2010年10月31日日曜日

教えることは戦い


着付けが出来るようにと希望してお稽古に来られるわけですが、現実に出来るようになる人は20%もいないのです。
 現在は洋服中心で普段はほとんど着物をお召しになりません。きものを着る時は大半の人が儀礼の時ですから、留袖や訪問着というフォーマルです。フォーマルが着れなければ、お稽古に来た意義が半減しますのでフォーマルまで着れるようにする。
 そして次に出来上がりです。端的に言って下手、普通、上手とありますので、最低人前に出て行っても恥ずかしくない出来上がりにする。これが普通です。
 それからもう一つあります。よくある話ですがお稽古をしている時は何とか着れていたけれども、少し時間が経つと出来ないようになってしまったという点です。これは体で覚えきるところまでお稽古できていないからそうなるのです。
よく習うより慣れろと言いますがそれです。
それが出来ていないから辞めれば直ぐに出来なくなってしまいます。
 これは経験上でしか得られないことですから理解し難いかもしれませんが、留袖をヨーイドンで着て、5分以内で普通の出来上がりになれるように訓練をしておかなければ、必ずお稽古を辞めたら出来なくなります。
私達指導者は責任がありますので着れるという事に付いてもそのように定義付けして、最低はそのようになって欲しいと指導していました。今まで申し上げたことで理解に苦しむのは5分以内に出来るようにするということで、後は全くその通りだとは思いませんか。
そういう定義に則って言えば、お稽古に来られても出来るようになる人はごく少数であるということです。

 私は現在も出張着付で各家庭に伺っていますが、50歳以上の方は大抵習ったことがあるという人たちです。
それが現実ですから、そうならないようにしてあげるのが指導者の責任ですから懸命に頑張りました。
 そのためには本人がその気にならなければできません。その気にさせるために様々に精神論をぶちました。それが嫌さに辞めた人も沢山います。しかしいくら嫌がられても責任を全うするには、説いてやる気を起こさせなければいけません。教えるという事は戦いなのです。戦いに負けたら生徒がだめになるのです。たかが着付ですが教えるという事は凄絶な戦いなのですから、学院、教室という名を簡単に付けるなといいたいのです。
 脱税をしている者に「お前ら日本の道を歩くな」とドラマで言っていますが、簡単に学院や教室という名を付けるなと言いたいのです。

2010年10月30日土曜日

偽りか正当か


きもの着付教室は一時は目をつむって石を投げれば当たると言われたほどに沢山ありました。
 きもの着付教室の母体は小物の製作会社です。当初は自分の会社で作られた創作小物を実習販売していました。
それが教室にした方が沢山の人が来て数が売れるだろうという事で始まったのが着物教室で、大手の着付学院の母体は小物製作会社です。したがってお稽古をするにあたっては自社の小物をセットで売って、それを使ってお稽古をするというシステムになっています。
 
 着付けという実用的なお稽古事は能書きはどうでもいいのです。着ていて楽で、着崩れが少ない、そして出来上がりの姿が美しく見える、そしてもう一つは着付けをするのに時間がかかりますと着物を着ることそのものが億劫になりますので、少しでも早く着付が出来ればベストでそれ以上のものはありません。
 次に考えることは、そういう着付けをするにはどうすればよいかという事です。
 私は若いときに応援でストリッパーの着付けをしたことがあります。紐を一本も使わないのです。帯揚げは交差させるだけで結びません。唯一結ぶのは帯締めだけです。帯締めを解けば一度に脱げてしまって裾除けだけになります。その裾除けも挟み込んであるだけですから直ぐに取れて真っ裸になれます。
これは着付ける時は紐で仮止めをしておいて後からすべて紐は抜き取るのです。それでも激しい踊りをしても崩れません。
 私はビニールの紐で着付けをして踊らせたせたことがあります。それでも崩れることはありません。
 
 教える場合は一つ一つの小物にいたるまで、確かな認識を持ってもらって使用してもらうために詳しく説明をしていますが、どういう小物を使用しても大した違いはありません。小物は自分が何もしなくても勝手にやってくれるというものではありません。それを使いこなす腕がなければかえって新装小物は不便です。
 最も大切なのは技能です腕前です。新装小物を使えば早く上達するという事もありません。みっちりとお稽古をして腕前を上げる以外に、着ていて楽で、着崩れが少なく、美しい出来上がりに、そして早く仕事をするすべはないのです。
そんなことは当たり前のことなのに、これを使えば直ぐに着付ができるようになるというような説明をする所があります。
 これは騙されるというよりも経験のない人には理解できない領域ですから、こうすれば簡単でしょうと言われれば引き込まれてしまうのですね。
 だから選択する側よりも提供する側が誠心誠意をもって正しく導いていかなければいけないのですが、商業優先に指導するところがあります。
 詐欺でなければどういうシステムで指導しようと自由ですが、そういうところは何々学院や教室と謳わないで何々商店や何々会で営業してほしいですね。

参考資料

2010年10月29日金曜日

産着と宮参り


上図の産着はお客様の所に着せつけに伺った時に、今となっては大変貴重なものですから写真を取らせて頂きました。
紋の上から五色の糸で真っ直ぐ下に縫った糸と、左の方向に分かれて縫ってある二股の糸があるのが確認して頂けるとおもいます。
 二股に分かれている斜めの糸の端は赤ちゃんにつながている方で、真っ直ぐに縫われている端は神様につながっています。
 男の子は左斜め方向に縫い、女の子は右斜め方向に縫うことになっています。
これは赤ちゃんが災難にあったときは、その糸を神様が引っ張って助けてくれるという謂れから、昔は男女共に産着には必ず守り糸を縫いつけました。

 男の子と女の子の縫い方は異なっていて、女の子は男の子と逆に五色の糸を表に現れるように縫いつけます。その糸の先につながっている神様は氏神です。
最近はそういう謂れを御存知ない人が多くなっています。売る方の呉服屋も知らないので守り糸の謂れは廃ってきています。

 宮参りは無事に子供が生まれたことに感謝し、子供のこれからの無事を祈念する儀礼です。
男の子は生まれて31日目に、女の子は33日目に産土神(うぶすなかみ=氏神)に初めて参拝するもので、産土詣り(うぶすなまいり)とも言います。
 男の子は逞しく生育することを願って、富士山や鷹などの絵柄を染めた産着を着ます。
 女の子はこれから美しく咲きほこって成長して行く、春の花卉の絵柄を染めたものを着ます。
大変繊細な日本人の美意識がこういうところに現われています。
 最近は産土詣りを無視して有名な神社に参拝される人が多くなっています。
何かあった時には最も赤ちゃんに身近な氏神様が守ってくれるのですから、氏神様に参拝をしなければ意味がないのです。。
神様が守ってくれるなんて迷信で何処に行っても一緒だというのであれば、初めから宮詣りなどはしなければよいのです。
 本当に赤ちゃんのことを心配して神頼みをするのであれば、宮詣りの原点に戻って産土神に参拝しなければ神頼みにはならないのです。

2010年10月28日木曜日

夢の話


昨日は久しぶりに学院で着付を教えている夢を見ました。
 皆さんは着付けができるようにしたいとお稽古にきます。でもそれだけではいけません。折角貴重な時間とお金を掛けて来られるのですから、どの程度できるようになりたいのかという気持ちの整理が大切なのです。
それについて尋ねますと異口同音に「上手に」出来るようにしたいと答えられます。
 言うのは簡単ですがどんなものでも上手という段階になるのは容易ではありません。
何故ならば上手というのは技能だけで言えば先生と遜色のない位置に到達しなければいけないからです。
 だから「着付けぐらいと舐めたらあかんよ」「アドバイスされたことを素直に受け入れて頑張る。自分で口にしたことは最後もまでやり通す」「着付けぐらいと舐めていて、その着付けも出来ない自分は恥ずかしいことだよ」等と言うのが私の仕事でした。

 お稽古をしていて一番大切なことは素直な心です。
どんな偉大な芸術家でも最初は物真似から始まっています。
 教えられるときは先生がどういう動きをして、どういう手の使い方をしているかを素直な気持ちで見つめ、その通りの動きをする人が一番早く上達します。
 しかし着付けの場合はそれができる人が少ないのです。順序だけわかればあとは各自が思い思いの体や手の動きでやってしまうのです。
 順序だけ分かればいいのであればお稽古に来る必要はありません。今はビデオがあるのですから、それを見てやればそれで十分です。
お稽古に来るということは、ビデオでは学びきれない先生の細かい動きを見て真似るために来るのです。しかしそういう理屈が分からない人がいます。私は技能指導もしますが主の仕事はそういうことを説いて分からせることです。色々なことを説いて聞かせますが、それを聞いて素直に聞き入れる人は少数です。
 自我をコントロールできないで表出させます。お稽古に来て自我を出してはマイナスなのですが、今の人は甘やかされて育っていますので自我を自制する訓練ができていない人が多いのです。
 こういう事は着付けのお稽古に限らず何事にも共通する戒めです。
どんなものに取り組んでも自分を真っ白にして、教えられる色に染まることに努める。それが最も上達の早道です。そういう能書きをみんなに説いている夢でした。

2010年10月27日水曜日

七五三


 11月15日は七五三です。
七五三は古来の髪置き(かみおき)袴着(はかまぎ)、帯解き(おびとき)の祝いを11月15日にまとめて行うようになったものです。

・髪置き
昔は2~3歳までは頭を剃っており、3歳になって初めて髪を伸ばす儀式があります。
それを髪置きまたは櫛置き(くしおき)といいます。
髪は生命の象徴ですから大切な儀式です。

・袴着
禁中・堂上では男女共に袴をはきますので、5歳7歳になると男子は紐直、女子は帯解きと言って付け紐を外して初めて袴をはく祝いをします。武家は女子は袴をはきませんので帯解きの祝いになり、男子だけが袴着を行ったものが一般に伝承されてきました。

・帯解き
付け紐をはずし帯を締め始める祝いです。これは現在は十三参りの時に行います。
女子の十三参りは別名本身の祝いとも言われています。
この時から本身の長着を肩上げして着ます。

 こういう宮中の行事を武家も公家に倣って行うようになり、徳川綱吉の子の徳松が11月15日に行ったことが武家全般に広がり、一般庶民も行うようになったものです。
この祝いは昔は嬰児、幼児の死亡率が高かったために無事に今日までこれたこと、そしてこれからも無事に成長することを念じて氏神に祈りを捧げる儀式です。

 最近は写真館ができて写真館で支度をして戴く人が増えています。
それは合理的でいいのですが、親御さんの中には写真館で記念撮影をしただけで終わりという人もいます。
それはいかんでしょう。
 七五三は記念撮影をするのがメインではなく、氏神さんにお詣りをすることが目的です。
前回も書きましたが最近は何のための儀式なのか、何故それが大切なのかわかっていない人が増えているのが残念です。

2010年10月26日火曜日

移りゆく形



 政治の政は政=祭事という意味で、朝廷における最大の政治は神事にまつわる儀式・儀礼であったわけです。
 宗教の自由を唱えている現在では理解し難いことですが、人間世界を超越した偉大な力を発揮する神々を崇拝し、その最大の司祭者として君臨して人民に対する支配権を強めるという国策上の都合があったわけです。
 人が最高権力者であればその立場に取って代わろうとする者が必ず出てきます。
そうなれば争いは止むことなく続きますので、誰もが犯すことのできない神を頂上に戴くという政策が取られています。
 人類は農耕をはじめます。始めて判然としたことは神々の中で一番偉大なのは太陽であるというこです。そこで日本でも皇祖神として天照大神を戴いたというようにです。
 儀礼・儀式は国策上最高の政ですから、儀式儀礼に臨むにあたっては沐浴をさせて身を清め、衣服も最高のものを着装させたのです。
そういう時に着装する服が礼服です。
 天皇ご自身が臨席される場では最高の装いをする。そうでない場合は少し簡略化させた装いで済ませるというようなことが次第に行われるようになっていき、第一礼装・第二礼装または大礼服・通常礼服というような区別ができ、それに相応しい姿や形も現れるようになります。

 一般庶民でも同じことです。生まれてから死ぬまでに様々な通過儀礼があります。それらは全て祭事です。神事や仏事にまつわる儀礼時には装いを改めて礼装をしました。
それが分かると礼装は感謝と誓いの装いであるということが判然とします。
社会人になれば感謝と思い遣りの心を表現する礼服・礼装は大人としての常識として用意しておかなければいけないのです。儀礼・儀式その一環としての礼装・礼服は人の心を浄化させ豊かな生活に導くための手段の一つとして存在しています。

 神事・仏事にまつわる儀礼の場では、基本的には礼装をすることが相応しい装いなのですが、洋服が普及し生活様式が変わり、キリスト教の洗礼を受けていない者が、ドレスが着たさに教会で結婚式を挙げる。そんなことが何の躊躇も疑問もなく行われるようになってからはT・P・Oの根本精神が損なわれてきています。
 儀礼儀式の根本目的は、感謝と思い遣りの心を通い合わせ人間関係を円滑にするというものですが、文化の多様化によって根本の心が失われてきています。

2010年10月25日月曜日

旅行白川郷


高山から国道360号線を山越えしました。
国道ですが道が狭くこれでも国道かというほど細く急こう配の山道が続きました。
麓はまだまだ紅葉はこれからという緑一色の景色ですが、山頂近くでは既に紅葉が始まっておりそれはそれはきれいでした。
山には杉や檜が少なく広葉樹ばかりですから全山真っ赤や黄色に染まってあまりの美しさに絶句してしまいました。
最初に一二枚写真で紹介していますが、その日は曇りでしたので後の写真がうまく撮れていなくてご紹介できないのが残念です。

 国道360号を下りきったところが白川郷です。
城山という高台に昇りますと白川郷が一望でき茅葺の家が点在している風景は別世界を見ているようで感激です。
 郷に入ってみると既に刈取りのされた田んぼの畔に花があり、ダリアやコスモスの花越しに見る茅葺の家々は本当に心を癒される風景です。
 私たち日本人は私たちの祖先が作り上げた原風景に触れるとノスタルジーを覚え癒されます。
自然の木のぬくもりや草木の温かさを感じると農耕民族の血がさわぐのでしょうか。
古きものを大切にしてきた。それだけであれだけの人があつまるのです。
そこには可視的なものを通して非可視的な人の心を感じるからではないでしょうか。

2010年10月24日日曜日

私の着せさせて頂いた素敵な人達


今日は宮参りです。
ご両親も明石からお見えになっているそうです。
お母さんは上坂 恵美様でお子さんは麗菜(れいな)ちゃんです。
ご機嫌斜めで写真を撮らさせて頂いたときは激しく泣いておられました。
お元気な証拠でなによりです。
おばあちゃんは上阪 美紗子様です。
ご主人は映っていませんが気遣いの細やかな優しい人でした。
御嬢さんがご無事で健やかに大きくなられることを祈っています。

私はもう30年も前から各家庭に出向いて着付を行う出張着付を行っています。
今は不景気ですから留袖・訪問着=3000円、振袖は5000円でやっています。
交通費等は一切不要ですから喜んで頂いています。
ネットでしか宣伝をしていませんので知らない人が多いのでお知り合いに教えて上げてください。

2010年10月23日土曜日

高山旅行



一泊二日の旅です。
一日目は西国33カ所の満願寺である谷汲山華厳寺に行き、金華山の岐阜城に行きました。
麓には長良川の鵜飼いが行われている切り立った山の頂に岐阜城があります。
 岐阜城は斉藤道三の支配する山城であったのが、信長が支配するようになって城郭がつくられ、信長は一時ここを拠点にしました。岐阜というのは信長が名付けたとあります。
 秀吉の時代になって、後に姫路城の城主となる池田氏が収めた城で、お城は山頂にあって遠くからみれば何とも趣の深いお城です。

 岐阜城から下呂の温泉に行き一泊しました。
ホテルはテレビでよく宣伝しています湯快リゾートです。
一泊二食付で7800円ポッキリの格安です。
 経営が旨くいかなくなった所を買い取って徹底して経費を抑え安くしています。
朝夕はバイキングで夕食には様々なものが出ますので結構いけます。
二人で16000円ですから我々年寄りにはありがたい料金です。
風呂とカラオケとネットサービスと卓球が充実しています。
 湯快リゾートでは妻と卓球をするのが楽しみです。
夕食の後はラウンジにカラオケを歌いに行きますが、ラウンジに来ている人は少ないです。

 二日目は朝早くに出て高山と白川郷に行きました。
高山は江戸時代の町家が残っており小京都に相応しい趣のあるところです。
行って見ないとわかりませんが人気のあるのが分かります。
 年寄りのケチケチ旅行ですがあまりの心地よい雰囲気に酔って沢山買い物をしてしまいました。お酒も買いました。日本酒はおいしいです。焼酎がいいという人の気がしれません。

2010年10月22日金曜日

秋の七草 女郎花・撫子



女郎花

 開花期は7/25頃~10/10頃で黄色の清楚な花です。
「おみな」は女の意で「えし」は古語の「へし」=圧で、美女を圧倒する美しさから名付けられたと言われています
もち米でたくごはん(おこわ)のことを「男飯」と言ったのに対して「粟」=あわごはんのことを「女飯」いったが、花が栗粒のように黄色くつぶつぶしていることから「女飯」-「おみなめし」ー「おみなえし」となったという説もあります。
女郎花と書くようになったのは平安時代の中期頃からと言われています。
根は漢方薬になります。

撫子

6月頃~8月頃に開花します。
ピンクの可憐な花が咲きます。花は花弁の縁が細かく切れ込んでいます。
わが子を撫でるようにかわいい花であるところからこの名があります。
撫子を代表するダイアサンスの花は英名で「ピンク」の名があります。
ピンク色の語源はこの花にあるという説があります。
中国から平安時代に渡来した唐撫子に対して在来種は大和撫子と言って、日本女性の美称によく使われます。

「秋の野に 咲きたる花を 指折り(おゆびおり)
 かき数ふれば 七種の花
 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴
 朝貌(あさがお)の花」

 秋の七草は万葉集でのこの歌で山上憶良が選定して
 今日に至っています

2010年10月21日木曜日

秋の七草 藤袴



小さいピンクの花が沢山咲きます。
花の色が藤色で花弁の形が袴に似ているのでこの名があります。
全体に桜餅のような香りがします。
平安時代の女性はこれの干した茎や葉っぱを水につけて髪を洗いました。
また防虫剤、芳香剤やお茶にも利用しました。
現在はこの花を見つけるのは難しくなっています。

2010年10月19日火曜日

秋の七草 葛



 大和の国(奈良県)の国栖(くず)ということろが葛粉の産地であったところから「くず」と命名されたと言われています。
 根に大量のでんぷんを含んでいて「葛根(かっこん)解熱の漢方薬」になります。
葛粉も取れます。

 風邪をひいた時に葛湯を母から飲まされたのですが、理に適っていたのですね。

別名は「裏見草=うらみぐさ」と言います。
葉が風にひるがえると裏の白さが目立つことからそう言われています。
平安時代は「裏見」を「恨み」に掛けて和歌もたくさん詠まれています。

葛の風 吹き返したる 裏葉かな 高浜虚子

今日から一泊二日の旅行に行ってきます。
西国三十三か所の満願寺の谷汲さん華厳寺~岐阜城(金華山)~下呂温泉泊~高山~白川郷
のコースです。
私たちは今年結婚した新婚です。高齢結婚ですので沢山の思い出づくりをしてきます。
明日はブログ休みます。

2010年10月18日月曜日

秋の七草 桔梗


開花期は6月~8月頃です
漢名の「桔梗」を音読みすると「ききょう」となります。
別名は「きちこう」とも言います。紫と白色があります。

 漢方では太い根を干してせきやのどの薬にします。
薬用成分のサポニンは昆虫にとっては有毒ですから昆虫の食害から自ら守っています。

 昔から武士に好まれていまして家紋としてもよく用いられています。
今放映中の坂本竜馬の家紋も確か桔梗です。
江戸城には「桔梗の間」「桔梗門」があります。
桔梗の花言葉は清楚、気品ですからその辺の花の持つ気高さが武士に気に入られたのかもしれませんね。

 万葉集に出てくる「あさがお」はこの桔梗のことではないかと言われています。

2010年10月17日日曜日

秋の七草 薄


薄は芒とも書く。
秋の月見のおそなえとして欠かせないものです。
ススキの「スス」は葉がまっすぐにすくすく立つことを表し、「キ」は芽が萌え出るの意味の「萌(きざしのキ)」だと言われています。

 名月には収穫物と一緒に供えられるのは、収穫物を悪霊から守り、翌年の豊作を祈願する意味があります。
そういえば芒の高原に行きます神秘的なものをかんじますので、その感じ方は昔の人も同じだったのではないでしょうか。

 中秋の名月は旧暦(明治5年以前)では7月=初秋、8月=中秋、9月=晩秋を指し、毎月は1日が新月で15日は満月と呼びましたので8月15日が中秋の満月でした。
新暦では1か月後にずれますので中秋の名月は9月10日~10月10日頃の満月を指すようになりました。

2010年10月16日土曜日

秋の七草 萩


萩は秋の草かんむりなのでまさに秋の花です。
地上部は一部を残して枯死するため毎年新しい芽を出すところから「はえぎ(生え芽)」となりしだいに「はぎ」に変化していきました。

秋の十五夜には芒とおだんごと一緒に縁側において供えをする習慣があります。
あんこのおもちに「ぼたもち」と「おはぎ」が ありますが、実は同じものです

・春のお彼岸 に供えるのは、春を代表する花の「牡丹(ぼたん)」にちなんで
「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と 呼ばれ
  ます


・秋のお彼岸 に供えるのは秋を代表する花の「萩」に
  ちなんで「萩餅」→「御萩餅」→「御萩(おはぎ)」
  と呼ばれるようになった

それぞれには小豆(あずき)のあんこが
  入っています
あずきの粒は夏にできて秋の「おはぎ」の頃には柔ら
 かいために「おはぎ」は
 ”つぶあん”にします。
冬を越え春になった「ぼたもち」のときには、固くなった粒のままでは使えないので
粒をつぶして”こしあん”にするという習慣から、”つぶあん”と”こしあん”の
区別ができたということです。

2010年10月14日木曜日

お多福山


芦屋からロックガーデンの岩場を登り、お多福山から七曲を経て頂上の一軒茶屋の頂上に至る。
標高は931mで一軒茶屋があるところが最頂です。
この一軒茶屋は裏六甲に有る有馬の町に新鮮な魚を届ける魚屋道(ととやみち)の休憩所として作られたもので、今でも有馬まで下っていく登山者の休憩所として使われています。
 六甲には魚屋道以外にも石切道というのがあるそうで、六甲の花崗岩を切り出して運ぶ道です。
石屋川はそれに由来する名称で、その花崗岩を御影の港から運び出しましたので御影石という名称があるそうです。
 山は昔は信仰が対象で登られたそうですが、六甲山はそういう信仰に関係なく登られるようになった山で登山発祥の地と言われているそうです。

 私も学生の頃はロックガーデンから一軒茶屋、そして有馬に抜ける、六甲山では一番険しいルートだと言われているコースを何度か登りました。
 ロックガーデンを登って比較的平坦な道を行き、もう一度登りますとお多福山です。
そこはこの季節には薄で覆われた素晴らしいロケーションの山でした。
 その薄が一杯の素晴らしい光景を見せてあげたいと思い、妻と妻の次女を誘い薄を見に行こうと芦屋の奥池から登りました。
 奥池からお多福山までは距離は1kmくらいですが、けもの道のように細い急坂の険しい道でした。
 次女は今6か月の産婦ですから大丈夫かと気遣いましたが、ゴルフのインストラクターをしていてコースを回っているだけに一番元気でした。
 30~40分で頂上に着いたのですが、一面が薄で覆われている筈のロケーションが見られません。
 大勢の人が何か作業をしておられましたので尋ねました。
「若い時にお多福山は薄に覆われていて大変綺麗で、それを何十年振りかで見に来たのですが、この辺ではなかったですか」と聞きました。
 この辺りですが、ご覧のように長年の間に竹笹に浸食されて薄は亡くなってしまったのです。
いま私達は其れを復元しようと作業をしているところですということでした。
 そういえば曽爾高原では良い状態を残そうということで立ち入り禁止区域を設けて係りの人達が雑草を取り除いたりの作業を始終しているということでした。
山も優しい人の手が入らないと一変してしまうものだということを勉強しました。

2010年10月13日水曜日

曽爾高原



画像をクリックしてください 上図撮影 妻

大スペクタクル風景

穂を白く緩ませて全山を揺るがせている
蝶が飛び鳥らがたわむれる 人は興奮して叫び
風が葉をゆすりさらさらと音をかなでる、
ここは人の心をさらってしまう浄土界

奈良県宇陀郡曽爾村太郎路にあります
麓にはお亀の湯という温泉があり白湯で少しユルッとしている如何にも効能の高そうな温泉です
曽爾高原は11月になると穂が金色になり一段と素晴らしいながめになるそうです。

2010年10月12日火曜日

親の役割


 七草は 忍んで恋いる わが心

 妻は重度の知能障害者の介護の仕事をしています。
そういう世界の事は全くの無知の私でしたが、話をよくしてくれますので少し分かるようになりました。
 重度の障害者ですから一人で介護が出来る人数は2人ぐらいで手一杯ということです。従って介護者二人で4人の仲間を今は介護しているそうです。
 仲間達は年齢は30代ですが幼児と同じで、御飯の時も細かく砕いてあげたりとか、歯を磨いてあげたりとか、トイレに行けば拭いてあげたりとか、時には油断をすればおもらしをしてしまうということです。
 そういう仲間達の介護に付いて様々な考えがあり、先輩から指導もあるようですが、意見が分かれるところもあると妻は申しております。
 私も妻から聞いて自然と様々に考えてしまいますが、妻の意見に一理あると思っています。

 どんな生き物でも生きて行く為の本能というものを備えています。人間はその本能にプラスして知恵によって理性というものを磨いていくわけですが、重度の知能障害者はその知恵の部分が繋がっていないのです。
 例えば便ですが、便は不潔な物であって、人を不愉快にさせてしまうものでもある。だから便所でするものであり、便をしている姿を人に見せるのはしたない行為である。そう考えて理解するのが知恵で有り理性です。でも彼女らはそこにつながらないのです。

 犬に例えて恐縮ですが、犬にこの部屋に入ってはいけないと厳しく訓練をしますと、その部屋には絶対に入りません。それは知恵でそうするのではなく本能の訓練によってそうすることが出来るのです。
 犬も大事にし過ぎて甘えさせると言うことを聞かなくなります。そういうことで分かるように、知恵の部分につながっていなくても、本能の訓練によって正当な動きがもう少し出来るようにすことは可能ではないかと思います。
そのためには幼い頃から習慣的に本能を鍛錬させておかなければいけません。
 ところが親御さんは不憫に思い、目一杯甘やかせて育ててその訓練が出来ていない人が多いように思うということです。
それが現実ですから、大人になって今更厳しくしても無理ではないかという事です。
怒れば怒られていることは分かるらしく、その時は大人しくなったり、怒った人を避けてもう一人にすり寄って行くとことはあるようですが、それも本能です。
 怒られても何故怒られたのか、その事を顧みて判断して、次からはどうすべきだと考える知恵につながっていないので、いくら怒っても全てがその場限りで同じ事の繰り返しです。
 知恵があればその部分を伸ばせるようにサポートして行くのですが、そこにつながっていませんので怒ってばかりいては可哀相だと言っています。
大きく秩序を乱すようなことをした時は怒る必要もありますが、重度の人はそういうものだから仕方がないと割り切って、できるだけ優しくサポートして行きたいと言っています。
 仲間と交わっていて淋しいことは、いくら尽くしても喜んで感謝の念を表現することが出来ない人達ですから、淋しくなる時も有ると言っています。
 
 この編で言いたい事は、幼い時から厳しく習慣的に鍛えれば、もっと本能の部分を伸ばせる事が出来るのではないかという事です。それは親御さんにしか出来ないのです。学校の先生は躾は親の仕事だといいますが、接し方に制限を受ける他人には躾は難しいということを親は知らなければいけません。

2010年10月11日月曜日

介護の仕事


妻は知能障害者の介護の仕事に行っています。
これまでは土日祭日は家に帰って平日だけ終日施設で預かるという制度になっていたのですが、
親御さんが高齢になって来たので、預かっている人達を仲間と言うそうですが、その仲間たちの将来を考えて盆、正月、ゴールデンウイーク以外は施設で預かる形に制度が変わったそうです。
 土曜日曜祭日組と平日組との2班に分かれて介護をすることになり、妻は仕事場は寝屋川ですから毎日の通勤は大変ですから週末祭日班に入って仕事をしています。
土日祭日だけでなく金曜日出勤が月に2回あります。
 上からは休憩を取って下さいと指示があるそうですが、油断をするとおもらしがあったり、大きな声で叫んだりするので休憩なんか取れないと言っています。
 夜は大人しく眠ってくれたらいいのですが、仲間達は30歳代という元気のある年齢ですからなかなか寝てくれなくて、朝も早くて本当に仮眠する程度だそうです。
何か有れば直ぐに対処しなければいけませんので実質は24時間勤務の休みなしの労働です。
 それが9月は13日間で10月は14日間です。普通看護師や警察官などは24時間勤務の翌日は明けの休みというのが一般的ですからそれと比較すれば重労働です。
 13日間ですと拘束時間は312時間になります。労働基準法では週に40時間以上働かせてはいけないという条項があります。但し話し合いで承諾があればそれ以上の労働をさせてもいいとありますので、そのへんのところが労基法に違反しているのか否かは私には法律はわかりません。御存知の方がいらっしゃれば教えて下さい。
 
 現在は単純労働でも時給は800~870円位です。312時間に850円を掛けますと265200円ですがそんなに貰っていません。
これは雇い主に文句を言いたいから記しているのではありません。
 結婚をする時に俺は君を食わせていく甲斐性がない。二人で力を合わせてならやったいける。だから君も年金が入る迄は働かなしょうがないけど、それでもよいかと納得して一緒になってもらいました。妻も承知をして一緒になったのですが、妻の疲れた顔を見ると、嫌やったら辞めてもいいよと言ってやれない俺自身に腹が立ちます。

2010年10月10日日曜日

秋リゾ鳴尾浜



この分は以前に一回アップしたものですが、歌が伴奏と少しずれていましたので吹き替えました。
今カラオケボックスに行きますとCDの吹き込みが出来るのをご存知でしょうか。
CD一枚500円で3曲吹き込みできます。
自分たちで勝手に操作をします。CDは今は一枚20~30円くらいで買えますので持ち込みするか、一度吹き込んだCDを消してまた使おうと試みたのですが、ダムの機械専用になっていてそういう事はできないようになっています。うまく出来ているなぁーとかんしんしました。

2010年10月9日土曜日

ならまち散策



妻とは高齢結婚ですから出来るだけ多くの思い出をアルバムに残したいと思いあまりお金を掛けないようにして出かけています。
 奈良という町は学校時代に遠足や、妻は愛媛ですから修学旅行で来たと言っていましたが、そういうときに来たという人は多いのですが大人になって改めて奈良を散策するという人は多くないと思います。
 最近は薬師寺に代表されるように奈良のお寺も改修がなされてきれいですがまだまだ昔の風景がそのままのこされているところがあって趣の深いまちです。
 奈良まちは昔の家屋がそのまま残されていて心がなごみます。
 私達はやはり日本人ですね。昔のままの木造のたたずまいをみると郷愁が湧いて来て心がなごみます。
昔は私は赤い灯青い灯派でしたが今は見ているだけで心が和む寺院や草木を眺めている事が大好きです。

2010年10月8日金曜日

苦労した勉強


我が国の文化は衣服も含めて大陸文化の模倣から始まっています。
平安時代の藤原氏の時代になって日本独自の文化が発生し衣服も日本独自の様式が出現します。それが衣冠束帯と十二単です。
しかし依然として礼服は中国の模倣のままです。それは儀礼によって使い分けられました。
どういう儀礼の時にはこちらの衣服を着用するということも勉強しなければ教えられません。

 鎌倉時代になって武家が政権を握りますが文化上は公家生活のままで、衣服においても公家社会の衣服が中心です。
 それが室町時代になりますと武家文化が発展して衣服も武家社会の礼服が制定されます。
 武家は宮中における儀礼と武家社会のおける儀礼によって衣服を使い分けることがなされます。礼服も大礼服、礼服、通常礼服と多岐にわたって様式が出来、それもどういう儀礼時にはこれを着用するといことを知らなければいけません。
 
 江戸時代は武家中心の時代ですが三位は直垂、四位は狩衣、五位は大紋、六位以下は素襖というように身分によって着る衣服が異なります。
このように衣服は時代背景を映し出して様々に変遷していきます。そしてその衣服の一つ一つの名称の漢字が物凄く難しいのです。
 詳解漢和中字典を片手に辞書をめくるめくるばかりで前にすすめません。一文字ずつリボンをつけていきます。大変な作業です。
 一ページを読めるようにするには何十回も辞書をめくりました。それが200ページ位の本ですから大変な苦労でした。
ただ一つ救いだったのは私には衣服の形状が分かっており着付けを手がけたことがありますので、その分早く覚えることが出来たことです。


 服飾史が習得出来ましたので、これから勉強をしてみようかないう人の為に、難しい文字には全てリボンを付けて読みやすくし、理解しやすいように写真を添付して自分で解説書をまとめました。
 こういう苦労をして分かった事があります。
人には生まれつきの天才児と言う人達がいますが、そういうのは例外で人の能力というものは当初はみな同じレベルなのではないかと思います。
 知識というのもは物事に関心があるか否か、そのものを必要と強く思っているか否か、などの精神状態で差異が出来てしまうだけなのです。本当に必要に迫られてやるぞという気持ちになれば、誰もが知識人に成れるのです。
成績は自主性と情熱で決まってしまいますので、親は子供を甘やかさないで自主性のある子供に育てる事が大切ですし、勉強はやろうと思えば年齢に関係なくやれますね。


参考資料ここをクリックしてください

2010年10月7日木曜日

苦労は買ってでも


駄目で元々と考えて私は時代衣裳の着付専門学校を大阪で開校しました。
 一年目は思ったよりも経営的に好調でしたが、二年目になって残った生徒は3人だけで、それからというものは大変苦労しました。 
 先ず一つの苦労は生活費と運営費をどう捻出するかという経済的困難です。それだけでなく私にはもう一つの大きな問題がありました。
 私はただ着付けが出来るというだけで始めた学院ですから何の理念もありません。また理念を掲げる理性も持ち合わせていませんでした。
 人様に教える仕事ですから、生徒の皆さんは私を先生と呼んでくれます。
呼ばれた私は先生と呼ばれることで生業としていますので、実際は先生と呼ばれる度に穴があったらそこに逃げ込みたい気持ちでしたが、グッート踏ん張って平静を装って「はい」と答えていました。
 昔の知り合いに会いましたも、今は学院の経営者になっている立場ですから皆は先生と呼んでくれました。決して冷やかしで言っているわけではないのですが、照れ臭くて仕方が無いので「その先生と呼ぶのはやめてくれ」と頼んでいました。
 自分は人様から先生と呼ばれるに相応しい人材ではないとことを自覚していました。だからこそばく照れ臭かったのです。これを解決するには勉強して教養を高めると共に、人間性を高める以外に方策はありません。3年目くらいから懸命に勉強をしました。
 
 一つは専門的な着物の知識を広める勉強です。もうひとつは人生哲学です。
 生徒の皆さんはわざわざ貴重なお金と時間を使ってお稽古に来られます。何のためにお稽古をするのか。
「皆には綺麗に着れるようにしましょうね」と激励をしますが何のために綺麗に着る必要があるのか。
お金を何のために使うのか。何のために勉強をするのか。学校の成績は何で決まるのかなど、様々な事をこれ以外に答えはないというところまで考え抜きました。
 
 十年ひと昔とか「お前にはまだ十年早い」などとよく言いますが、懸命に勉強して頑張っても一人前になるのは最低10年はどんなものでも掛かりますね。
 それくらい経ったころに確固たる理念と信条が持てるようになり、先生と呼ばれてもこそばく感じることがなくなりました。
 以前にも記しましたが死に物狂いで頑張れば大抵のものは何とか形になってくるものです。
 若者達よ頑張って下さい。頑張って他に与えるものが大きいほど、自分も得るものが大きく人生の充実につながります。その図式は不変の図式であることを分かる人になって下さい。

2010年10月6日水曜日

秋が来た


  きらきらと 穂をなびかせて ゆれうたい

暑さ寒さも彼岸までと誰が言い出したのかしらないが
彼岸がやはり秋をもたらせた
芒は穂を輝かせて風になびいている 空は高く青い
女郎花も咲いた くずも花をつけた 藤袴だけは見えない
七草はなぜか清楚でさびしいが風情は爽やかで
心をなごませる
秋の風情は何かしなければと意欲をかきたてる
この心地よさを何かにむけて頑張らなければ
神に申し訳ない気持ちだ
古代の人達も同じように感じたのだろう

2010年10月5日火曜日

礼装と礼服



明治新政府が開府されてそれまでの武家の服制は全て廃止となります。
公家社会の服制も天皇家の諸行事用の服として残存しますが公の場では着用される事はなくなり、明治5年の衣服令によって服制が制定されます。
その結果明治15年に紋付羽織袴が通常礼服として復活しますが、それ以外は和服は全て廃されて洋服一辺倒になります。
 礼服には大礼服と通常礼服があり、武官着用のものと文官着用の衣服が制定されます。
戦後になって明治に制定された服制は改正されます。
戦前はフロックコートは文官の通常礼服でしたが、フロックコートは廃止され、その代わりとして本来は午前中にだけ着るものであったモーニングが通常礼服として用いられるようになります。
現在は第一礼服は燕尾服で第二礼服はモーニングになっています。盛装はタキシードです。
女性は第一礼服はロプ・デコルテです。昼はロプ・モンタントです。
盛装はアフターヌンドレス(昼)・イブニングドレス(夜)・カクテルドレス(夕方~夜)です。
 礼服と言うのは朝廷並びに政府における重大な儀礼時に着用する衣服ということです。
現在は朝廷における儀礼というのは一般人にはありませんので、政府主催の重大な儀礼の場で着用する衣服ということになります。
 皇室の皆様は公の場には必ず洋装で出席さら和服は一切着用なさいません。それは明治に定められた衣服令に則って装いをされておられるからです。
 明治を迎えて官職に就いていない一般の人は公の場に出ることはありません。しかし一般人にも重大な通過儀礼があります。その重大な儀礼の場には前時代の最高の衣服であった紋付の裾模様を儀式用として着用しました。
それが現在の留袖です。
礼装と言う言葉には礼服を着用した姿という意味と、儀式に最も相応しい衣服という意味があります。
留袖は後者で儀式に最も相応しい最上の服ですから礼装もしくは正装と言われています。

2010年10月4日月曜日

幸せの共有



主人は仕事人間でウイークディーは夕食も家で食べることは稀である。
 会社では責任のある仕事を任されており,仕事は順調で上司や部下からの信頼も厚い。
 本人は遣り甲斐のある仕事に従事しているから,仕事が楽しい生き甲斐だと思っている。
そんな人だからギャラも沢山貰っているので経済的に恵まれて、家族の者は近所の人達と比べれば少しは贅沢な生活が出来ている。
多くの奥様方から見れば羨ましい家庭だと思う人も多いのではないでしょうか。
 ご主人は他者に自慢できる社会的地位のある人ですから誇りに思っている。
そんな力のある主人だから家庭を顧みない人だけど仕方が無いと諦めている。

 私は今はアルバイト的に元の仕事に関わっているだけで現役を退いて妻と二人で細々と生活をいているのですが、この年になって頑張っている人を拝見すると、頑張っていることはよいことですが、少し改めないといけない所も見えてきます。
 妻というのはイコール自分自身でしょう。自分だけ楽しみを追求してよいのは独り身の時だけです。
結婚をして家族が出来れば、家族全員が幸せでだと感じてこそ自分も幸せになれるわけです。
 自分だけが楽しいと感じていても妻は経済的な事を考えて我慢、辛抱している状態は幸せな状態とは言えないでしょう。

 ある知り合いの人が脱サラをして自分の夢である商売を始めました。
奥さんは経済的なことを考えて前向きに手伝っています。やらなければ仕方が無いからです。
だけど夫は妻は夫の夢を共有して頑張るのが当然と考えているところがあります。
 妻は大切な夫が始めた商売で、家族はそれによって生業として行かなければいけないのですから頑張っています。其の頑張り方は自分達の経営ですから気配りの細やかな頑張りです。
 それを見て夫は自分と同じく楽しんで仕事をしていると考えるのは男のエゴやでと、親しいから言ったことがあります。
 旦那は自分が好きで始めた事業ですから頑張るのは当たり前でやっていて楽しいでしょう。自分が楽しいから妻も喜んでいると考えるのは拙い考えです。自分の夢の為に引っ張り込んで苦労を掛けて済まないと言える人間でなければいけないのです。
 仕事は前向きに頑張って儲けなければいけません。儲けなければいけませんが同時に、何のために儲けるようにならなければいけないのか。肝心の根本をそれ以上に認識しておかなければいけないと思います。
 家族全員が幸せになれるように、多くの人々が幸せになれるように、そのために全ての物事は存在するのだという認識をもって仕事をしなければ、独りよがりの思考は駄目なのです。
何のために物事が存在するのか。そこが一番大切なのだという思考で、様々な開発を手掛けなければ多くの人達に受け入れられるものはできないでしょう。

2010年10月3日日曜日

河村名古屋市長頑張れ



市民税の10%減税を提唱したが議会で否決されたので、議員報酬半減と合わせてリコール活動を始めた河村市長ですが、リコール法定数の36万人をはるかに越えて43万4488人の署名が集まっているそうです。
 やりますね河村市長万歳です。
今後どう推移するか分かりませんが多くの市民は河村市長の意見に賛同しているという事です。常識で考えれば支持して当たり前でしょう。
 大阪の橋下知事も河村さんの姿勢に応援をしているようで嬉しいです。
長年の積み重ねで行われている政治ですから変革することは難しいかもしれません。
しかしそんな常識論をぶっていては改革はできません。
この借金まみれの財政は少々の制度改革ではどうにもならないことは誰が見ても明らかです。
次代の子供たちに付けを回さないためには平成大改革が必要でしょう。
 橋下さんや河村さんが行おうとしていることはその先駆けとなるとおもいますので嬉しいのです。

 民主党も議員削減や報酬カット等を訴えていますが、実行する気配がありません。
何をおいても議員削減を実行に移せば国民は納得するでしょう。それに反対すれば反対した党は選挙で確実に負けますので、身を削る覚悟さえつけば実現はそんなに難しくないでしょう。
何故行わないのか。
二言目には「国民のために」などと言っていますが、真に国民の事を思うのなら、国民から見てよくやってくれたという改革を先ず一つ行うことが肝要ではないでしょうか。

2010年10月2日土曜日

我が町リゾ鳴尾浜の庭



総体的にサラリーマンの方々は花を愛でるという機会は少ないのではないでしょうか。
時にはゆっくりと花でも見に行く心のゆとりを持って下さいね。

2010年10月1日金曜日

目標のない人生はつまらない


 十三人の刺客を見てきました。
暴君である将軍の弟が次期老中候補に挙がっている。
そんな暴君に政治を任せるわけにはいかないので,そうなる前に暗殺するという物語です。
 昔の七人の侍を彷彿させるような迫力満点の殺戮場面が延々とつづく映画で面白かったです。
 殺される殿さま役はスマップの稲垣五郎で、その殿さまが殺される前に、これまで生きて来て何にも面白く無かった、今日が心が躍って一番面白かったという台詞が大変印象に残る映画でした。
 一藩の城主に収まっているのですが、国を動かせる立場でもないし、藩政は藩の上司が取り行っていて殿さまは蚊帳の外です。女は自我のままに自由になるし贅沢はし放題ですが目標が無いから面白くないのです。
 お金があれば何でも出来る。お金が欲しいと思っている人は沢山います。
 世の中は何だかだと言ってもお金が一番と言う人も少なくありません。そういう人達からすれば羨ましい限りですが、真実はその殿さまの台詞の如く、お金があっても何の目標も無い人生はつまらないと思います。

 幕末の高杉晋作も辞世に句に「おもしろき こともなき世に おもしろく」と残しています。
高杉晋作は上司ですからそのまま幕政が続いていたとしても生活には困らないで生きて行けた立場の人です。
だけどそんな生活では晋作にとっては「おもしろき こともなき世に」なっていたでしょう。
ところが松陰に会って生きて行く目標を得て大活躍し「おもしろく」にしてしまいます。
 彼らにとっては自分の命の長短なんか関係ないのです。世の為、国の為という目標に向かって活躍することが最高の「おもしろく」なのです。
高杉晋作の句の「おもしろく」は己の心が躍る楽しさというよりも、同志と共に国を良くすることに奔走する、そして良くなりそうな「おもしろく」であったのではないでしょうか。
 
 誰もが自分の人生を「おもしろく」にしたいとおもっています。でも自分の事ばかりを考えて生きている時は「おもしろく」は得られません。世の中はギブ・アンド・テイクで他に与えるものが大きいほど自分も「おもしろく」を得られるようになります。この図式は経験をしなければ理解しがたいので説得力に欠けてしまいます。