2010年5月29日土曜日
幸せに付いて
幸せということに付いて記しますと幸せの形は様々ある。100人いれば100の幸せがあると直ぐに突っ込みが入ります。
ならば幸せのいろいろな形というのは。100の幸せの形というのはどういうものなのでしょうか。
例えば、好きな人が出来た愛している愛されている、その人と結婚も出来た。毎日が楽しく嬉しいというのも幸せの一つと言えるでしょう。
念願の行きたいと思っていた海外旅行ができた「よかった、素晴らしかった、また行きたい」、そういう感じ方も幸せの一つに数えられると思います。
そういうものは挙げればきりがないくらいあります。そういう一つ一つの喜楽を幸せと称して、幸せには色々な形が有る、100の幸せがあると言っておられるのだと思います。
確かにそういうものを体得出来た時は、嬉しく、楽しく、幸せに感じることの一つであることはわかります。
好きな人が出来ました。結婚しました。毎日が楽しくてウキウキしています。それが続けばそれほど幸せなことはありません。しかし人間は自我が強く、その上に「飽きる」「慣れる」「忘れる」という本能があるから続きません。
若い人は自分の両親を見てください。かいもく会話がない、顔を突き合わせれば喧嘩ばかりしているという夫婦も少なくありません。
続かないから女性は子供の育児の方に情熱を注いでいくのですが、子供も大きくなれば親よりも友達や恋人の方が良くなり親元から巣立っていきます。
有る時期は楽しく幸せだった。だけどそういう時間は続かず、幸せに感じる時間よりも悶々としている時間の方がはるかに多い。それが一般的です。
旅行に行けた。また行きたいけど時間とお金の事を考えると暫くは我慢をして過ごさなければ仕方がない。これも一般的です。
どういう生き方をしていてもその人の人生には楽しい幸せだと感じる時は必ずあります。しかし刹那的に部分的に幸せだと感じたとしても、後は妥協と惰性と忍耐の生活を強いられる生活では、その人の人生は幸せであると言えるでしょうか。
私はそういうささやかな楽しみがあり、家族が元気で仲良く生活して行ければ、それで十分に幸せだという人がいます。それも一つの考え方ですが、そう言いながらも仕事は生活の為に辛くても我慢して勤めなければ仕方がない。そう考えているとすればそれは幸せではないでしょう。
それで仕事も毎日遣り甲斐があって楽しいというのであれは、それは素敵な人生で有ると言えますが、そういう人生を送っている人は幾人いるでしょうか。
幸せを論じる場合は、人生という長いスパンで考えて論じるべきだと私は思っています。
大人になって自立してから死ぬまでの間、毎日毎日が充実しているという生き方が望ましく、そういう生き方が出来て幸せな人生と言えるのではないでしょうか。
人間ですから嫌なとことや腹立たしいことは、毎日の生活の中で当然あります。そういう嫌なことがあっても、毎日の生活を嫌だと思うことなく前向きに生活して行けることが充実した生活と言えるのではないでしょうか。
幸せということを考える時は人生という長いスパンでどうであるかを考え、人間は欲望の塊ですから欲を追求して行きながら毎日を充実して生きて行く。充実した毎日を送っている人が幸せな人生を生きている人だと私は思います。
幸せの根源は喜楽です。幸せには喜楽の内容に対する理解というものが非常に大切だと私は思っています。
これは生きて行く根幹に関わっていますのでひつこく記します。
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