2010年4月26日月曜日

介護と支援


 妻は重度の知能障害者支援センターで働いています。
以前は養護学校と言っていましたが最近は支援学校というように変わってきています。
 妻とは結婚をしてまだ1カ月ですから妻の仕事に付いては全く分かりません.
生徒は仲間と言うそうですが、重度の障害を持つ仲間はどの程度の理解があるか聞いてみました。
 好きな人、嫌いな人、優しい人、怖い人は分かるそうです。力関係も分かるそうで自分より弱い人には稀に苛めもあるそうです。そういう点ではよく分かっているそうですが支援が無ければ生活していけない事は確かだそうです。
 当たり前のことで馬鹿かと言われそうですが、支援という点に付いて言えば、施設に来れている障害者だけでなく、施設に来れない人も多数いるのではないかと言う事です。
 仲間と言うそうですが、仲間の中には大きな声で怒鳴り散らすこともあるし、暴れて暴力を振るう人もいると言う事ですから、その度合如何によっては施設へは入れない人もいるのではないかと申していました。
 受け入れる方としては何とか手の施せる人でないと支援が出来ないでしょうから、施設に入れてない人もいるのかもしれませんね。
 妻の仕事は最近になって24時間体制になりました。土・日祭日と平日組に分かれて24時間体制で支援するのです。
 それまでは仲間は土・日祭日は家に帰っていたのですが、親御さんが高齢になって来られていますので、親がいなくなった時の事を考えて、仲間をそういう環境に慣れさせておくことが必須だという判断からだそうです。
 仲間も家に帰る事を楽しみにしていたようで、親御さんも子供と過ごせるのを楽しみにされていたそうですが、両者共に寂しくなり中には「帰りたい」と泣く人もいるようです。先を考えれば仕方がないことではありますが寂しいですね。
 ところで皆様方はそういう仲間たちと自分とは違うと思っていませんか。何も違わない全く同じなのです。
 私達も社会と言う器の中で多くに人に支えられて生きています。支えられて生きているという点においては仲間も私達も何も変わりはありません。
 二十歳になればどんな人でも法律的には大人になりますが、私は真の大人か否かは、自分が支えられて生きている事が理解できているか否かで区別しています。
 自分も支えられて生きていることが分かれば、ハンディーを背負っている人には自分以上に支えてあげなければいけないことが分かると思います。
可哀相などと言う同情論ではなく、自分も支えられているのだから支援の必要な人には厚く篤く支えて行く、当然の理屈です。
 障害を抱えている人は勿論の事、懸命に頑張って来た高齢者に篤く厚く支援の出来ない我が国は駄目ですね。

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