2011年5月22日日曜日
「江」を見ていての衣裳に付いて
公家の女房達は普段は袴を穿いて上に衣を羽織った袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。
公家の勢力が衰退し益々武家の力が台頭してきますと、公家社会の服制は簡略化されていきます。
室町時代になりますと袴を穿かないで小袖の上に衣だけを羽織る「はつき」という形が公服として認められるようになります。
権力者の武家の女房達はその「はつき」を最上の服として当初は用いていたのですが、桃山時代になりますと衣の代わりに小袖の上にもう一枚小袖を羽織って着る「打掛姿」または「かいどり」という姿を自分達の礼服として用いるようになります。
写真は「ねね」が織物の打掛を着ている姿と、「ねね」「はつ」「ごう」の着ている染に刺繍をあしらった打掛を掲載しています。
日本の染織の歴史を見ますと織物よりも、友禅が考案されて繊細な絵柄を写し出すようになる以前は織物の方が進んでいました。それは染方が草木染が主であるというところに原因であったろうと思います。
従って織物の打掛もあったことはあったのですが、小袖は本来は肌着、下着であったものから発達してきた衣服ですから、肌になじんで柔らかい材質のものご好まれました。
天正時代に堺では明から伝わった綸子、縮緬が織られるようになり、羽二重、綸子、縮緬が小袖の材質の主となります。打掛は小袖と同じく、柔らかくて肌になじみやすい綸子や縮緬に彩色をして用いることが主でした。
民放の大奥ものを見ていますと全員が金ぴかの織物の打掛を着ています。
あれは綸子地に染と刺繍を施した打掛を製作しますと別染めですから大変高額なものになりますので、安価に出来る化繊の織物を用いて形だけを同じにしているのです。
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