2010年10月12日火曜日

親の役割


 七草は 忍んで恋いる わが心

 妻は重度の知能障害者の介護の仕事をしています。
そういう世界の事は全くの無知の私でしたが、話をよくしてくれますので少し分かるようになりました。
 重度の障害者ですから一人で介護が出来る人数は2人ぐらいで手一杯ということです。従って介護者二人で4人の仲間を今は介護しているそうです。
 仲間達は年齢は30代ですが幼児と同じで、御飯の時も細かく砕いてあげたりとか、歯を磨いてあげたりとか、トイレに行けば拭いてあげたりとか、時には油断をすればおもらしをしてしまうということです。
 そういう仲間達の介護に付いて様々な考えがあり、先輩から指導もあるようですが、意見が分かれるところもあると妻は申しております。
 私も妻から聞いて自然と様々に考えてしまいますが、妻の意見に一理あると思っています。

 どんな生き物でも生きて行く為の本能というものを備えています。人間はその本能にプラスして知恵によって理性というものを磨いていくわけですが、重度の知能障害者はその知恵の部分が繋がっていないのです。
 例えば便ですが、便は不潔な物であって、人を不愉快にさせてしまうものでもある。だから便所でするものであり、便をしている姿を人に見せるのはしたない行為である。そう考えて理解するのが知恵で有り理性です。でも彼女らはそこにつながらないのです。

 犬に例えて恐縮ですが、犬にこの部屋に入ってはいけないと厳しく訓練をしますと、その部屋には絶対に入りません。それは知恵でそうするのではなく本能の訓練によってそうすることが出来るのです。
 犬も大事にし過ぎて甘えさせると言うことを聞かなくなります。そういうことで分かるように、知恵の部分につながっていなくても、本能の訓練によって正当な動きがもう少し出来るようにすことは可能ではないかと思います。
そのためには幼い頃から習慣的に本能を鍛錬させておかなければいけません。
 ところが親御さんは不憫に思い、目一杯甘やかせて育ててその訓練が出来ていない人が多いように思うということです。
それが現実ですから、大人になって今更厳しくしても無理ではないかという事です。
怒れば怒られていることは分かるらしく、その時は大人しくなったり、怒った人を避けてもう一人にすり寄って行くとことはあるようですが、それも本能です。
 怒られても何故怒られたのか、その事を顧みて判断して、次からはどうすべきだと考える知恵につながっていないので、いくら怒っても全てがその場限りで同じ事の繰り返しです。
 知恵があればその部分を伸ばせるようにサポートして行くのですが、そこにつながっていませんので怒ってばかりいては可哀相だと言っています。
大きく秩序を乱すようなことをした時は怒る必要もありますが、重度の人はそういうものだから仕方がないと割り切って、できるだけ優しくサポートして行きたいと言っています。
 仲間と交わっていて淋しいことは、いくら尽くしても喜んで感謝の念を表現することが出来ない人達ですから、淋しくなる時も有ると言っています。
 
 この編で言いたい事は、幼い時から厳しく習慣的に鍛えれば、もっと本能の部分を伸ばせる事が出来るのではないかという事です。それは親御さんにしか出来ないのです。学校の先生は躾は親の仕事だといいますが、接し方に制限を受ける他人には躾は難しいということを親は知らなければいけません。

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