2011年6月27日月曜日

ドラマ「江」千利休死す


秀吉の茶頭である千利休は多くの名将達から敬愛されていました。
言わば一介の茶坊主が多くの武将から尊敬されて政治的に影響を持ってくる。それは秀吉子飼いの石田三成などからすれば許されないことです。何としても利休を政治の場から追放したいと画策し、その結果として利休は自刃に追い込まれます。
秀吉とすれば利休が許しを請うて従順を誓えば許してやりたいという気持ちがあったようですが、利休は死罪を選択します。
ここが千利休の精神性の高さを感じる、たまらなく感銘を受けるところです。
利休は禅宗の勉強をして、生きて行くうえで最も大切なのは心の潤いであることが分かっています。
利休の言葉である有名な「一期一会」は、会った縁を大切に最大限にもてなすということです。
 茶事は手段であって最も大切なことは心を込めてもてなす。心の交流を第一義にしているのです。
 心の触れ合いによって、みんなが優しく心豊かに生きて行けるようにする。だから茶道なのです。
ところが秀吉は権力者でり、支配者で生い立ちからくる理念は力が一番という人です。
 利休とは根本的に理念が異なる人種ですから、力関係は秀吉の方が上ですから、利休は無碍には反抗できませんが、人間としてのあるべき姿の真理(仏教の教理)から外れている秀吉を心では蔑んでいたと言われています。
そんな秀吉に許しを請うという事は自身の理念信条を放棄してしまう事になる。
それだけは絶対に出来ない。そう考えて茶道の祖として命を賭して自身の理念と信条を守り抜いた。
私もお稽古事に携わる一人として、それが利休という人だと思っています。
権力にたしては媚びて迎合して行く人間が多い中で、武士や僧侶たちにも勝る潔さに感銘をしているのは私だけではないでしょう。
 吉田松陰は獄中で「私が世の中の為に何か出来るのであれば生きたい。そうでなければいつ死んでも構わない」と言っています。幕末には近代日本の礎を作るために自分の命を擲って多くの人が死んでいます。
 人間は遅かれ早かれ必ず死にます。ならば命よりも生きて何をすべきか。生きていたことの証を残すことが大切ではないでしょうか。
 政治家の先生方確りしてください。命を懸けて死んで名を残す人になってください。権力闘争に明け暮れる議員の姿を見ていて、先生方は自分では私は偉い賢いと思っておられるとおもうのですが、国民は馬鹿と違うか救いようがないわぁーと呆れていますよ。

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