2011年6月30日木曜日

懐かしの浜寺公園



昔は大阪湾は茅渟の海(茅渟の海)と呼ばれていました。
泉南郡、泉北郡から淡路までの地名が茅渟と言われたていたことに由来します。
茅渟の海の沿岸には高師の浜と言われる松原が広がり万葉の時代から親しまれていたと言われています。
南北朝時代に後醍醐天皇の勅命により三光国師(さんこうこくし)がこの地に大雄寺(たいゆうじ)を建立しました。「山の寺」と呼ばれていた吉野の日雄寺対して、大雄寺を浜の寺と称したところから浜寺という地名になったと言われています。
高師の浜と言われ美しい松林が広域に続いていて名所として親しまれて来ましたが、幾度かその松林の存続が危機にさらされたことがあります。
その最も近い出来事が明治維新です。
明治5年に政府は生活に困った士族に松林を払下げて伐採が行われました。
明治6年にたまたま視察に来ていた有名な大久保利通がその光景を見て「音にきく 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」という歌を詠みました。「あだ波」は、たいした風もないのに立つ波、すなわち軽々しい行為のたとえです。
太古から存在し名所として親しまれているものを軽々しく損ねていると怒ったのです。
その歌を見て一緒に視察していた税所 篤子爵が堺県令に直ぐに伐採を中止するように告げて松原が守られました。明治6年に浜寺を堺県知事は公園としました。浜寺公園は日本で一番早くに公園に指定されたと言われています。
 昭和22年にアメリカが進駐軍の宿舎用地として使用しました。
私が幼い頃は既に進駐軍がいましたので全貌は見たことがありませんでした。
昔の26号線から松林を抜けると直ぐに海で、高石とは海続きになっていましたが、浜寺からは境界線が設けられていて浜寺の海では泳げませんでした。
初めて懐かしの浜寺公園を散策してきましたが、松林が羽衣駅~浜寺駅を過ぎても連なっている素晴らしい松原です。進駐軍が使用していた消火栓がところどころにそのまま残っています。
涼しくなれば公園に汽車も走っていますので孫を連れてってやりたいです。

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