2011年4月30日土曜日
原発事故の倍賞免責に言及
プリメラ
29日の衆院予算委員会で、福島第1原発事故を巡る東京電力の賠償責任免除を求める質問を自民党の吉野正芳氏が行ったということです。原子力損害賠償法には「異常に巨大な天災地変」時は免責する規定があり、吉野氏は「莫大(ばくだい)な災害が起きた場合に東電の責任を無視して全部国がみる規定になっていると言及しています。
またそれに関連して東電側の清水正孝社長が28日に「そういう理解があり得る」と述べるなど、免責条項の適用を求める姿勢もちらつかせているということです。
疎開をされている方、農作物や畜産で被害を受けた方、また仕方なく事業を中止されて疎開をされて苦しんでおられる人達が、こういう記事を見ればどんなに落胆されることか、可哀想すぎます。
物事には絶対はありえない。それは分かっていても一つ誤ればお金では解決の出来ない悲惨な事態を招くものについては、あえて絶対を求めて備えを十分にして置くことがまともな考えではないでしょうか。
そういう観点からすれば原発には想定外はあってはいけないのです。
それでは設備投資にお金が掛かりすぎるというのであれば、リスクの大きい原発は一から考え直さなければいけないのではないでしょうか。
kwhのコストは石炭は5.0~6.5円で原子力は4.8~6.2円とある書物にありました。単純にコスト比較をしますと私達素人目で考えれば石炭でも対応できるのではとおもってしまうのですが、そういうことをもう一度原点に返って国民の前に示してほしいですね。
2011年4月29日金曜日
きものが作法を変えた
上記左図は小袖姿で身丈は対丈であることがわかります。
きものの丈が長くなって屋内で裾を引いて着るようになるのは元禄期以降です。それまでは男性と同じように女性も対丈に着て衣紋も抜かない着装をしていました。
裾を引くようになりますと身幅が広いと足捌きが悪いので反物の幅が狭くなります。当然のことながら身幅も狭く仕立てるようになります。右の二枚の図を見て頂きますと、上級の女房も一般庶民の女性も男性のように「胡坐」「立膝」で座っています。
日本の文化は大陸の模倣で始まっています。中国や朝鮮では今も女性は立膝ですから、日本人もそれに倣って男性は胡坐、女性は立膝というのが一般的な座り方だったのです。そのことを上図は証明しています。
裾を引いて歩くようになってから身幅が狭くなり、反物の幅そのものが狭くなりますが、それ以前は反物の幅が42cmくらいありましたので身幅が広く、その上身丈は対丈ですから、胡坐や立膝で座っていても前がはだけて見苦しいということがなかったのです。
身幅が狭くなると胡坐や立膝では前がはだけて見苦しいので、座礼は男女共に正座をするようになります。 公家の女房も普段は袴を穿かなくなったことも正座を促す一因になったのではと思います。
映画や演劇では男性は江戸時代以前は胡坐で、そのままの姿で描いていますが、女性は胡坐や立膝の姿では女らしさが出ないから、作法の面では時代考証を無視して描いているのだと思います。若い監督ならそういうことを知らない人もいるかも知れませんね。
お茶は村田珠光が開祖となって室町時代から行われているのですが、正座が普及する以前はどういう形で茶事をやっていたのでしょうね。そういうことを解説している茶人はいますか。皆さんの中で知っている人がいらっしゃったら教えて下さい。
2011年4月28日木曜日
白色
冠位十二階の制において冠の色で位階を示すようになりました。
徳(とく)、仁(じん)、礼(れい)、信(しん)、義(ぎ)、智(ち)に大小を設けて十二階としたわけですが、白色は義の臣下の色として用いられていました。
その後奈良時代の大宝律令(701年)によって服制が改められ服色によって階級が表現されるようになり白色は臣下の色から姿を消します。
白昼という言葉があるように白色はさんさんと輝く太陽の色、即ち天皇を象徴する色として扱われるようになります。
白はまた清浄な色として神事に欠くことの出来ない神聖な色として扱われるようになります。
現在は喪の色と言えば黒が一般的ですが、黒が喪の色として普及するのは大正年間以降でそれ以前は白でした。
結婚式も喪服も白色ですが、吉事の白色は地に地模様がある者を使用し、喪の場合は無地を用いました。
目にし手にすることの出来る事物の全ては生活を豊かにするためのものであり吉事に通じす。したがっておめでたいときには大自然の力にあやかるという事で地模様のある白を用いましたが、凶事の時には無地を用いたわけです。
時代劇を見ていますと大名や高貴な役職者は襦袢の襟に白色を用いていますが、下級の武士は鼠色を用いています。また町人は一般的には黒色の半襟を付けています。
これは白色は高貴の人の用いる色で下級者は用いることを禁止されていました。
下級者が白色を用いていて罰せられたという逸話も数々あるそうです。
2011年4月27日水曜日
(人生の思い出No3の附則その一)
人生には辛いこと苦しいことは多々ありますが、どんなに生活が困窮していても幼い頃はそれが辛いと思う事はありません。
親は十分なことがしてやれないからと思い悩む事はあるでしょうが、子供は全くそういうことは分かりません。私の妻は4人の子供があり上の子が10歳の時に離婚をしています。
親や兄弟に頼ることなく苦労して子供を育てています。
当然貧しく子供たちにはひもじい思いをさせたと回顧していますが、子供たちは自分たちの家は貧乏だったとは思っていなかったようだと話しています。
それは私も同じで親父が働かない人だったから私の家も大変貧乏でしたが、子供の頃はそんな感じ方はしなかったです。
貧乏なんてことは比較論であって、大きくなって様々に欲望が募ってから感じることであって、毎日食べれて遊べている子供の頃はそういう事は感じません。
ただ食べて行く事は大きくなれば自分の力で行わなければいけません。
食べるためには働らかなければいけません。その働きは学歴や能力によって職種が異なり、収入も異なって差異が生じてきます。
人間は欲深い動物で欲望を抑えることは難しいのが現実です。自分の力では入手困難な物にもあこがれをもち執着心を強めたりします。その欲望が実現できなければ自分は駄目な人間だ、貧乏だ等と悲観してしまい、自分の人生を暗いものにしてしまいます。
物なんてものは自分の生活を豊かにする小道具や大道具であって、そういう物が無くても心豊かに過ごす事は可能で、そういう人生が送れればそれが理想の生き方です。
ですから仏教では「色即是空」何事にもこだわるなと教えています。
2011年4月26日火曜日
(人生の思い出No3)
人生の記憶は小学校の高学年くらいからは一本の線になって覚えていますが、それまでの記憶は断片的に記憶しているのが一般的ではないでしょうか。
そんな中で幼少の頃の記憶がほんの一コマですが覚えているものがあります。その一つが、誰かに抱かれて竹藪の中にある防空壕の入り口から空を見上げてアメリカのB29の空襲を見ている記憶です。
私は1942年の一月生まれで、父母は大阪近辺から遠くに住まいしたことがないみたいですから、恐らくそれは1945年の3月から始まった大阪大空襲の一コマではなかったでしょうか。
1945年の8月15日正午に玉音放送があり終戦が告げられました。その年の3月13日14日 ・6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・堺大空7月10日・京橋大空襲8月14日でその京橋大空襲は大阪城の京橋寄りに兵器の生産工場があったのでそれを空爆したものですが、強風で流されて京橋を空爆したといわれています。
父母は私の知る限り京橋方面は全く縁のない人ですから、私の見たB29は8月14日以外の大阪空襲の一コマであったのではと思います。
その時私は3歳になっていましたので、あたふたと防空壕に逃れる人の慌ただしさ、その一コマだけ脳裏に焼き付いて記憶しています。
その当時父母は食べ物のことや住まいのことで、定住することなく転々とした生活であったようです。
私が明確に現在までつながる記憶を持つようになったのは小学校の4年生ぐらいからで、それ以前の生活は全く記憶に残っていません。
2011年4月25日月曜日
2011年4月24日日曜日
小袖の語源
2011年4月23日土曜日
2011年4月22日金曜日
(人生の思い出No2の附則その一)
私達の子供の頃は洗濯機や掃除機などの電化製品はありません。
洗濯も洗濯板を使ってタライで手洗いです、当然時間が掛かります。
朝は家の掃除をして朝食の後片付けをして、洗濯をして終わればもう昼食の時間です。
昼食を子供に与えて後片付けをしますと夕食までは少し時間が空きます。
それから夕食の支度までは内職です。
一つ仕上げて何銭という単位の手内職を貧しい家の人達はしていました。
夕食を終えて後片付けが終わればまた寝るまでは内職です。
その内職を手伝った覚えがあります。親は私達を育てるために必死で働いていました。
母は何時寝ているのだろう。子供ながらに不思議に思い、またあまりの母の苦労に切なくなった覚えがあります。
当時は今のように核家族ではなく、子供の少ない家でも最低3人の子供がいました。
この世に生まれてきた限りは、楽をして楽しい生活を送りたいという思いは何時の時代も変わらないと思います。
そういう気持ちは今も昔も変わりませんが、当時は男は家事を手伝わないのが普通で、女性は本当に忙しく働いていました。
今の若い女性ならストレスを溜めて狂ってしまうかもしれません。そんな過酷な状況下でも子供を虐待するというような話をあまり聞いたことがありません。
子供は目に入れても痛くないという感情は今も昔も変わらないと思います。それが現在は昔と比べると比較にならない程に楽なのにストレスを溜めて虐待をしてしまう。
恵まれ過ぎた環境で育てば人間は軟弱になってしまう事を証明しています。
2011年4月21日木曜日
宮参り
2011年4月20日水曜日
人生の思い出No1
親父は働くのが嫌いな人で私が物心をついた時から、母は外に出て商売をしており親父が家にいて家事を担当していました。
私達の子供の頃と言えば昭和の20年~30年前半の頃で、近所ではお金持ちの家が見当たらないというように、総体的にみんなが貧しい生活をしていました。
自分でも自分の家は貧乏だとは思ってもいませんでしたが、少し大きくなって自分の家庭を振り返れば貧しかったのは確かです。
そりゃ大黒柱であらねばならない親父が働かないから当然です。
そんな貧しい中でも子供の成長だけが楽しみという感じで、母は懸命に働いて私たちを大切に大事に育ててくれました。
戦前に軍歌ではなく兵隊歌というのがあり、次のような歌がありました。
1 お国の為とは言いながら
人の嫌がる軍隊に
召されて行く身の哀れさよ
可愛いスーちゃんと泣き別れ
2 朝は早よから起こされて
雑巾がけやら掃き掃除
嫌な上等兵にゃいじめられ
泣く泣く送る日の長さ
3 乾パンかじる暇もなく
消灯ラッパは鳴り響く
五尺の寝台藁布団
ここが我らの夢の床
4 夜の夜中に起こされて
立たなきゃならない不寝番
もしも居眠りしたならば
ゆかなきゃならない重営倉
5 海山遠く離れては
面会人とてさらに無く
着いた手紙の嬉しさよ
可愛いスーチャンの筆の跡
軍歌というものは兵士や国民の戦意高揚を国策として出来上がったものですが、兵隊歌は兵士達の生活の辛さを慰めるために歌ったもので、軍務や上官に対する不平不満を歌ったものが多いようです。
軍部や上官への批判は許されませんが無礼講の慰労会などでは将校も大目に見たようです。
母は明治生まれの人ですからそういう歌はよく知っていて、私が進という名ですから兵隊歌を真似て「すうーちゃん」と愛称で呼んでいました。「すすむ」と呼ばれた記憶がありません。
2011年4月19日火曜日
2011年4月18日月曜日
足袋の文数
家康が寛永通宝を作ったものの中国の貨幣が強くて一向に通用しないので仕方なくお触れを出して寛永通宝を使え、ついては草履、下駄、足袋はすべてこの寛永通宝を単位として表現する。一枚で一文、十枚で十文とすると決めてしまいました。それから足袋は文数で呼ばれました。
足袋はcmで表されるようになるのはそんなに古い話でなく、それまでは専ら文数で表し、一文は2.4cmですから私は26cmですから11文半を履くなどと言っていました。
昔の公家の履物は靴、履、沓(いずれもくつ)でしたの襪(しとうず)という指のないひも付きのものでした。
足袋に親指の股が付くのは高貴な人が草履を履くようになってからで、江戸時代は一般庶民は礼装時以外は足袋を履くのを禁止されていました。
明治になって一般の方たちも足袋を履くようになり足袋にこはぜが付けられるようになりました。
こはぜは明治10年位からだと文献にあります。
2011年4月17日日曜日
イカと新タマネギの炒め物
2011年4月16日土曜日
男の料理 なます
2011年4月15日金曜日
西宮広田神社のこばのみつばつつじ
広田神社のツツジです西宮市には阪神球団が毎年春先に必勝祈願に参詣している広田神社があります。
この神社は阪神が参詣するようになって綺麗に整備され有名になりましたが、それ以前から「こばのみつばつつじ」が群生していることで有名でした。
境内は整備され見違えるようにきれいになりましたが、ツツジが群生しているところは自然のままに保護されています。
この神社は阪神が参詣するようになって綺麗に整備され有名になりましたが、それ以前から「こばのみつばつつじ」が群生していることで有名でした。
境内は整備され見違えるようにきれいになりましたが、ツツジが群生しているところは自然のままに保護されています。
2011年4月14日木曜日
椿
2011年4月13日水曜日
(人生の思い出No1の附則その4)
小学生や中学生を持つ親は皆さん子供の成績が上位であって欲しいと希望しています。
お金は偉大な力を発しますのでお金は有るにこしたことはない。いやもっと積極的にお金は大切だと考えている大人は多いのです。
そのお金は学校の成績に大いに関わっていますので、自分の子供は成績の良い子供であって欲しいと思っているわけです。
現在韓国や中国の富裕者層では同じ思いから教育熱は凄まじいと聞いています。
何処の国の親も同じ考えなのですが、それでは「学校の成績は何で決まるのですか」と質問をしますと即答できない人が沢山います。
そんなことではより有効的な指導は出来ないでしょう。
学校の成績は記憶力で決まります。数学の応用問題でも塾などでは積極的に問題に取り組ませて、この問題がこの法則と数式を組み合わせれば解けるという事を覚えさせます。様々な問題に慣れさせて記憶させるという形式をとっています。
学校で習ったことを確り記憶している子供が良い成績が取れます。これ以外にありません。
それではその記憶力はどうして培われるかと言えは、それは集中力と持続性と自主性です。
自主的に集中して勉強の出来る子供は記憶力が高まり必ず良い成績が取れます。
その集中力や自主性は親の躾による生活習慣が大きく影響します。
食事をするときは頂けることに感謝して、姿勢を正し作法に則って頂く。そういう生活習慣によって静止して集中することが磨かれていきます。
昔の人が作法にやかましかったのには、それだけの訳があるのです。
現在の親はそういうことの大切さを無視して、お金を掛ければ賢くなるように思っているところに問題があります。自由奔放に育てて仮に成績は良い子に育ったとしても、そういう子供はどこか精神的に不足した子供に育ってしまいます。
2011年4月12日火曜日
(人生の思い出No1の附則その3)
銘々膳からちゃぶ台にと食卓の形態が変わりますが作法は大きくはかわりません。
勿論座り方は正座です。
私達は大自然の偉大な力によって食材にありつけています。また食材を苦労して作ってくれている人もいます。これは食器も同じです。植物も生きています。
私達はそのように生きているものを戴いて生活できていますので、そういうものに先ずは感謝の意を捧げるために「頂きます」と言ってから食べます。
皆さんはお箸と御茶碗どちらを先に持ちますか。お茶碗ですよ。
お茶碗を先に持って、右手でお箸を上から持って、左の椀を持っている中指に箸を挟んで、右手を滑らせるようにして箸の下に回して箸をつかみます。
ご飯と御汁は昔はご飯を先に一口頂いてそれから御汁を戴くという順序でしたが、最近は御汁を先に頂くという所も多いようです。先ずはご飯と御汁を頂いて、それから出ているものを先に一口ずつ頂いたから後は好きに頂くというのが順序です。
箸休めをするときは必ず箸置きがあればそこにおきます。なければ箸袋を結んでその中に箸先を入れて置きます。
私の親は家は貧しかったですが明治生まれの人ですのでこういう事にはやかましくキチットするように注意を受けました。
最近は大人がこういう作法を知りません。知りませんが子供には「頂きます」は教えっているようですが、なぜ「頂きます」を言うのかは知らない大人がいます。そういう事によるマイナス面が大きく出てきています。
2011年4月11日月曜日
2011年4月10日日曜日
南瓜とほうれん草 男の料理
2011年4月9日土曜日
熊野三山巡り
ここをクリックしてください
西国33個所巡りをしています。
那智の青岸渡寺に行きました。
青岸渡寺の庭からは那智の滝が見え神々しい雰囲気が高まる素敵な所です。
青岸渡寺は西国の一番札所です。
一日目は国道168線を南に下って先ずは日本で一番長い谷瀬吊り橋を怖い怖いと言って渡りました。
それから十津川にある野猿に乗り、熊野本宮に行きました。
熊野は熊野本宮と熊野速玉大社、那智大社が熊野三山と言われております。三社をお詣りすると前世の罪悪は解消され、現世の利益、来世の極楽往生を約束されるということで、昔は蟻の熊野詣でと言われたくらいに多くの人が参詣しました。
一日間はそれで湯快リゾート勝浦に宿泊です。
ホテルは立派でした。
全室が海に面しており、ロケーションもよく食事の贅沢を言わなければ一泊2食付で7800円ですから安いです。
翌日は青岸渡寺と那智大社に行きました。那智の滝は水量が少ないと言っていましたがなかなかの迫力です。
それから5時間かけて紀三井寺に行きました。紀三井寺は桜の綺麗な御寺で南紀は既に満開で、花と伽藍がマッチし海南の海も見渡せるこれも素敵な寺院でした。
2011年4月8日金曜日
人生の思い出No1の附則その2
日本の食卓は明治までは銘々膳です。
家父長が一番上座に座り、左右に居並んで食べるという形です。
食事をするときは話をすることは許されず、家父長が一方的に話したとあります。
ちゃぶ台が普及するのは大正から昭和にかけてです。
ちゃぶ台が普及してからは大きな器に盛って共食をするという事がなされるようになり、器も大きいものが普及したとあります。そして丸いちゃぶ台ですから上下がやかましく言われなくなり、家族団らんで話をすることが増えたとあります。
ただし食事を頂く時は家族全員が一緒に頂くと言うのが原則でした。
そういう習慣が崩れだしたのは戦後からです。
家父長制がなくなり男女同権がうたわれ、女性の地位の向上と反比例するように父親の威厳が削ぎ落とされるようになり、ついには父親の威厳が失墜していきます。
それによって子供は父親の前で萎縮しないようになり伸び伸びとしてきましたが、それに伴って親の意見が子供に届かなくなりました。
子供の教育には畏敬の念を抱いている父親の存在は重要なのですが、畏敬の念を抱かなくなったために好き勝手な思念を抱く子供が増えました。
子供の教育にとっては大きなマイナスです。
亀の甲より年の功という諺があります。一般的には子供よりも大人の方が知恵は上です。
子供にとっては最高の教科書である親の言葉が子供に届かないのですからマイナス面が生じるのは当然です。
親の威厳の失墜が学校の先生の威厳の失墜につながっていき、それが子供たちに大きなマイナスとなっています。 子供たちにとっては優しくて接しやすい大人が最高でしょうが、子供がやりやすくなるということはそれだけマイナスが大きくなるのです。そういう原理原則を大人は知るべきです。
これには女性の配偶者蔑視が大きく影響しています。そしてそれ以前に軽視蔑視されない男自身の男づくりが大切でしょうね。男が威厳を持って一本筋の通す社会が子供たちを立派に育てます。
昔のように亭主関白になるというのではありません。
2011年4月7日木曜日
小袖
A=唐衣裳 B=袿 C=小袖袴 D=はつき E=湯巻
きもの、昔は小袖と呼ばれていたのですが、その小袖は貴族の間では当初は肌着として着用されていました。
十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。
政権が武家に移行すると公家の力が減退し、それに伴って衣服の簡略化が進みます。
室町時代になりますと、小袖袴(こそではかま)のように上に衣(きぬ)をはおらない形、また「はつき」と言って袴を穿かない姿、湯巻と言って小袖に裳(も=裙ひらみ)を付けただけの姿も女官たちの服装として認められるようになります。そうなりますと肌着として用いられてきた小袖は露出する部分が多くなります。
洋服のTシャツが肌着として用いられていた時は白色であったものが、表着として用いられるようになりますと色が付けられプリントものが大勢を占めるようになったのと同じで、小袖も白であったものに色や柄が付けられるようになります。
時の支配者層は小袖を肌着として用いていましたが、庶民はずーと小袖を表着(うわぎ)として用いて来ました。安土桃山時代になりますと、その庶民の小袖と上級者の小袖が表着として着用するという点で合流をして、安土・桃山時代からは小袖中心の時代になります。
小袖中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖で過ごすようになるということで,現在NHKの大河ドラマ 「江」はその小袖が衣服の中心になった時代のドラマで す。
ドラマ「江」では打掛姿が上級者の姿として出てきます。別名は「かいどり」ともいいます。
「はつき」というのは小袖に衣を羽織った姿ですが、その姿を真似て武家の女房達が小袖の上に小袖をかさねて礼装として採用しました。それが打掛です。
2011年4月5日火曜日
竹
2011年4月4日月曜日
原発再考
福島原発の2km範囲に住まいする女性が「東京の人達の電力を確保するのに、私達が何故こんなに苦労を強いられなければいけないのだ」と物凄く怒っていました。
人々は助け合い経済は巡り巡って成り立っていますので、その奥さんの言葉は理不尽で馬鹿と違うかと罵倒する人がいるかもしれませんが、現実に苦労を強いられている人達からすれば、無理のない言葉であると思います。
一般人は皆そういうもので理屈で生きているわけではありません。
農家の人達が丹精込めて作った農作物が汚染されていて食べれない。学者は私のような阿呆では到底理解できない様々な単位で汚染の度合いを説明しています。
一年間食べてもCT撮影を一回行った程度の被曝と説明しています。学者は大丈夫だと言っていますが、ならば汚染されている作物を現実に毎日食べて見せてくださいと言えばどうするでしょう。
様々な単位を並び立てて安心を唱えており、それを証明するためのパフォーマンスとして一二度は食べて見せても、おそらく毎日は学者は食べないでしょう。
いくら安心だと言われても毎日食べなければいけないのですから普通は食べれたものではありませ。
我々一般人は難しいことは分からないけれども、原発事故が起これば悲惨な状態に陥る事だけは分かっています。原発は大きな事故を起こせば今以上の惨状となるのです。絶対に安全だということは、これこそ絶対にないのですから、絶対に安全を確保するには原発を廃止する以外にないのです。
今私達は原発が無ければ電力は賄えないのだと原発神話に洗脳され過ぎていませんか。
化石燃料で十分に賄えるという知識人もいます。
先日NHKの朝のラジオ番組で評論家の内橋さんが以前から原発建設推進に警鐘を鳴らしていると言われていました。そういう知識人は原発が無くてもやっていけるという裏付けの思案を持っておられからそのように言われるのだと思います。
私などは今更どうなってもいいのですが、時代は子供や孫へと先々に引き継がれていかなければいけません。ここで終わりは許されません。先々まで安全で安心して生活していける環境を残す義務があります。
ここらで一度発電について国民全体で考えて行かなければいけないのではないでしょうか。
化石燃料で十分に賄えるという知識人もいます。それが可能ならばその方がいいのに決まっています、
ただ化石燃料で賄えるか否かは私にはわかりません。もし賄えるとしたらそこに重点を置いていないのは何が不都合なのか、明確に国民に知らせて欲しいです。
化石燃料で賄えてもCO2等の問題があってコストが非常に高くなる。高くなれば生産コストに跳ね返るから経済競争に勝てなくなる。経済競争に勝てなければ国民の生活が貧しくなる。
この話は仮の話ですが、このように何故原発でなければいけないのかを一般庶民に分かるように説明をして、国民から承認を得て頂きたいと思います。そして国民がそれを承認した限りは、絶対はありえないのですから、こういう事故が起こっても仕方がないものと腹を括っておいてほしいと国民に告知すべきです。
利点も大きいけれども負の部分も大きいという事も明確に国民に告知する政治を行って頂きたいです。
そうすれば冒頭に書いたように事故が生じても文句を言うような人はいなくなるでしょう。
内橋さんはラジオで言っておられました。原発建設で現地の住民に説明に行きます。住民から「もし事故が起これば我々はどうすればいいのですか」と質問をされますと、委員会のメンバーは「今日は説明するだけでそういう質問に答える場ではありません」と言って突っぱねて原発建設を進めて行ったと言っておられます。そういう経緯を経て今の原発があると言われていました。
事故が起これは広範囲に被害が生じるのですから建設予定地の住民だけでなく国民全体に分かりやすく説明をして、国民から承認をされて建設すべきものではないでしょうか。今回の事故で離れていても対岸の火事では済まないことが明確になりましたので、今一度国民総意の議論が必要ではないでしょうか。
2011年4月3日日曜日
アカシアの花
アカシアの花が咲いています。
アカシアの花と聞くと私達の年代はナイスガイ裕次郎ではないでしょうか。
アカシアの花の下で あの子はそっと瞼を拭いた 赤いハンカチよ
恨みに濡れた眼がしらに それでも涙がこぼれて落ちた
アカシアと聞けば裕次郎を思い出し、裕次郎を思い出しますと若いときに遊んだことや別れた女のことを思い出します。
私達の若い頃は社会全体が貧しかったので女性は物凄くシビアでした。
どんなに好きでも結婚をする相手は、将来性のある人でお金持ちの人という考えを持っていましたのでよく振られました。
ところで裕次郎は北海道を舞台に歌っている歌が多く、カラオケではアカシアの花もよく出てくるのですが、そのアカシアはほとんどが偽アカシアのハリエンジュの花です、北海道ではハリエンジュの花をアカシアというのが普通なのでしょうか。
2011年4月2日土曜日
2011年4月1日金曜日
人生の思い出No1の附則その一
私達の子供の頃の食事をするときの食卓はちゃぶ台です。
円形で足は折り畳みが出来ます。
足を立てて折り返らないように木製のストッパーが付いています。
食事以外の時は部屋が狭いので足を折りたたんで部屋の隅に置いていました。
よくお笑いやドラマでちゃぶ台をひっくり返すというシーンがありますが、それがちゃぶ台です。
そのちゃぶ台が普及したのは大正から昭和にかけてと言われています。
それ以前は銘々膳です。
昔は銘々膳で食事を頂き終わればお茶か白湯でお椀をきれいで拭き取り、椀は其のまま膳に伏せて置いておきました。
お茶を習っている方ならお分かりだと思いますが、懐石を戴くときに最後はお茶か白湯を椀に入れて沢庵できれいに椀を拭ってから頂いて終わります。それは銘々膳が主の時代の名残の作法です。
銘々膳は月に2-3回まとめて洗っていたという事です。
これは水道のない井戸に頼っていた時代には水は本当に大切なものだったからではないでしょうか。
登録:
投稿 (Atom)