最初から嘘を付いていたということは、最初から遊びのつもりであったのだろうとも彼女は言いました。年齢のことよりもそのことが許せなかったようです。
 俺には何の弁解の余地もない立場ですが最初から遊びであったのだろうということには、それは違うからと弁明をしました。
 付き合っても好きでない人に対しては、詐称していることを告白する必要はありません。好きになれば行ったらいいわと安易に考えていあたのです。
 だけど一目惚れ状態で好きになってしまった。  好きでなければ何でも言えるから、そのまま隠していると負い目を感じるから近々に言うつもりでした。それがあまりにも好きになってしまうの早すぎたのです。
 秘め事があっても好きになってしまえば、言えば嫌われるのではないかと思い、なかなか言い出せないという事はあるでしょう。 他意はない、そういう状態に陥ってしまったのです。
 遊びだったら隠し通します。非常に曲がった告白ですが、嫌われるのを覚悟で告白をしたという事は、大切におもっているからで、それこそが愛の告白と違うかといいました。 やっと彼女は分かってくれました。嬉しいです。

2009年9月9日水曜日

男のサアウナー


スポーツクラブのサウナーに入りますと、皆さん股を開いて一物をこれ見よがしにしています。いくら男同志でも醜いです。
 日本では竹は節操の象徴とされています。竹は正しく節を有しているからです。
人間の間という意味は、私の勝手な解釈ですが竹のように正しい節、即ち節操という意味ではないかと以前から思っています。
 人と言えば物体の呼称ですが、人間というのは社会人としての人格を有している人達という意味ではないでしょうか。
 人間の生きて行く目的は各自の幸せ充実です。そのために最も大切なのはお金ではなく人間関係です。
 その人間関係を円滑に楽しいものにして行くには節操というのが最も大切ですから、
正しい節と節の間という意味での間ということではないでしょうか。
 汚い一物なんか誰も見たくないのですから、慎み深く隠そうね。それも節操でしょう。

2009年9月8日火曜日

吉祥文様


宝尽くし
 宝物を集めた文様で、福徳を招く文様として喜ばれている。
 如意宝珠(にょいほうじゅ)、宝鑰{ほうやく(鍵)}、打出の小槌(こづち)、
 金嚢{金能(袋)},隠蓑(かくれみの)、隠笠、丁子(ちょうじ)、輪違い(七宝)
 などを散らします。
七福人
 江戸時代に福徳をもたらせるという信仰が盛んで、新年の初めに宝船に七福人を
 描き、七福神巡りを行うようになりました。
 恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天,福禄寿,寿老人、布袋和尚の七人の神仙を
 言います。

kiti

2009年9月7日月曜日

吉祥文様


 吉祥文様とは「よいしるし、めでたいしるし」の意味で、それを表現した文様を総称して吉祥文様と言います。
・三寒三友(さんかんさんゆう)
 松・竹・梅を三寒三友と言います。 冬の寒さに耐えて育つところから、艱難辛苦に耐えて生育するという意味で、吉祥文様としては最高位を与えられ て、祝賀の時は必ず用いられています。・四君子(しくんし) 四君子は梅・竹・菊・蘭の四種を言います。
 高潔のことが君子のようだという意味で付けられた名です。 蘭は美しく、蘭気(香り)がすがすがしくさっぱりとした香気なので、君子になぞられています。
 竹は四季緑を変えず、その成長と繁殖の目覚ましい活力、不思議な中空の幹の形態などによって、霊的なもの 或いは神性なものとみなされていました。
 重要な神霊の依代(よりしろ)として、また招代(おぎしろ)として現在も欠くべからざる植物とされ、地鎮祭・七夕 祭りの主役として使用されています。
 中国では瑞鳥の鳳凰が桐の木に宿り、竹の実を食べて成長するという、いわば慶寿の植物とされてきました。
 さらに竹が節を正しく持するため、節操の正しいものの代表として梅・蘭・菊と共に四君子の一つに数えられ こうした考えが松・梅・と結びついて歳寒三友、松竹梅の観念を生み出し、広く一般に知られるようになりました。
 宝尽くしと七福人は次回に回します。

2009年9月4日金曜日

模様の由来


 模様には地名を表したものがあります。
・近江八景
 中国の景色のよい名所を真似て近江の国の琵琶湖付近の・比良の暮雪(ぼせつ=暮れに見る比良の雪)・矢橋 (やばせ)の帰帆(きはん)・石山の名月・瀬田の夕照・三井の晩鐘・堅田の落雁・粟津の晴嵐・唐崎の夜雨 を近江八景と言います。
・武蔵野文様
 武蔵野は関東平野の西にある平らな台地をいいます。 山らしい山もなく、月は草より出でて草にはいるといわれ、その趣のある風景を取り入れた文様です
・八ツ橋文様
 八ツ橋は愛知県にある地名です。 かきつばたの名所で、在原業平が歌を詠んだ地として知られています。 川の流れに折れ折れにつながった橋とかきつばたを配した情景を、尾形光琳が「八ツ橋蒔絵硯箱」として作りまし た。それが有名になり意匠として用いられるようになりました。
・洛中洛外図
 安土桃山時代を中心に流行した屏風絵の一つです 京都の内外に皇居、幕府、社寺、邸宅、住居、商店などが並び、沢山の民衆が起居していた都会の生活の繁栄 の様子を描いたものです。 名所を中心に庶民の生活や様々な職人の生活を描き出します。

moyouno

2009年9月3日木曜日

きものと帯の調和


着物と帯を組み合わせる時には・格式の統一 ・材質の統一・色の調和 ・柄の調和の四点を考えなければいけません。
 その内で・格式の統一・材質の統一は約束事ですから守らなければいけません。
 フォーマルは間違うことはないとおもいますが、問題は外出着と街着です。
 外出着というのは御挨拶やお礼に他家を訪れる時に儀礼の意味を込めて着る服です。街着は買い物や散策観劇の時に着るお洒落着です。
 外国ではオペラやクラシックの演奏会に行く時は礼装もしくは盛装です。それと同じで日本でも歌舞伎や社中の会では盛装が常識です。
 外出着は染めの着物です。染めの着物のときは、帯も様々な色糸や金糸、銀糸、箔糸などを使用して織った帯を組み合わせるのが約束事です。
 お洒落着の代表は紬ですが、紬は副蚕糸を使用していますので、帯も副蚕糸を使用して織った帯を組み合わせるというのが約束事になっています。染めのきものをお洒落着として使用することは間違いではありません。逆に紬などは外出着として利用できません。
 御正月に男性は大島を晴れ着のように着る人がいますが、それはまちがいです。 上図に染と織のきもの両方に染め帯を組み合わせてあります。江戸時代のならわしをそのまま踏襲して、染帯は染め織両方に締めてもいいことになっています。

2009年9月2日水曜日

模様の由来


 古代には事ある毎に女は鬘(かつら=草花で髪を飾る)を巻きました。それを桂とも書きます。
 頭に巻くターバン鉢巻のことです。この鉢巻のルーツは挿頭花(かんざし)で、花の生命力を自分の身体に付けることによって、元気になり幸せになるという生命触れ合いの信仰からきています。
 人も自然の一部ですから自然と調和して、自然のサイクルと生命のサイクルが一致していれば健康で幸せになれるという信仰から、自然のものを身に付けて生命力を得ようとしました。
 生の植物を装身具にすることから発して、それがべっ甲、珊瑚、金銀にとってかわるようになり、植物は衣服の文様として用いられるようになりました。
 和服の模様は健康で幸せになれるという信仰からはじまっていますので、すべての模様は吉祥につながっています。
 昔の人はそういう事については造詣が深く、人の交わりを大切にしましたので、和装に付いても約束事をきちっと守りました。
 例えば、留袖の時の襦袢の色は白色と決まっています。喪服の時の襦袢の色も白色という約束事になっています。
 留袖も喪服も同じ白色ですから、最近の人は色だけを取り上げて留袖にも喪服の時にも兼用できるように綸子の白の襦袢を用意されていて、それをどちらにも着ておられる人がほとんどです。そしてそれで正しいと思っておられる人がほとんどですが、それは本当は正しい着装ではありません。
 地模様のあるもの、即ち模様は全て吉祥につながるものですから、昔の人は同じ白でも、喪服の場合は羽二重か縮緬の無文の生地で仕立てたのです。それをきちっと守らなければ、喪服を着ても意味がないのです。
 そういう細やかな心使いを怠らないのが本来の日本人の美意識です。欧米の文化が横行しだしてから、日本人の美意識も変わってしまいました。良いものはドンドン取り入れてもいいですが、日本古来の良い面を捨て去ってしまっているようにおもいます。差し引きマイナスという面が多く目に付くようになっていることが残念です。

2009年9月1日火曜日

流れ


時は流れ そして人生もとどまることなく進む
時は悠久に流れるが 人生の流れは止まりやがて忘れられて行く
それは仕方のないことだが あいつが生きている間だけは
あいつの中に留まってさえいれば 俺は幸せだったと言える
 
 俺は小五の時に新聞配達をさせてくれと頼みに言った。配達は中学からでないとさせられないと断られた。俺の頼みが切実だったので、配達はさせられないが売る方だったらさせてやると言って働き始めた。
 その時から俺はずーとずーと今も懸命に働いている。働くのが嫌で言っているのではない。納得して頑張って来た。辛いことや嫌のことは山ほどあった。
 人を愛し、そして捨てられ、また裏切った時もあった。憎み恨み、そして恨まれ憎まれた時もあった。だけどそういうことがあったからこそ、新しい人生のページが始まることは確かだ。
 どんなに苦しみ、嘆き、恨みを抱いていても。新しい人生のページはその線上にしか開かない。
新しいページは忌まわしい過去の線上にしか開かないのだから、憎んだり恨んだりしないでむしろ感謝するようにしようと今は思う。
 俺も昨年は死にかけた。その前には辛いこと嫌のこともあった。だけど今新しいページが開かれようとしている。
過去のページがあるから、新しいページが開かれようとしているのだから、過去は忘れて新しいページを楽しい紙面にすることだけを考えて生涯を終えたいと思っている。
 新しいページを開いてくれたあの人にこのページを捧げたい。ありがとう。