2011年2月10日木曜日
名古屋帯の起源
Dの写真の帯は名古屋帯と言います。
江戸時代の初期にロープ状の名護屋帯というものが一時流行しましたが、江戸時代の初期には廃れてしまい、帯は裂地(きれち)か布地に芯を入れたものが主流になりました。
因みに裂地というのは絹という意味で、布は麻とか木綿を意味します。
小袖(今のきもの)が中心の時代になるのは安土桃山時代からです。
小袖が中心の時代というのは貴賤を問わず普段は小袖姿で過ごすようになるという意味です。
その当初の帯の幅は2-3寸の細いものでした。
帯の幅が現在のように八寸位になるのは江戸の中期以降です。帯の幅が広くなったことによって帯によって上下に文様が分断されますので、小袖の模様が全体柄から肩裾模様に変化していきます。
そして帯は一般庶民は奢侈禁止令によって贅沢な織物を使用することを禁止されていましたので、専ら染めの丸帯か腹合わせ帯を使用してました。
Aは丸帯ですが、丸帯は一枚の布に芯を入れて仕立てたもので模様が全体に丸に通っているところから丸帯と言われています。
Cは腹合わせといいます。腹合合わせ帯は表と裏に異なった布を使用して芯を入れて仕立てたものです。
時代劇でよく見かける裏に黒繻子を使用し、表には文様のあるものを使用した腹合わせ帯は、昼夜帯と呼ばれていました。
帯結びはミス向き、ミス・ミセス共有の帯結びが結ばれ、武家風町人風と江戸の後期になりますと様々に結ばれていました。
文政6年(1823年)に東京の江東区にある亀戸天神(かめいどてんじん)のお太鼓橋の渡り初め式に、巽芸者と呼ばれていた深川の芸者衆が、男結びの一枚カルタに帯枕を入れて膨らませた帯結びをして渡り初めに華を添えました。その帯結びは太鼓橋に因んでお太鼓結びと命名されました。
当時はこれが江戸で一番新しい洒落た帯結びであるということで全国に広がっていきました。そして明治時代になりますと老若を問わず、帯結びはお太鼓結び一辺倒になっていきます。
それまでに結んでいた帯は腹合わせ帯が主流でした。腹合わせ帯は長さが1丈5寸~1尺くらいあります。それでお太鼓結びを結びますと二重太鼓になってしまいます。それを一重で簡単にお太鼓が結べるように、大正年間になって名古屋の女学校の先生がお太鼓結び専用の帯を考案しました。それが現在の名古屋帯です。名古屋の先生が考案したので名古屋帯と命名されました。
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