2010年2月27日土曜日
関東と関西人の違い
何処にでも様々な人間がいて全てがそうであるとは言えませんが、一般論としては確かに関東と関西人との違いはあるように思えます。
江戸小紋というきものがあります。一色染の模様は白抜きの細かい文様です。一色染ですから見ようによっては地味ですが、見ようによっては品よくきりっとした粋さの感じるきものです。
江戸の人はこういう一見地味ですが粋でもある雰囲気のきものを好まれます。
江戸の粋に対して京阪の「はんなり」という美意識がありますように、京阪の人は派手好みです。
留袖の文様は江戸褄文様と言う裾模様ですが、関東は上部は無地で裾にだけ柄を配しています。それに対して京阪では島原文様と言いました肩や袖にもある裾模様が好まれました。
関東では小劇場を含めて大小の演劇用の劇場がありますが、関西では新劇などのシリアスな芝居を催す劇場は客が入らずに直ぐに閉鎖してしまいます。関西はお笑いの劇場ばかりが栄えています。
これも関東人と関西人の気質が現れている現象です。
これらの美意識のずれは良否に関係はないのですが、これらはどうでしょうか。
信号待ちをしていますと、進行する対面の信号機を見ないで交錯している方の信号機を見ていて赤になったら123のタイミングで信号が変わらないうちに大阪の人は動き出しています。黄色の信号は急いで渡れという感覚でとらえていますね。
朝のラッシュ時の列車の乗降も私はサラリーマン時代に経験をしています。列車が到着するまでは割り込んだりすると文句を言われるかも知れないという思いがありますので、おとなしく並んでいますが、ドアが開いて降りる人の目処が立てば一度に裂は崩れて押し合いになってしまします。
知り合いの女性が荷物があるので座りたいから次の車両にしようとおもい、一両は見送って次の車両を最前部で待っていました。列車が着てドアが開いて乗り始めると、後ろから押されて反対側のドアの所まで飛ばされて座れるどころではなかったと笑って話していました。
関東にはサラリーマン時代に何カ月か出張で行ってラッシュ時の通勤の経験がありますが、整然と並んでいたように記憶しています。
関西人はいらちでセッカチなのでしょうか。
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2010年2月26日金曜日
礼装用と喪服用襦袢
文様の意味合いは江戸時代の中ごろまでは季節感と吉祥でした。
季節感は季節の花卉を愛でるというよりも大自然の偉大なる力にあやかるという信仰的意味合いが強かったのです。
そのことで分かるように文様は大自然の一要素ですから全ては吉祥です。
したがって喪服等の時は文様のない無地の羽二重か庶民は縮緬を用いました。
婚礼の白無垢などの裂地は地模様のあるものを用いました。これは襦袢も同じで礼装の時は地文様のある白色の襦袢を用いて、喪服の時は無地の白色の襦袢を着ていました。
そうすることが礼儀作法なのです。
最近は留袖の時も喪服の時も色は白色という約束になっていますので、色目はよく目立ちますので色だけは約束事を守っておられますが、地模様に付いては無視をして吉凶どちらも綸子の地模様のある襦袢を使用される人がほとんどになっています。
これは無視をするというよりも、無地のものと地模様のあるものとの意味合いをご存じでないからだと思います。
文様は大自然の一現象ですから全てお目出度いものですから、凶事の時は使いません、
草履もお目出度い時は錦の織物ですが、喪服の時は無文のものです。
いまだに縁起を担ぐ人や礼儀を重んじる人が少なくありませんが、そういうことをきちっと守ってこそ礼儀に適っているということを忘れてはいけないと思います。
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2010年2月25日木曜日
男の料理 なます
お正月には必ず作ります。
冬大根の風味を味わうのと保存食であるということと、紅白の色どりがお目出度いからでしょうか。
ヘルシーな食であることは確かです。
母がよく作ってくれましたので見よう見真似で私も作ります。
少し面倒ですが美味しいのでおすすめです。
大根と人参を突き器で突き下ろして少し塩をまぶして置いておきます。
水分が出てきたら水に浸して塩分を取り除きます。
ざるに上げたらここからが少し厄介です。私は力がよく入るように晒しを使用してよく絞って水分を絞り取ります。
甘酢はお酢に塩少々、砂糖、みりんを入れて作ります。甘さはお好みです。
出来たらまぶしますが、この時にゆずの果汁と皮を細かく切ってまぶしますと美味しくできます。
人参と大根は食い合わせは悪いそうですが、お酢を使うことによって解消されるそうです。
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2010年2月24日水曜日
映画「恋するベーカリー」
離婚をした夫婦が子供の卒業式で一緒になり、それが発端でデートをするようになり、セックスまでするようになります。男は元に戻りたいと元妻に詰め寄るのですが、女性は悩んだ挙句に踏ん切りをつけて別れるという内容でした。
夫婦が別れる原因は世界共通の様でその大半は男の浮気、暴力、借金、酒による暴力や借金というところではないでしょうか。
男は実に甘いところがあって自分が直接の離婚の原因を作っておきながら、「許して欲しい」「許してもらえる」という安易な気持ちを持っています。
そういう甘いところがあるから余所で女を作っても妻には「お前も好きだ」と平気で言います。
女の性は淫乱でない限り、こっちでもするけれどあっちでもするというようなことはできません。
女性は一途のとこらがありますので、男性のいい加減な気持ちがなお許せないのです。
男性は別れてもまた逢えるのではないか、逢いたいという気持ちを引きずります。ところが女性は別れると決意したならば、別れた男は「死んだらいいのにと」徹底して憎みます。
そのことに付いて友達と飲んでいる時に、「男は何時までも未練たらしく尾を引くけれど、その点女は別れた途端に、別れた男なんか死んだらいいと思っている。女はきついなぁー強いなぁー」と言いました。
そうするとその友は強いのと違う実際は弱いのや。自分を裏切った男なんか死んだらいいねんと、きちっとけじめを付けないと明日から生きていけないからや。おれはそう思っているといいました。
それを聞いて「そうやなぁー」と私も思いました。
経済的に甲斐性があって明日からの生活に何の心配もなければ、そんなに鬼女のようになる必要はないのでしょうが、一般的には経済は男性に依存している人がほとんどですから、頼りにしている男に裏切られれば、よほどの強い決意を持たなければ生きて行けないからでしょう。その決意の象徴として別れた男を殺してやりたいという強い踏ん切りと意気込みが必要なのでしょう。
とにかく日本では別れると決意したならば、二度と顔も見たくないというのが一般的な女性の姿ですから、恋するベーカリーの様な話は日本では成立しないだろうというのが映画を見た印象です。
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2010年2月23日火曜日
2010年2月22日月曜日
映画「おとうと」
吉永小百合が演じる姉と鶴瓶が演じる弟役の兄弟愛を描いた作品でした。
弟は兄弟に迷惑をかけるばかりで、愛想を尽かした長男は兄弟の縁を切ります。
しかし姉は姉弟の情愛を断ち切れずに面倒を見続けます。
世の中は広く、人も大勢いますが親兄弟という血の濃い血縁者は10本の指で数えれる程度しかいません。ほんの一握りしかいない肉親同士なのですから仲良くしていかなければいけないでしょう。
世の中で一番大切なのは人間関係です。その人間関係の原点は親兄弟でしょう。それも仲良くやっていけない優しさの無い人は、自己の人生を豊かに出来る筈がありません。
そういう観点から肉親の情愛を大切にしなければいけないのですが、それが出来ずに家族愛がバラバラになってしまっている人も少なくありません。そういう世情に対して吉永小百合の姉役が優しさを見せる。山田洋二監督のヒューマニズムでしょう。
鶴瓶の演じる弟は末期癌になって養護施設に拾われて、そこでみんなに看取られて死んでいきます。
最近は路上生活者を住まわせて、生活保護を受けさせて多額の手数料を取るというビジネス化されたものがありますが、映画に出てくる施設は生活保護費によって面倒を見るというのは同じですが、それによってお金儲けをするというようなことはなく、世話をする施設のスタッフは献身的に面倒を見てみんな明るいのです。
この場面も山田洋二監督のヒューマンですね。
がめつくお金を儲けをを考えないで皆が優しい心で助け合えば、明るく楽しく生活していく事は可能ではないか。そういうことを訴えておられるのです。
生きていくにはお金よりも人が大事。皆が優しい心を持てばどうにでもなるのではないかと教えられている映画でした。
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2010年2月21日日曜日
2010年2月20日土曜日
2010年2月19日金曜日
恋心
以前に若い女性から好きな人がいるのだけど、その人は仕事が忙しくてなかなか逢えない。
逢えないというよりも逢いたいと言ってくれない。そういう男性は本当に自分の事を思ってくれているのか全く分からない。男というのはそういう状態でも好きという気持ちは持っているものなのか。そういう男性とは今後どうして付き合っていったらいいか。そういうことを相談を受けました。
自分では駄目かもしれないと思いつつも、でも好きだから向こうも自分と同じ気持ちであって欲しいという一縷の希望から男の気持ちの確認をしたかったから私に聞いたのでしょう。
それを聞いて私は即答しました。
そんな男性とは別れて新しい出会いを探しなさいということをです。
男も女も関係ありません。本当に好きだという恋心を持っていれば、どんなに忙しくても隙間を縫うようにして、また寝る間も惜しんで逢いに来ます。それが恋です。恋をしていれば一緒にいることが一番安らいで癒しになるのですから、逢いたいと思うのが自然なのです。
恋をしている時は「この人のためだったら何かあれば俺は命を掛ける」そういう気持ちでいるのが恋です。
そんなに熱く燃えていても結婚をして時が経てば必ずその熱は冷めます。
人間には「慣れる」「飽きる」「忘れる」という本能があります。それがあるから生きていけるのですから、その本能が恋心にも区別なく影響を及ぼしてくるから仕方がないのです。
先では必ず恋心は冷めてしまうのですら、炎が高く燃え上がる熱い熱い恋をしなければ恋愛をする意味が無くなってしまいます。
恋愛する限りは誰にも負けない炎の柱が高く燃え上がる恋愛をしなさいね。炎も燃え上がらせる気持ちのない男とは別れなさいと言ってやりました。
恋は理性や理屈なんか関係ありません。恋をすれば何時も一緒にいたいと思うが恋です。一緒にいなくても平気と言うのは恋ではありません。
恋にも色々な形があると言う理窟家がいるかもしれませんが、そんなものは嘘っぱちです。恋をすれば何時も一緒にいたいのです。
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2010年2月17日水曜日
男の料理 豆
平成元年に離婚をしてそれ以来一人住まいです。随分と外食もしましたが、栄養が偏ることと値段的にも高くつきますから、家で作って食べることの方がはるかに多いです。
最近彼女が出来て休みの日には一緒に生活していますが、妻は仕事場で食事を作らなければいけないし、24時間勤務ですから家に帰ればゆっくりと休ませてあげたいので食事は私が作っています。
家庭料理しか作れませんが結構旨いと言ってくれますので、これからは男性も食事が作れる方がいいのではとおもいますので、参考になればいいかなぁーということで記してみます。
最初は豆を煮ましたので紹介します。
豆には水洗いして直ぐにゆでても良い豆と、一晩ぐらい水につけてからゆでる豆があります。
直ぐにゆでてもよい豆
・あずき・ささげ・うずら豆・虎豆
水につけてからゆでる豆
・大豆・金時豆・黒豆・えんどう・大福豆・紫花豆
豆は栄養素は高い割には脂肪が少ないのでダイエット食です。
表のように豊富なたんぱく質は非常に質がよく体内で合成できない必須アミノ酸を多く含んでいます
値段も安く日持ちがしますのでおすすめです。
今回は金時豆を煮ました。
私は全て黒豆を煮る要領でにます。
・豆を洗って豆が十分に隠れる程度の水をいれ、砂糖と少量の塩と醤油をいれ、ほんだしを少し入れて一晩置いて置きます。
・あくる日にそのまま炊きます。沸騰すれば火を弱くしてあくをとります。
・砂糖は自分のお好みの甘さにすればいいとおもいます。
・弱火で豆が踊らないようにして柔らかくなるまでにます。水は豆が隠れる程度です。
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2010年2月16日火曜日
労り
先日妻と買い物に行きました。
まだ籍は入れてませんが休みの日には一緒にいますのでこれからは妻で通します。
駐車場に車を止めて売り場に降りて行こうとエレベーターの前まで来ましたら、「あ、携帯忘れた」と言い出しました。
妻の長男の所がちょうどお産で、その日は予定日で陣痛が来たというのでお見舞いに行ったけれども、仕事までには孫を見ることが出来ずに帰ってきたところです。何時出来たという連絡が入るかもしれないから携帯を取っておいでと言いました。
私がいらちなものですから申し訳なさそうに謝りながら取りにいきました。
「ごめんね」と走ってきてエレベーターのボタンを押して中に入った時に「あ、財布がない」と言い出しました。途中で落としたようにも思えないので、「車やろう、さっき降りた時は持っていたで」と言いますと、「ごめん」と言ってまた車に走りました。仕事のお金を預かっているということでしたから私も心配ですから車まで戻りました。
いくら探しても財布が見つかりません。可笑しいなぁー、絶対にあるはずだから「もっと丁寧に探し」と言って一緒にさがしました。そうすると先ほど取りに行った携帯の場所に入れ替わりに忘れて来てしまったようです。
さぁーここからです。若い時だったら妻が失態を恥じて申し訳なさそうにしているのに、「なにをやってんねん、しっかりせんかい」と言っていたとおもいます。
私だけでなく夫婦というものは申し訳なさそうに控えめにしているのに追い打ちをかけて叱責してしまうのは一般的です。
そうすれば自分は悪いと思っていても「なによ。そんに偉そうに言わなくても」と反抗心を抱いてしまいます。そういうことが長年の夫婦生活で積み上げられて、一緒にいても楽しくない面白くない。挙句の果てには経済的に困らなければ直ぐにでも別れたいということになります。
何回も記しましたが、明日から経済的に何の心配も無ければ直ぐにでも別れたいと思っている女性は物凄く多いのです。
そういう女性の気持ちはよく分かっていますので「ごめんね」と言われたら、そんなことは俺も始終あるからか気にするなと言っておきました。
最近はそういう優しさが素直に出せるようになりました。きっとお呼びが近いのでしょう。
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2010年2月14日日曜日
つき
よく「ついている」などと言いますが、つきは偶然なのでしょうか、それとも定めでしょうか。
つきという言葉は辞書には記載されていません。運が付いているの「つき」の事でしょうね。
運とは天命のめぐりあわせということですから、やはりつきは神が決めることなのですね。
人は生まれてから後の事は、どんなに貧しく辛い環境で育っても清く正しく生きることは可能ですね。
こういう言い方をすれば、辛く苦しい環境で育った人は「お前らにはどん底の苦しさなんか分からないだろう」と叱責を受けるかもしれません。しかし私も随分と貧しい家に生まれ育っていますのでお金のない貧しさは分っています。その上で申し上げれば健康でさえあれば清く正しく生きていく事は可能です。したがって生後の人生において、宿命などと神のせいにする気持ちは私にはありませんが、生まれた時から障害を持って生まれて来る人も沢山います。そういう人を思えば神はどうなっているんだと神の仕打ちを呪ってしまいます。
私の妻は重度の障害者の支援施設で働いています。先日までは土・日・祝日と盆正月には親が家に連れて帰っていましたので、平日は昼と夜泊まりの二交代で仕事をしていました。
ところが親が高齢になってきて先の子供の事を考えますと、一人で生きていく訓練をしておかなければ余計に可哀相な目にあわせてしまうということで、盆と正月以外は施設で生活をすることになり、彼女も土・日・祝日は24時間勤務になりました。
子供たちと言っても30代40代の大人ですが、これまでは家に帰れる日には親が迎えに来るのを玄関まで行って嬉しそうに待っていたと聞いています。子供達も家に帰れない分寂しくなるでしょうが、高齢になってきて可愛い子供の面倒が見れなくなってしまう、親の気持ちを考えればもっと悲しいでしょう。
この人たちは何の罪があってそうなってしまったのでしょう。神はあまりにも酷いではないでしょうか。
世の中には何の罪もなくそういう辛い生活を強いられている人達も沢山います。それを考えれば健康であることに感謝して、頑張って生きていかなければ罰が当たりますね
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2010年2月13日土曜日
着装は帯結びで決まるものでない
着付けの場合は大きくバリエーションを設けれるところは帯結びしかありません。
きもの学院や美容界の着付の指導に当たっている人は、自己ピーアールするには花嫁の打掛けが着せれるとか、様々な振袖の帯結びが数多く出来るということぐらいしか自己アピール出来る手段がありませんので、競って次々と新しい帯結びを創作します。
私も必要に迫られて毎年幾通りかの帯結びを創作してきました。技能向上にはそれも大切なことではありますが、上図のピアノを引いているふくら雀を結んだ女性を見てください。素晴らしではないですか。
振袖の帯結びの源はふくら雀ですが、最近はそのふくら雀を結ぶのを嫌う人が増えています。もっと煌びやかに結んで欲しいと希望されます。それは帯結びを煌びやかに結べば美しく見えると錯覚しているからです。
着装を見て素敵がどうかを評価するのは前姿です。前姿を見て「素敵な人だなー」と人は評価し判断します。
もっと具体的に言えば、襟合せがきちっと整っているか。帯の巻き付けが体にきちっと添っているか。おはし折りはきちっと整えられているか。帯の位置がバランスの良い位置で収まっているか。そして全体のシルエットが裾窄まりの美しいシルエットになっているか。そのための補正はきちっとできているか。
そして最も大切なのは着ている人の姿勢、歩き方、立ち振る舞いが良い形であるかということで、素敵な装いであるか否かが決まってしまうのです。
美しく素敵な装いになっているか否かは後ろの帯結びはまっかく関係ありません。帯結びは帯も綺麗に結べているねという程度の評価で終わってしまうのです。
着付けというものはそういうものですから、着付けてもらうときは帯結びをあまり気にしないで、前から見てモデルさんを輝かせて見せてくれるような着付けの出来る人を選択し、そして着ていて楽で着崩れない着付けが出来る人に着付けてもらって下さい。
着付けるのに時間の掛かる人はそれだけ技量が無いという証ですから、それも着付ける人を選択する場合の参考にしてください。
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2010年2月12日金曜日
絵模様の新分野
絵模様の持つ意味は平安時代の重ね色目に見られる如く一つは季節感です。
この季節感は自然を愛でるという感性だけだなく、自然に同化し偉大な自然の力にあやかるという信仰心からきています。
あやかるという点では吉祥文様も同じで江戸時代初期までの絵模様の持つ意味は季節感と吉祥的内容でした。
それらのものに江戸の中期になって下記のような意味を持つ絵模様が加わりました。
(1)伝説、伝承、故事、諺などによる絵模様。
(2)年中行事に関連した絵模様
(3)物語、詩歌などに取材したもの(葦手模様)
(4)歌枕や名所の風景を現したもの。
(5)俗語
例えば、蛤の年を経たものが海中で気を吐くと蜃気
楼が現れるといったような事
(6)判じ物的なもの
斧(よき)と琴と菊で好きことを聞くとしゃれたも
の。
上図のように三代目の中村歌右衛門は俳名を芝翫と
いうので、四本の縞とかんつなぎを組み合わせて芝
翫(しかん)としゃれたようにです。
この他に何の意味をも持たない草花や幾何学模様を配したものができました。
小紋の着物に配している模様は何の意味もなく、審美的に模様を配したものがほとんどですから、季節を問うという事にこだわらないで着用すればよいとおもいます。
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2010年2月11日木曜日
着物の素晴らしさ
私の着せさせて頂いた素敵な人達で私のお友達です
後からお叱りをうけるかもしれませんが、親しくして頂いていますのできっと許して頂けるとおもいます。
三人共少しだけ肥えておられます。これもまた叱られると思いますが、洋服のフォーマルを着たら肥えておられるのが丸わかりで、こんなに素敵には見えないと思います。
日本人はこのお三人だけでなく、洋服のフォーマルは似合いません。それには明確な理由があるのですが、それでも多くの方が洋服を選択されます。洋服の方が楽だからです。
女性の方は自分を美しく見せるためにお金も時間もかけます。そんなに美に対して執着しながら、ここ一番という時に美しく見えるきものよりも、楽な洋服を選んでしまいます。
着物を持っておられないなら仕方のないことですが、そんな人の方が現実には少数なのに不思議です。
私はポスター撮りで幾度も西洋の女性の着付けをしたことがあります。
西洋人は背が高くてもバストと腰骨の位置の間は、帯幅を二つ折にした分がおさまるくらいしか無いのです。
胴が短くて足が長いのです。だから着上がった姿を見れば、帯の上の長さと下半身の長さを比較すると、帯から上が短くて、下の方が長すぎてバランスがものすごく悪いので素敵に見えません。
その点、日本人は足が短くて胴が長いので、帯の位置を自由に移動させることができますので、バランスのよい位置に帯が結べます。
日本人が既成のワンピースを着ていますと、ウエストの切り返しのはるか下の位置でヒップがゆれています。
西洋人の顔立ちは目鼻立ちが彫が深く華やかな顔立ちです、それが着物を着ますときものの模様の華やかさと顔の華やかさが競い合ってしまっておかしな感じになります。
その点日本人の場合は、顔付きの陰鬱な部分は着物の華やかさが補ってくれて素敵になります。
バストの大きさも西洋人は大きすぎて着物の着装にはマイナスですが、日本人はちょうどいいのです。
そういう根本的な違いがあって、洋服は西洋人のもので、着物は日本人の方がよく似合うということになっているのです。
私は結婚式によくご招待を受けて参列しましたが、ホテルでどんなに立派な洋服を着ていても、きもの姿の人と見比べると洋服姿の人は見劣りしてしまいます。ですから招待をされる主人側としては着物を着て来て華を添えて欲しいと希望されます。
それだけ着物は日本人の体形や顔つきにピッタリとマッチしているのです。
きものも上手に着付けをすれが楽に着れますし、上の写真の三人のように、少々肥えていても奇麗に見せることできます。
着物は着付けの腕によって様々に演出出来る衣服です。
手間暇かけないで美しく素敵に見せれるのは20代だけです。それ以降は体形が崩れてくるのは一般的で、体形が崩れてくれば日本人はフォーマルの洋服は似合わない。そういう自覚と認識を持ってお洒落を楽しんで頂きたいです。
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2010年2月10日水曜日
もはや腐ったか
下世話な言い方をすれば警察にぱくられて拘置されたのです。
その議員が辞めもしなければ離党をする気持ちも無い。党も離党を勧告することもしない。そりゃ親分も大幹部も揃って灰色のままですから、離党は勧告できませんわなぁー。
親分と大幹部が勧告できない立場だから、恐らくは国民向けにほとぼりが冷めるまでは自ら離党をして静かに潜んでいるようにと、陰で誰かが動いて説得をしているのとちがいますか。。
恐らく西川議員は離党という事で国民の非難の矛先を避けようとするでしょう。
朝青龍は暴力という犯罪を犯しました。これは絶対にいけないことですが、朝青龍の場合は度重なる相撲道を汚したというのが辞めさされた大きな原因でしょう。
道ですよ。道を重んじるなら国民の範となるべき国会議員が率先して倫理を重んじて辞めるべきでしょう。
一連の事件に対して民主党の連中の態度を見ていると小沢さんの凄みばかりが映しだされています。民主党の議員は何をしているのか、そんなに小沢さんが怖い存在なのでしょうか。
議員にとって一番怖いのは国民の目ですよ。このまま鳩山や小沢さんに党の運命を委ねていたら、必ず次の選挙では負けるでしょう。
負けるでしょうというのは、ほんのこの前まであんなに期待を抱かせてスタートした筈の民主党が既に腐ってしまっています。小沢や鳩山を辞任させることのできない状態を放置していれば、以前の自民党の様に根まで腐ってしまいます。そういう意味から勝たせてはいけない。大敗に持ち込んで責任者である小沢を国民の手で引きずり降ろさなければいけないということです。
国民の期待を裏切った者には国民の報復の恐怖を味わせてやらなければ日本はよい国になりません。
それが出来ることを先の選挙で我々国民は立証したのですから、倫理観の無い人間は絶対に人の頭に立たせるな。それが党内で出来なければ我々でやってやるという気概を持ちましょう。
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2010年2月9日火曜日
セルシオから吸殻ポイ
昨日43号線を大阪に向かって走っていた時のことです。
信号で止まった時に前の車はセルシオであることが目に留まりました。
この車は高価だと聞いていましたので俺の車だったら4~5台は買えるかもしれないなーと漠然と考えていました。
次の信号で止まった時に前の黒のセルシオの座席横の窓が空きました。
寒いのに何をするのかと見ていますと窓から右の腕だけニューと出てきて火の点いた吸殻を指でポンとはじいて2mほど飛ばして捨てました。
捨てた後に窓を空けてまま暫く走っていました。
車内のタバコの煙が完全になくなって車内がタバコ臭くならないようにしているのです。
自分の車内だけは綺麗な状態に保って置きたいのです。
自分のところさえ綺麗であれば他はどうでもいいのです。火のついたままでは危険なんてことも全く頭にないのです。
どんな人か横まで行って見ましたが普通の人でした。
これがトラックの運ちゃんだったならそんなに気にならなかったとおもうのですが、セルシオの高級車に乗った人だったのでやけに印象に残ってしまいました。
毎日ぎりぎりで働いている人なら、そこまで考えるゆとりの気持ちがないのだぁーと、少しは寛容に見つめることが出来るのですが、金持ちがそんなことをしていると世の中どうなってんねんと叫びたくなります。
衣食足りて礼節を知るという諺があるではないですか。
金持ちは模範にならなければ。上も下も礼節なんかどうでもいいという事になれば世の中本当に腐ってしまいますよ。
みんな幸せになりたいと念じています。その幸せは心の潤いで決まります。お金は心の潤いを得るためにあります。お金で心の潤いを買うのです。一番大切なのはお金ではなく心の潤いです。その定義を分かっていない人が多いから平気で醜いことをしてしまうのですね。
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2010年2月8日月曜日
韓国ドラマ「女人天下」
1506~1544年に王位に付いていた中宗(チュンジョン)を巡る中殿(中宮)と側室の間に、臣下も加わって権力争いをするという女の争いを描いたドラマです。
地位と名誉とお金を貪欲に求める人間の醜さと哀れさを描いた単純な内容のドラマですが、見ていると日本と朝鮮と文化の源である中国との密接なつながりを感じて参考になるところがあります。
日本の宮中における身分、即ち位は諸王は1位~5位まで正・従・上下合わせて14階、臣下は1位から初位まで正・従・上下合わせて30階。親王は1品(いっぽん)~4品まで4階です。
ドラマでは「1品の命婦に対して失礼であろう」という台詞が出てきます。
日本では4位・5位の女官を命婦というのですが、いずれにしても1品という言葉を聞いて、日本の令は大陸の模倣から始まったことを実感させられます。
また宮中に昇殿している婦人は高貴な宮人の証として上に唐衣を着ています。日本でも十二単の一番上に着る袖丈と身丈の短い衣服を唐衣といいます。
日本では平安時代中期以降の十二単には唐衣という言葉は出てきますが、それ以前には見られませんので、日本固有の言葉ではないかと思っていたのですが、大陸から渡来した言葉であることを教えられました。
朝鮮や中国では現在も女性の座礼は立膝か胡坐です。日本において正座が定着するのは元禄期以降だということで、それまではドラマで見る座礼そのものであっただろうと想像させられます。
正座が定着するまでのお茶事はどういう形の作法であったのか知りたいです。
ご存じの方は教えてください。
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2010年2月7日日曜日
2010年2月6日土曜日
相撲道
大横綱朝青龍の引退です。
翌日は相撲協会に引退を惜しむ電話が殺到していると聞いています。
そういうのを後の祭りといいます。もし心底から横綱を支持してあげるなら引退の声明を出す前に相撲協会に電話を入れて上げなければね。本人が決断をする前に巷では首にするという話があったのですから、その段階で電話をして援護射撃をしてあげなければ。
大勢いの人からの援護射撃があれば、人気商売ですから手助けになったのではと思います。
度重なって相撲道を汚したというのが辞めさせられた一番の原因のようで、だから解雇されるのは当然だという意見もありますが、文化も生活習慣も異なる人を連れて来て、日本で相撲を取らせるようにしたのは相撲協会そのものではないですか。また国民もそれを容認をしてきました。
日本の色に染まりきれないことが生じるのは当たり前のことでしょう。
相撲道と言いますが相撲道とは心・技・体で、心は人間形成の事でしょう。人間形成の面で特に子供たちに模範とならなければいけないと有識者達は唱えていますが、人間形成は何も相撲道だけに関わらず我々一般人の生活全般に付いて通じるものです。
皆さんは人道という点で人に誇れる生活をしておられますか。。
曲がった、そして気概のない根性のない子供たちが多くなって来ています。それは社会全体がいい加減だからです。
子供は自分一人では歪みません。子供が歪むのは大人達の言動を見て育つからです。
もし相撲道などと偉そうに言うのなら自分が社会に誇れる生き方をしているのか、一人一人がとくと見つめてから言うべきでしょう。
現状で相撲道などとおくがましいことを言っておれる人がどれほど存在するのでしょうか。
朝青龍を責める前にそいう事を国民を上げて考え、そして改心してからのことではないでしょうか。
朝青龍ご苦労さん。私なら国民栄誉賞を差し上げます。
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2010年2月5日金曜日
恵方巻き
節分ですから巻き寿司を作りました。私たちの子供の頃はそんな風習がなかったのに、恵方巻きと称して巻き寿司の丸かじりを始めたのは何時の時代からでしょうか。
巻き寿司は一般家庭では大変手の込んだ贅沢な食べ物で、お正月や大切な行事の時は母が朝早くから巻き寿司を巻いていたのを思い出します。
恵方詣りと言ってその年の恵方(歳徳神が存在する方向=暦術によって毎年恵方が決まる)の神社にお参りをするという風習がありました。そういう風習と縁起の良い時に食べる巻き寿司を合体させて業者が作り上げた習わしではないでしょうか。
正月に彼女の家族と一緒に食事をしましたが、子供たちは巻き寿司を見て、正月は母が作った巻き寿司を食べないと正月を迎えた気がしない」と異口同音に言っていました。
私の母も今はいませんが、元気な時は何か行事があると巻き寿司を作ってくれていましたので、母を思い浮かべる食べ物が存在することの微笑ましさに感銘しました。
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2010年2月4日木曜日
節分のお化け
http://kitukemeijin.jp/index.html
南出 美樹様
節分のお化けに駆り出されてお母さんの振袖をお召しになられました。
南出さんまたまだ振袖似合いますよ素敵です
今日は節分、大阪の北や南のクラブの女性は様々に扮装してお客さんサービスに努めます。
お化けの化けるは扮装するという事で、昔から神社の節分祭には花街の人だけでなく一般の人も扮装をして祭を盛り上げたと言われています。
これは関東では見られない行事で、大阪でも一般の人たちの間では今日では廃ってしまった行事ですが、現在でも大阪の色街の女性は扮装をしてお客さんサービスに努めています。
私たちの若いころは盛んで芸者や舞妓に扮する人を着せに弟子を連れて毎年行きました。
その頃は今と違って気前の言い人がいて、「すーさんこんどお化けで芸者するから援助して」とおねだりをすると「よっしゃわかった出したるからしたらええやん」と言ってくれるお客がいて、達者な人は数人から援助をしてもらっていました。
扮装する人はあくまでも店もちでなく自前ですが、複数の人から援助をしてもらっていますので気前がよく、着付けが終わると「おにいちゃん有難うこれでお茶でも飲んで」とポケットにお札をねじ込んでくれて、ポケットがお札で一杯になっという時代もありました。
当時は女性のショーツも短いものがなかったし、ショーツの足回りにはゴムが入っていたので芸者や舞妓等の出の衣裳を着るとショーツのゴムの線が見えるものですから、下に何も付けずにスッポンポンで着る人が多くて、着付ける時には丸見えで困ったというよりもドッキリした思い出が、節分が来ると昨日のことのように思い出されます。
その節分のお化けも今ではやるところが少なくなっていますが、伝統行事を守って頑張っているところもあるようです。昔と比べると豊かにはなりましたが、あらゆる分野で面白味が無くなっています。
あー寂し。
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南出 美樹様
節分のお化けに駆り出されてお母さんの振袖をお召しになられました。
南出さんまたまだ振袖似合いますよ素敵です
今日は節分、大阪の北や南のクラブの女性は様々に扮装してお客さんサービスに努めます。
お化けの化けるは扮装するという事で、昔から神社の節分祭には花街の人だけでなく一般の人も扮装をして祭を盛り上げたと言われています。
これは関東では見られない行事で、大阪でも一般の人たちの間では今日では廃ってしまった行事ですが、現在でも大阪の色街の女性は扮装をしてお客さんサービスに努めています。
私たちの若いころは盛んで芸者や舞妓に扮する人を着せに弟子を連れて毎年行きました。
その頃は今と違って気前の言い人がいて、「すーさんこんどお化けで芸者するから援助して」とおねだりをすると「よっしゃわかった出したるからしたらええやん」と言ってくれるお客がいて、達者な人は数人から援助をしてもらっていました。
扮装する人はあくまでも店もちでなく自前ですが、複数の人から援助をしてもらっていますので気前がよく、着付けが終わると「おにいちゃん有難うこれでお茶でも飲んで」とポケットにお札をねじ込んでくれて、ポケットがお札で一杯になっという時代もありました。
当時は女性のショーツも短いものがなかったし、ショーツの足回りにはゴムが入っていたので芸者や舞妓等の出の衣裳を着るとショーツのゴムの線が見えるものですから、下に何も付けずにスッポンポンで着る人が多くて、着付ける時には丸見えで困ったというよりもドッキリした思い出が、節分が来ると昨日のことのように思い出されます。
その節分のお化けも今ではやるところが少なくなっていますが、伝統行事を守って頑張っているところもあるようです。昔と比べると豊かにはなりましたが、あらゆる分野で面白味が無くなっています。
あー寂し。
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2010年2月2日火曜日
お稽古事は技と心を磨く場
お稽古に来られても簡単に辞めて行かれる人が多いと前回記述しました。
着付に限らず様々なお稽古事や教養講座に多くの人が関わっておられますが、きちっと身につけて辞めて行かれた人は恐らくごく少数だと思います。
直ぐに辞めて行く人は自分が駄目な人だと思われたくないから,色々と自己弁護して様々に繕って辞めていかれます。ですがいくら繕ってもそいう人は人生哲学に真正面から向き合おうとする気持ちが希薄である人が多いのです。
何のためにお稽古をするのか。当面の目的は作ってもらったきものがあるから着れるようになりたいと思っているからです。
それは皆さん同じで分かっていますが、そういう気持ちだけで上達できるのかが問題なのです。
着付けも一通りのきものを上手に、あるいは人前に出て行っても恥ずかしくない程度まで身につけようと思いますと簡単ではありません。
あるきもの学院では道具を使えば簡単に着れますよいって、道具を使用していますが、どんな道具を使っても使いこなす腕がなければ同じなのです。道具が重要なのでなく重要なのは腕前なのです。
何処のお稽古場でも週に一回で2時間程度のお稽古です。その上にお稽古される人は家に帰って復習してくる人は稀です。そんなお稽古で半年や一年で一人前になれるような簡単なものは何一つありません。
どんなものでも簡単でない、それ相応の努力や苦労が伴うのが道理なのですが、不思議に着付けの場合は何を大仰な「着付けぐらいその気になれば直ぐに出来るわ」と安易に考えて取り組まれます。
しかし現実はなかなか思うような成果が上がりません。その内に「そんなに着る機会もないし、着付けが出来なくても生活になんの支障もないしね」ということで辞めていかれます。
「出来なくても生活に何の支障も無いしね」という考えだったら、生業である仕事以外は全てどうでもいいことになってしまいます。
前回の「お茶会に行くお二人」のように、無くても生活に何の支障もないものが一つでも多く身に備わっている方が人生を豊かにしてくれます。
食べて行くにはお金が必要ですが、人生を豊かにするためには心の栄養が大切です。
お金を使うだけでは多くの栄養素は取得できません。ヘルシーな栄養素を取得するには教養が大切だとい人生哲学が理解できていないと何をやっても続きません。
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動画の着付け
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